連日の猛暑でエアコンから噴き出す冷気もいまいちひやーっとしません。そんな時テレビのCMでエアコンと扇風機を併用することを教えました。すぐアトリエから大きな扇風機を持ってきて後頭部から40cmほど離して回したら1時間くらいして上半身が冷えてきました。きついほどですが我慢していたら頭の気分悪さがとれて来ました。バファリンを服用するより効きます。以来3日間これで猛暑をなんとか凌いでいます。あと8,9月の2ケ月点滴や救急車の世話にならないで過ぎることをひたすら祈っています。

来年あたり家内が先に老人ホームに入るようになるので二人で好きなものが食べられるのもこの1年と思ってまめにスーパーに行って昨日はところてんを買いました。山形産黒和牛切り落としが安く美味しいのでもっぱらそれで焼肉をして元気を維持しています。野菜は玉ねぎ、ナス、ゴーヤ、ピーマンなど。実に用意が簡単です。すき焼きも美味しいですが夏はやはり焼肉が一番です。ただ煙と匂いが残るので台所でしかやれません。何とか点滴もやらずに堪えていますが今後どうなるか予断は許せません。だからパリ時代の30年の記録をできるだけ早くまとめたいと思います。前回ちょっと触れたポール藤野さんについてあのように信心深く素晴らしい日本人画家はいないでしょう。フランス人のすごい友人が沢山いてその筆頭はシメトフさんといってミテラン大統領の建築家として右腕での右腕でセーヌ河に突きでた建築で有名な工業省を設計しまた中央市場跡を地上は公園で地下3階の商店その下はRERの郊外への電車の一大乗り換え場になっています。私たちの家から歩いて15分でその途中にポンピドー文化センターがありその中に現代美術間、図書館、シネマテーク、キャッフェレストラン、劇場などがありシネマテークには日本映画があると欠かさず行きました。日本映画祭が3ケ月やって毎日3本ずつやって「大菩薩峠1,2,3」弁当持参で全部見ました。1975年から1976年にかけて60歳の記念に13ケ月かけて全部手練りの油絵具を作って念願の被爆のキリスト磔刑三面作をつくりました。朝ベッドでうつ伏せになったら鼻血が2日出たくらい集中しました。その後70歳のとき「被爆の聖母子」これも手練りの絵具があらかた残っていて足したのは白、黒、コバルトブルーだけです。80歳のとき太平洋戦争の悲劇をアッサンブラージ的に描こうとしましたがエネルギーが無くなって藁人形同然で諦めました。本当に空っぽになりました。以来版画の小品1ケ仕上がりません。私は力を出し切ったと思います。浜口」先生は82までやられましたが最後の1.5x6.0cm4版刷りチェリーの作品は作品になりませんでした。仕上げる魂に力が結集できなかったのでしょう。作品になるにはエネルギーの集中が不可欠です。今の私にはパリ時代のスケッチをハガキにプリントして手彩色したりスケッチぐらいです。これがけっこぅ面白いです。とにかく頭が使えるうちにパリ時代の自叙伝を出版したいです。これが人生最後の仕事です。

麻田浩さんはお父上が日展系の日本画家、兄上が当時武蔵野美大の日本画科の教授で現代日本画家50人に常連の京都では有名な画家一家のご子息で最初画家を志さず同志社を出て会社勤めをしましたが画家への道を断ちがたく洋画家の道に入りました。そして公募展では一番難しいと言われる新制作の洋画部門の会員になり奥さん、幼い息子、娘を連れて1971年にパリにやってきました。私も同じ1971年に9日かけてシベリア経由で家内と誰も知らないフランスに到着しました。その後麻田さんとは出会うこともなく過ぎますが3,4年後あたりから版画専門のギャラリーのウインドウにasadaとサインのある見事な作品が額に入って飾ってあり日本人だなと焼き付きました。私の方もフランスで版画の取引と鑑定家として名のあるプルーテ家を友人と訪ね作品を12,3点預けてきました。半年ごくらいに引き取りにいこうと郊外の事務所を訪ねたら全部売れていてもっと持ってこいといわれ本格的に制作開始となりました。彼の父上も版画商で鑑定家、長谷川潔先生とも取引があったそうですが全部全部売ってしまったといいました。事務所には彼が結婚した時花嫁姿の胸から上の奥さんのポートレートをコンテとパステルで描いた5号ぐらい作品が飾られていました。フランスに来て3年でこういうラッキーに出会って思い切って渡仏したことを喜びました。そしてすぐ新作の20点を買うと申し出があり彼が引退するまで12,3年20枚ずつ買ってくれ1980年には移ったモンパルナスで結局3ケ月の個展をやってパリだけで1,200枚のポスターを貼ったそうです。そういうわけで着々私もパリの画廊で知られるようになり版画専門の画廊や東京で高島屋の言えば高島屋の角のショウインドウの真ん中に私の「assoupissument微睡」が1点だけ飾ってあって友人が知らせてくれ見にいきました。私の知らないところでどんどん発展していき不思議でした。麻田さんもぐんぐんパリの画商にとくにパリで有名な女流エデイターに気に入られ方々で個展、グループ展がありました。エデイターの顔は映画でモジリアーニの奥さん役をやった女優に似ています。それから数年たったあるとき私より15歳くらい上で東大の美学を出て渡仏して抽象画家になり奥さん共々フランスに帰化してフランス語の分からない日本人画家をずいぶん助けていたポール藤野さんが57歳で急逝しました。私たちもサンドニの焼き場に行きました。そこには北海道出身で2歳くらい若い女流版画家もいました。そうしたら彼女は麻田さんを私に紹介しました。麻田さんは驚いて一歩さがって「岩谷さんですか」と感動したようでこちらがびっくりしました。名家の出で3歳くらい上で私より知名度格からいってずっと上の人です。彼は赤いカブトムシに乗ってきていて私、家内、版画家を誘ってパリまで乗っけてくれました。丁度昼飯時で家内が簡単にスパゲッテイを作って会食しました。その後藤野さんに世話になった画家その他日本人だけの葬儀をモンパルナスの教会で神父は北九州市に18年いて教会を建立したデノワイエ神父にセレモニーをしていただいたとき麻田さんに受付をしてもらいました。その後一度も会うことなく彼は亡くなりました。ポール藤野さんの葬儀から1,2年後くらいに奥さんと子供が帰国その1,2年後7麻田さんも帰国、彼はB型肝炎にかかっていてだるくて仕事が大変と言ってました、「金粉まで飲みましたヨ」と私に言いました。帰国後京都芸大のデッサンの教師になり10年近く教鞭をとりました。その間一度手紙をもらいその中に「日本で私を受け入れるところはありません。「今京都芸大は渡辺恂三さんに譲り600号の作品に取り組んでいる」とありました。その数年後麻田さんが自殺したと耳にはいりました。大阪の大丸で入場料をとった大きな個展をしたあととのことでした。彼の版画のモチーフはしばしば砂漠と水玉が描かれていて砂漠は絶望、水玉は希望の象徴と言っていたそうです。また聖書もよく勉強されていたようでクリスチャンになったかはわかりません。養清堂画廊の阿部さんは私に麻田さんの版画を見たときこんなすごい作家がいるとショックをうけたといいました。今から10年ぐらい前偶然日曜美術館のアートシーンで京都近代美術館でやった麻田さんの回顧展の最後にその600号とおぼしき超大作が2,3秒映りました。オートメーションの工場のようにも見えました。工員はいませんでした。文明の未来に絶望するモチーフだったのかも知れません。

彼の弟分でドイツ人と結婚している私と同年の京都出身の南仏に住む版画家がいて仙台で個展があり初日に行って一緒にメシを食べ久しぶりで歓談しました。麻田さんの話が出ていつかご焼香に京都に行きたいといったら奥さんも彼の二年後後追い自殺をして息子と娘結婚しないで祖父の建てた大きな家で二人で暮らしているとのことでした。弟分の彼も6,7年前南仏で亡くなりました。息子が二人いて上はジョンダルメリ、軍隊に属する高速道路などを守る警察隊員、弟は漫画家でパリ在住、どちらか分かりませんがたどたどしい日本語で父親が亡くなったことを知らせてくれました。私はフランス語で丁重にお悔みを送りました。彼もドイツ人の奥さんが奇病にかかり車椅子直前までいきましたがすべて生食を実践して治ったそうです。その時どうしようもなくアルコール中毒になったそうです。日本人同業者みな苦労し乗り越えてきました。知り合いも一人一人居なくなりますがむしろ羨ましいくらいです。私が理想とする85歳は過ぎましたが千利休のように気合が入って逝きたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パリのマレー地区に居を定めて3年1973年だったか夕食を取って一休みして11時ごろ散歩にでたら近くの細い路地に明かりが灯っていてなんだろうと覗いたら日本人らしき男性がにこにこして入れというので入ったら30歳くらいの背は175cmくらいがっしりした体格鼻の下にひげを生やし戦国時代なら立派な武将だったろうなと思える精悍な感じでしたがいやに腰が低かった。1週間後に仕立屋の店を開店すると言いました。奥さんはフランス人で4歳くらいの娘がいるともいいました。フランスに来て4,5年たった感じでした。フランス人のところで働いたがうまくいかず自分で店を開いたといいました。その後2,3日して私たちのところに来ました。丁度家内が私の背中を揉んでいたときでした。彼は祖父が鍼と指圧をやっていて小さい頃からそれを見ているので自然とつぼがわかると言って私の背中を指圧してくれました。その間友人にもらって置いてあったアザリアの鉢植えを見て水が欲しいといって台所の水をかけて私は花の心が分かるんですといいました。その数日後開店の日お祝いにアザリアの鉢植えを持っていきました。沢山の人でにぎわい何人か鉢植えの花を持っていきました。1週間後店に寄ったら私たちのプレゼントしたアザリアの鉢と他の鉢がみな枯れていました。水をやるのを忘れていたのです。マサキさんってちとおかしいんじゃないかとふと思いました。回転から1年間は流行って流行って注文が沢山あり奥さんも企業で上の方で高級をとっていてすぐ大きなアパルトマンを買って食事に招ばれました。彼らにとって最高の時でした。私もコーヂュロイで上下を注文しました。仮縫いもして出来上がったら上着のボタンがきつくて閉まらないのです。彼はこれはボタンを閉めないで着るのですといいました。仮縫いで片方だけつまんだのでその2倍狭くなってしまったのです。1年過ぎたごろから顧客が去って収入がなく家のローンも払えなくなりあとで知ったことですがガス自殺をはかったそうです。奥さんは友人に再度やらないよう見張ってもらったそうです。すぐアパルトマンを手放しました。そして店は開店休業、私が用事で外にでると近くの小さいブラスリーのカウンターから声をかけお茶ご馳走するから寄っていけというのでよると岩谷さんはいいなあフランスで名が知られているんでしょうと1年前の自信とは裏腹実にしょげていました。戦国時代なら武将のような精悍な顔立ち骨格、京都出身で高校時代ラクビーと空手をやってたそうでフランス来たてのときカルチエラタンで格闘を演じたと奥さんが言ってました。父親は株の売買で食べている人らしく豊かな家とお見受けしました。きょうだいは弟がいるだけとも言いました。一度開店の数年前帰国したとき家にあったと高い香料の沈香の塊をもらいました。私はお香と香水が好きで日本に引き上げるとき家内の香水と私のとで20瓶は持ってきました。その中に1989年腎移植で入院中に国際企業コンサルタントで私の全作をもっている南ア連邦出身の友人が大きな香水を持ってきてくれました。今年で35年になりますが柑橘の香りは飛びましたがまだ良い匂いは健在で使っています。フランスの香水のあらかたは30年過ぎると極端に匂いがしなくなります。これは例外中の例外です。実はもう一つ30年たっても匂いが80パーセント残っているのがあります。パリの30年はお香を焚いて仕事をしました。精神の浄化に役立ったと思います。今も時々炊きます。話は横道にそれました。奥さんのベアトリスはマサキさんに一時日本に帰って休んでこいと言って帰します。そして実家で自殺して亡くなります。ベアトリス、娘、おばあちゃん三人で葬式に参列しました。その後一度三人を食事によんだのが最後でした。もしかしてマサキさんは家内のように統合失調症になっていたのかも知れません。あまりにも自信と失墜の差がありすぎます。私も本来は鬱になりやすい性質dせす。パリ時代一度抗うつ剤を処方してもらいましたが1錠飲んで捨てました。二人して精神科に罹ったらパリで敗退してしまうと、以来精神科医にかかったことはありません。その代り自分の精神状態は常に監視しています。最後に何が来ようと乗り切らねばと思っています。