1989年の6月6日にフランスで腎移植をした12月のある日ドアをたたくのを耳にしたので開けると小包の配達人で当時の円に換算すると¥15,000、私には馬鹿にならない金額しかも誰からか分からない、配達人は受け取らなくてもいいといいましたが感の虫が働いて受け取りました。早速開けてみたら名刺が1枚入って何も書いてありませんでした。浜口先生からでした。中身はフランスの有名ブランドカルチエの100パーセントカシミヤでグレーのしゃれたスカーフでした。10万円はしたと思います。寒いパリで風邪を引かないようにと送ってくださったのでしょう。パリにいる間10年は毎冬愛用し帰国してからは新しく友人になった10歳上の詩人にプレゼントしました。彼が愛用したかは分かりません。今も先生らしいしゃれた贈り物と懐かしく思い出されます。シスコの先生から贈られた4x4cmのメゾチントのクリスマスカードも彼に上げました。私はあまり所有欲というものがありません。逆にもらうこともあまりありません。この話は一度ぐらいしか書かなかったと思います。

私が東京水産大学を5年かかって卒業して都落ちして実家に帰り近所の中学生10人くらい教えているところにこの田中君が訪ねてきました。歩いて襟10分ぐらいのところに大きな墓地があり彼の親友が渡米直前に交通事故で亡くなりその墓参りに訪れた帰り岩谷はどうしているか実家に寄ったというわけです。彼とは高校の同級ではなく美術部で一緒でした。彼は小学校のとき腎臓結核で2年休学し実際2つ年上で美術部でも難しい理論をまくしたてそれほど近しくはしてなかった。彼は早稲田の法学をでて東京の法律事務所で研修し実家に戻って司法試験を一人で勉強していましたが悪友が多く慶応の経済をでて外務省の国家試験をやはり家で勉強している同級生、親が全国で初めてスーパーマーケットの理論を実践し2年連続坪当たりの売り上げが一位の同級生と磐梯熱海温泉で徹夜のマージャンをやったりで外交官志望は父親に2階から一切合切放り出され追放されました。父親は旧制中学を出ただけで高等文官が受かり満州の郡知事にまでなり敗戦のときは上海で大きなホテルのオーナーだったそうです。帰国後金貸しになって財をなし書や墨絵をたしなみ江戸時代の日本刀を何振りももっていた趣味人で私は結構可愛がられました。田中君と7年ぶりで再開以来私の家か彼の家または駅前の友人経営の画廊喫茶とで週2,3回あってスーパーの同級生から冗談ですが「お前らホモか!」と言われるくらい一緒でした。私が野宿旅行で中耳炎になった時も毎日タクシーで街の耳鼻科に10日も通ったすべての金も彼が用立てました。その野宿旅行も絵描きを止めるかつづけるか考える旅で社長をやってる従兄に作品を¥25,000で買わせました。当時の、大学出の初任給が¥10,000くらいだったと思います。それで秋葉原でリ、ュック、雨合羽、シート、寝袋、飯盒など野宿旅行を揃えました。彼は私が必要な金は大抵揃えてくれました。友人が俺が貸したと言いました。父親の形見の銀時計を担保にしたりしてたようです。その彼が駅前の画廊喫茶の奥さんの妹婚約しました。喫茶店でも偶然よう会っていたので自然のなりゆき彼女の父親は郡山一の駅弁会社のオーナーで話はスムーズに決まりました。当時田中君は土地の資本で新しいデパートが開店間際でそこの人事課の課長待遇で働いていて本来腺病質な体でした。それが毎晩夜中の1時頃まで働いて何回か胃から出血があって休んだこともあったそうですが上役しか知らなかったようです。2週間後二人が結婚する日取りも決まり新婚生活を送る新居のアパートを一緒に捜す約束の日彼女が死んでいる婚約者を見つけます。吐血した血が呼吸腔に入っての窒息死でした。朝までバッハの管弦楽組曲のLPがカスカスッと回ってクレーの画集が開いてあったそうです。実に彼らしい死に方でした。私がそんなことがあった4年ご家内の電電公社で合理化の一端退職金が3倍支払うというニュースが入ります。母親は小学校の年金がありあと3年勤めてからと勧めましたが若木のいたり、それと田中君がいない郡山は砂漠のようでした。そんなこともあり軌道に乗った児童絵画塾と英語塾を4年で止め準備も整わないまま3ケ月で日本を後にしました。一番精神的にダメージを受けたのは家内です。外国で生きる語学力も無かったから着いて間もなくパニックになりました。しかしよく30年堪えたと思います。私の頑固な生き方家内を痛めつけ反面今日何とか版画家として通用できるようになりました。もし私が版画家になれなかったらフランスで自殺したでしょう。母親を苦しめその末に自殺、これほどの親不孝、配偶者不孝は無いでしょう。このことを思うといつもすれすれセーフと実にほっとします。「神は我を見捨てなかった」と。あの世で80年ぶりくらいで田中君に再会できるだろうか。17回不自由な体でパリにきて毎回作品2枚シートで50枚買ってそのあと画廊を開いた小人の塚原君も待っているだろうか。田中君が1977年に急逝して57年当時郡山で唯一クロワッサンをつくっていて画廊喫茶もやっていたパン屋で「クロワッサンとコーヒーは合うネ」耳に聞こえます。

先日近所に落雷があってテレビに閃光が走り消え2時間半でテレビも電気もつきましたがその後近所に住む別の姪がエアコンがあまり効いてないと言いました。寒暖計を見たら25℃でした。落雷でやられたのかもしれません。15年以上前にもっとすごい落雷があってエアコン3つ駄目になりましたが全部保険がかかっていて1台¥25,000が全部只で直してもらいました。目下エアコンの故障が多く9月2日まで待たなくてはならないので1週間屋根裏で過ごし寝ます。屋根裏のエアコンが機能してよかったです。もう一つ2階の和室にありますが今は洗濯物と衣類の山で寝るどころではありません。

2,3日前テレビでアラン.ドロンが88歳で亡くなったことを報じていました。今から2,3年前3,40分独占インタビューがありいい顔の老人にんっていました。若い時彼とベルモンドは二大人気スターでベルモンドは父親が有名な彫刻家、息子はF1のレーサーまあ上流の家柄でドロンはむしろ貧しい家の出で4年間ベトナムで兵役をつとめました。後年それが俳優に大いに役に立った、徹底的に服従することを学んだといいました。女優との間の息子は父親の映画を地でいくギャングを実際やって豚箱に入れられたり彼自身付き人を殺したともいわれましたが当時大統領ポンピドー夫人の計らいでもみ消してもらったなど週刊誌で報じられました。ベルモンドはスキャンダルもなく二人は対照的です。若い時はドロンに全く興味はありませんでしたがこのインタビューから興味持つようになり年取ってどんな顔になるかと思っていましたら私が思っていたいい顔になりました。彼は結構いろんな友人の経済的にも面倒みましたが皆裏切られたと語りました。唯一裏切らないのは犬だけで彼の好んだ脚の長い獰猛な種類はわからないがすでに亡くなった犬にはそれぞれ墓がありそれらの中央に彼が死んだあと入る立派な墓石が用意してあります。最晩年は一人だったのか世話する愛人がいたのかわかりませんが人間を信用できず犬だけ愛して逝ったのは彼らしくていいです。彼は親分肌というより孤独な殺し屋といったタイプで彼のような役者は出ないでしょう。彼は賞には恵まれませんでした。それでフランスの映画界は彼のために創設した特別賞が授与されました。賞というものに恵まれない優秀な小説家、アーチスト、音楽家などいるものです。太宰治も芥川賞をもらいたくて画策したと言われます。ドロンは「太陽が一杯」で金持ちの友人のヨットの雑役にやとってもらい美人の恋人や贅沢なもちものに嫉みジェラシーの感情をよく表現しています。彼の出自からきている感情なのかも知れません。後年世界の巨匠ヴィスコンテの名作「山猫」でドロンのフィアンセと彼の叔父役のバート.ランカスターが踊る場面にやはり嫉みとジェラシーを滲ませた秀逸な場面があります。あの悪役でデビューしたランカスターがヴィスコンテに起用されると黄昏が迫る貴族社会の最後の威厳と斜陽への寂しさをにじませた素敵な老貴族を演じています。若い時は作品そのものを見評価しましたが今は素敵な役者を見ていただけでいいです。頭が軟化すると何でもよくなります。そのうち「地下室のメロデー」「シシリアン」なぞやらないかと期待してます。