パリのマレー地区に居を定めて3年1973年だったか夕食を取って一休みして11時ごろ散歩にでたら近くの細い路地に明かりが灯っていてなんだろうと覗いたら日本人らしき男性がにこにこして入れというので入ったら30歳くらいの背は175cmくらいがっしりした体格鼻の下にひげを生やし戦国時代なら立派な武将だったろうなと思える精悍な感じでしたがいやに腰が低かった。1週間後に仕立屋の店を開店すると言いました。奥さんはフランス人で4歳くらいの娘がいるともいいました。フランスに来て4,5年たった感じでした。フランス人のところで働いたがうまくいかず自分で店を開いたといいました。その後2,3日して私たちのところに来ました。丁度家内が私の背中を揉んでいたときでした。彼は祖父が鍼と指圧をやっていて小さい頃からそれを見ているので自然とつぼがわかると言って私の背中を指圧してくれました。その間友人にもらって置いてあったアザリアの鉢植えを見て水が欲しいといって台所の水をかけて私は花の心が分かるんですといいました。その数日後開店の日お祝いにアザリアの鉢植えを持っていきました。沢山の人でにぎわい何人か鉢植えの花を持っていきました。1週間後店に寄ったら私たちのプレゼントしたアザリアの鉢と他の鉢がみな枯れていました。水をやるのを忘れていたのです。マサキさんってちとおかしいんじゃないかとふと思いました。回転から1年間は流行って流行って注文が沢山あり奥さんも企業で上の方で高級をとっていてすぐ大きなアパルトマンを買って食事に招ばれました。彼らにとって最高の時でした。私もコーヂュロイで上下を注文しました。仮縫いもして出来上がったら上着のボタンがきつくて閉まらないのです。彼はこれはボタンを閉めないで着るのですといいました。仮縫いで片方だけつまんだのでその2倍狭くなってしまったのです。1年過ぎたごろから顧客が去って収入がなく家のローンも払えなくなりあとで知ったことですがガス自殺をはかったそうです。奥さんは友人に再度やらないよう見張ってもらったそうです。すぐアパルトマンを手放しました。そして店は開店休業、私が用事で外にでると近くの小さいブラスリーのカウンターから声をかけお茶ご馳走するから寄っていけというのでよると岩谷さんはいいなあフランスで名が知られているんでしょうと1年前の自信とは裏腹実にしょげていました。戦国時代なら武将のような精悍な顔立ち骨格、京都出身で高校時代ラクビーと空手をやってたそうでフランス来たてのときカルチエラタンで格闘を演じたと奥さんが言ってました。父親は株の売買で食べている人らしく豊かな家とお見受けしました。きょうだいは弟がいるだけとも言いました。一度開店の数年前帰国したとき家にあったと高い香料の沈香の塊をもらいました。私はお香と香水が好きで日本に引き上げるとき家内の香水と私のとで20瓶は持ってきました。その中に1989年腎移植で入院中に国際企業コンサルタントで私の全作をもっている南ア連邦出身の友人が大きな香水を持ってきてくれました。今年で35年になりますが柑橘の香りは飛びましたがまだ良い匂いは健在で使っています。フランスの香水のあらかたは30年過ぎると極端に匂いがしなくなります。これは例外中の例外です。実はもう一つ30年たっても匂いが80パーセント残っているのがあります。パリの30年はお香を焚いて仕事をしました。精神の浄化に役立ったと思います。今も時々炊きます。話は横道にそれました。奥さんのベアトリスはマサキさんに一時日本に帰って休んでこいと言って帰します。そして実家で自殺して亡くなります。ベアトリス、娘、おばあちゃん三人で葬式に参列しました。その後一度三人を食事によんだのが最後でした。もしかしてマサキさんは家内のように統合失調症になっていたのかも知れません。あまりにも自信と失墜の差がありすぎます。私も本来は鬱になりやすい性質dせす。パリ時代一度抗うつ剤を処方してもらいましたが1錠飲んで捨てました。二人して精神科に罹ったらパリで敗退してしまうと、以来精神科医にかかったことはありません。その代り自分の精神状態は常に監視しています。最後に何が来ようと乗り切らねばと思っています。

 

最近ブログを書いて後で修正できなくなって不本意な文章になっています。姪も母親が入院し福島市からなかなかきてくれません。彼女にはケアーマネージャーとの相談はすべて老人ホームのことも任せてあります。

帰国して25年になりますがテレビで24年間はバク食いの番組に出会うと嫌悪感ですぐ切り替えました。しかしこの1年近くそんな番組に嫌悪を感じなくなりむすろ喜んで見るようになりました。それは多分この1年は家内がせっかく用意しても一箸も手を付けないことがあったり元気をすっかり失っていました。そんなときバク食いのバカ番組が結構元気づけてくれるのです。この頃は料理番組も興味があります。若い時のように焼肉などばかばか食べれたらなあと思い出しながら喜んで見ています。食欲を失うというのは生きる元気を失うことで昨夜テレビで小林旭がでていました。85歳なそうで肉を毎日沢山食べて筋トレをしてそれが元気の源なそうです。最近北島三郎は出なくなりました。同じくらいと思いますが。里見浩太朗も同じくらいですが元気です。私も歩けなく両腕の力が無くなりましたがこれから肉をできるだけ食べ運動器具の助けで体力を回復して最後の仕事、パリ30年の銅板画家としての自叙伝をを出版を実現したいと念願しています。

3,4日前日本橋蛎殻町にあるヤマサ醤油東京本店の一部を先生と奥さんの南桂子さんのミューゼになって25年以上になるそこの主任学芸員から部厚い封書が届きました。彼女は長らく先生最後のパリ時代の摺師を捜していました。当時先生は180年続いていたパリでもベスト3に入るアトリエルブランで刷らせていました。先生のパリ最後の摺師がなかなか見つからなかったというのはアトリエルブランが存在しなくなったということです。存在していたらすぐ消息は分かった筈です。フランスから引き揚げて25年パリの版画界もすっかり変貌したようです。一流画廊街のAv.マチニヨンも今はどうなっているのだろうか。かつて版画の画廊でにぎわっていたrue de Seineは私が居た頃すでに画廊が半分以下になっていました。

その先生の最後の摺師の一人は70歳で1973年に弟子としてルブランに入って1980年までいたそうです。私が自分のプレスで刷れない大作は1973年ごろまでルブ本店がランに居たタゼという名摺師の工房に頼んでいまして直接彼が先生の作品21点刷ったと言ってました。先生が1981年にアメリカでベスト5に入る本店がシスコにあるVorpal garalyと契約して移住したとき持参したのが最後期の傑作「西瓜」でした。それはカリフォルニヤ大賞を受賞され同時期シスコ市の鍵もおおいわゆる名誉市民になり土地の美大に寄付もされました。アメリカというのはすぐ才能を受け入れ大輪の花を咲かせてくれるようです。大リーグに世界から集まるのは一流には一流の待遇,すなわち大金を払うということです。この先生に一度も会ったことはありませんがカラーメゾチントを残し発展させるため情熱を燃やしています。はばかりながらメゾチント作家で私ほど先生のこと知ってる者はいないと思います。1978年だったか先生のご自宅で最初電話では15分とおっしゃったのが2時間になってその間桂子さは市場に夕食の材料を買いに出かけて帰ってきて我々がいてギョッとしました。その時先生は私の作品に器質的に似ているところを感じたきがします。以来半年に一度先生からお電話を頂くようになりました。この頃この主任学芸員も認識してくれるようになっています。これからカラーメゾチントをやる者が世の中から消えないためには経済的に応援しないとそれでは食べていけません。実際私も食べれませんでした。二人の姉が少し残してくれたので中断せずに78歳までメゾチントができました。先生は高く売れたので年間3作ちょっとで悠々といきられました。4版全部メゾチントでやったらたいへん時間がかかりメシは食えないでしょう。私は1971年に渡仏して腎移植で80日入院以外長期間制作を中断したことはありません。実にラッキーでした。それとパリのど真ん中にしかも17世紀の建物家主がその建物全部所有していて10ケ月家賃滞納しても御出されません。私も原版にメッキを発注できないときもありまた帰国して腎臓が悪化して帰仏できなくて家賃10ケ月滞納した時もおんだされませんでした。こういうところに34年いたからこそ50年メゾチントに沈潜できたと思います。今は歩くのと書く、描くことが困難ですが78歳まで現役だったことに感謝してます。また先生のミューゼの主任学芸員がこうしていろんなことを相談するようになって嬉しいです。年取ると忘れらることが案外一番怖いのかもしれません。これからも新しい心理上の経験に出会うことでしょう。