終戦間際の昭和19年11月から翌20年3月まで日本軍はアメリカ本土に対し世界初の大陸間弾道兵器による長距離爆撃を行いました。


この兵器は、第9陸軍技術研究所・通称「登戸研究所」で研究・開発された「富(ふ)号兵器」で、和紙と蒟蒻糊で作られた気球に高度維持装置と爆弾投下装置を懸吊し、偏西風に乗り高度8000メートルから10000メートルを時速200㎞以上で飛行し、約50時間後に爆弾と焼夷弾を投下する「風船爆弾」で、作戦名を「富(ふ)号作戦」とされました。


「風船爆弾」は海軍がゴムを使った気球、陸軍が和紙を使った気球と別々に研究・開発をしていましたが、

深刻な物資不足の中非常に貴重で高価なゴムを使用していた海軍案は見送られ、より安価な和紙を使った陸軍案が採用され和紙製気球の生産が開始されました。


高高度を長時間飛行するには強靭で軽く気圧の変化による伸縮が無い事が必要で、この条件を満たしたのが日本古来の和紙であり、和紙を貼り付ける糊はゴム糊のようには重くなく軽くて強固、湿気に強く他の合成材料にも負けない蒟蒻糊でした。


開発責任者の草場季喜技術大佐は、糊の原料になる蒟蒻粉の作り方を条文化し群馬県その他の特定の地域の蒟蒻粉製造業者に配布し、粘り気を調べるために竹箸で挟んだ糊球が下へ滑り落ちる秒数を測る方法まで指示し品質を統一させ、女学生や女子挺身隊員らによる蒟蒻糊作りが始まりました。

気球の製作に必要な気球用原紙は大資本の洋紙工場なら規格統一・大量生産が簡単でしたが、高知県、福井県、岐阜県、愛媛県、埼玉県などに残っている和紙製造業者は限られており、大量生産には不向きな家内制で製造されていたため、1枚1枚の寸法も30種類以上、性質や強度もバラバラで規格が統一されていませんでした。

草場大佐は和紙の規格を大判2種類・小判3種類に規制し、和紙の原料となるコウゾの白皮作りと気球用原紙は地方の和紙産地、気球の製作には陸軍が接収した東京の日本劇場、宝塚劇場、国技館、有楽座などの娯楽施設が当てられ、蒟蒻糊作り同様に多くの女学生や女子挺身隊、百貨店・飲食店の女店員が動員され、完成した気球は千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の放球基地からアメリカ本土へ向け放たれました。


無誘導で風任せの大陸間弾道弾は約1万個が製作され実際に放球されたのは9300個、そのうちアメリカで確認された物は約360個で、未確認も含めると1000個近くがアメリカへ到達したと言われています。

この作戦でアメリカが受けた被害は小規模な山火事が起きた程度で大きな被害はありませんでしたが、心理的に受けた効果は非常に大きく、気球を使った細菌兵器による攻撃や日本兵のアメリカ本土潜入などが危惧され、この大陸間弾道弾対策に労力を注ぎ込む事になりました。


昭和20年3月10日、「東京大空襲」で国技館などの気球製作場が焼失し気球の生産が不可能になった事と、本土決戦準備のために「富(ふ)号作戦」は中止となり、そのまま終戦を迎える事になりました。



風船爆弾(Wikipediaより)
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帯より


直径10メートルの水素ガス気球は、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の3基地から飛び立った。

冬季8千メートルから1万メートルの上空を吹く偏西風に乗って、この兵器は時速二百キロ以上のスピードで飛行する。

約一万個製作され九千三百個が実際に放球されたが、戦果は不明に等しかった。

終戦時には放球基地および一切の証拠物件が焼却された。

国運を賭して厖大な国家予算と銃後国民の労役を犠牲にした風船爆弾を、昭和十九年、十七歳の時、目の当たりにした著者が徹底的に取材をして、積年の謎を解明する。



風船爆弾/鈴木 俊平/新潮社


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本書によると、「登戸研究所」で開発された兵器は開発順で「い」号兵器、「ろ」号兵器と「いろは」順に呼ばれる慣行があり、風船爆弾は32番目に開発されたので「ふ」号兵器とされ、風船の「ふ」と「いろは」順の「ふ」が偶然に一致したそうです。
また、Wikipediaによると、本来の呼称は「気球爆弾」であり、「風船爆弾」と言われるようになったのは戦後になってからだそうです。


あまりにも唐突な風景だった。

日本にしか存在しないものと勝手に思い込んでいた鳥居というものが遠く離れたサハリンにいまも残っていることに驚き、それまであまり考えてこなかった祖国、日本の過去というものを初めて突きつけられたような気がした。

だが、同時に、僕たちが教えられてきた「侵略」というたったひとことの言葉だけでは割り切ることのできないものを感じもしたのだ。

そして、「だったらほかの日本の元領土ではどうなっているのだろう」という素朴な疑問がわいてきた。


 以上本文より



「国境を越えてもっと北に行ってみたい」との単純な理由で、2000年8月にサハリン(樺太)を旅し偶然目にした鳥居をきっかけに、2001年8月の台湾、2001年末から2002年にかけての韓国・北朝鮮・竹島・中国東北部(旧満州)、2003年1月、2004年5月のミクロネシア(旧南洋群島)と、明治から昭和20年の終戦まで「大日本帝国」の統治下に置かれ、現在では外国となっている地域に残る「日本」を探す旅に出た著者の西牟田氏。


「大日本帝国」の一部だったこれらの地域では予想以上に日本語が通じ、日本統治時代の建物や建造物、保存状況は違いますが神道の象徴である神社や鳥居が残され「日本」が色濃く残っています。

また、日本に対する感情もそれぞれの地域で当然異なりますが、親日と言われる台湾でも日本人(日本)嫌いの台湾人(外省人?)や反日教育の韓国で大東亜共栄圏を肯定する韓国人と出会い驚いたようです。


実際に旅をしたのは10年以上前で本書の出版が2005年なので、著者が旅をした地域の現在の状況は当時と比べ変っていると思います。

この旅で出会った人々や建物・建造物、朽ち果てた鳥居や神社が現在はどうなっているのか気になるのですが、もう1度同じ場所を巡り続編として出版して欲しいです。


本書には旅をした地域の地図が掲載されており、位置関係を把握しやすくなっています。



内容(「BOOK」データベースより)

サハリン(樺太)の南半分、台湾、韓国、北朝鮮、ミクロネシア(旧南洋群島)、それにくわえて中国東北部(旧満州)。明治の半ばから昭和二〇年の終戦前後までの時代、それらの国・地域は「大日本帝国」と称していた日本の統治下に置かれていたという共通項を持つ。戦後半世紀以上たった今日でも、古くからかつて日本の領土だったそれらの国・地域には、日本語、日本建築、鳥居、神社、日本精神、残された日本人…と、さまざまな形で日本統治時代の痕跡=「日本の足あと」が残っているのだった。僕は、大日本帝国の領土だった各地に「日本の足あと」を探す旅を始めた―。戦後60年目のいま日本の過去をたどる禁断の旅の記録。


 僕の見た「大日本帝国」 教わらなかった歴史と出会う旅/西牟田靖/情報センター出版局


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1931年(昭和6年)10月の決行を目標に日本陸軍の幹部によって計画されるも未遂に終わった10月事件。

翌1932年(昭和7年)日本海軍の青年将校らが中心となり犬養毅首相を暗殺した五・一五事件。

この2つの事件以来、憲兵司令部は全軍で53名の要注意青年将校のブラックリストを作成し、軍当局は内地に置いておくと危険だと思われる青年将校を台湾軍、朝鮮軍、関東軍などの外地軍へ追放していきました。


型破りな言動や行動からブラックリストに名前が挙がり、建国されてまだ1年、匪賊や抗日ゲリラが各地に出没し治安が不安定だった満洲へ飛ばされた本書著者の後藤四朗氏(当時陸軍中尉)。


小倉の第14連隊所属だった後藤中尉は昭和8年11月に、匪賊の討伐や鉄道警備を任務とする満洲独立守備隊の中隊長として指揮を執る事になりました。


後藤中尉は小倉時代から「親の心・子の心」という簡単なモットー大切にしていました。

当時はどの部隊でも軍司令官や師団長などの難しい訓示がいくつも兵室に掲げられてあり、兵達は暗記させられ毎朝唱和していましたが、後藤中尉はそれらの訓示を全て剥がし「親の心・子の心」だけを教え込みました。

「親の心・子の心」というのは「親が子を思い、子が親を思う心を大切にする」という事を説いたもので、いくつもの難しい訓示よりも兵達が簡単に覚える事が出来るという理由からでした。

関東軍の特別査閲の際も、司令官の訓示を剥がし何を聞いても「親の心・子の心」としか答えない兵に激怒し訓示を掲げるよう怒鳴ってい査閲官に対し、「では、あなたが17もある訓示を言ってみてください。」と反論、査閲官は予想外の反論にあい訓示を言えるはずも無く、口をモゴモゴと動かし顔を真っ赤にし装具をガチャガチャ鳴らしながら部屋を出て行ったそうです。


読み書きができない部下に1対1で教える、部下を叱る事はせず「これはまずいな。」と本人が気付くように仕向ける、私的な制裁は禁止されていたにも係わらず「殴った本人は涙を流しながら相手を殴り、相手を思っての事でこれは私的な制裁では無い」と部下を庇い自身が重謹慎の処分を受けるなど、後藤中尉自身も「親の心・子の心」を実践し部下達からは父親のような存在として慕われていました。


後藤中尉率いる守備隊は、駐屯した村の住人からも信頼されていました。

中国人や朝鮮人の子供を集め兵隊さんが先生となり勉強を教え、入浴の習慣が無い村人や子供のために風呂を作り入浴させてやると、話しを聞きつけた村の婦人方や若い娘たちも入浴に来るようになり「姑娘(クーニャン)浴場」と呼ばれるようになったそうです。

また、匪賊の頭目を帰順させ協力体制を整え、村で大威張りしている不良邦人(日本人)がいると現地の人達が見ている前で制裁を加え改心させ、日本人だからと言って優遇はせず全員が平等である事を宣言するなど、現地の人達にも「親の心・子の心」を実践し信頼を得ていました。


憲兵や軍の上層部から睨まれていた後藤中尉は危険人物とされ、暗殺目標の対象として2度も命を狙われますが暗殺実行直前に部下たちが気付き、暗殺を阻止する事ができました。

この2度の暗殺未遂の件は後藤中尉本人は全く知らず、後になって部下から告白されて知ったそうです。


後藤中尉は中佐へ昇進し、昭和20年7月23日新たに編成された歩兵第321連隊の連隊長を拝命。

8月6日、山陰の大山付近で活動中に原爆投下の知らせを受け急いで広島へ戻ると、1週間にわたり部隊の全力をあげ負傷者の手当てと死体の処理にあたり、8月15日の.終戦となりました。


軍は天皇陛下より拝受した軍旗を敵へ渡す事は出来ないとして、終戦時に軍旗の奉焼を命令。

後藤中佐は拝受した軍旗と共に爆死を考えますが、中佐の気持ちを読み取った上官からの言葉で軍旗を奉焼せずに守る事を決意し、神道天行居(しんどうてんこうきょ)という施設に隠しました。


サンフランシスコ講和条約締結後、軍旗秘匿が公になり靖国神社遊就館へ貸し出す事になり、現在でも日本で唯一完全な姿で残されている軍旗として展示されています。



重謹慎 合計42日間

中尉から大尉は2期進級停止

内地に帰還を許されざる身分と宣告(外地勤務連続8年)

陸軍大学校受験禁止の関東軍司令官命令


部下からは信頼され慕われるも、軍上層部からは目を付けられ、陸軍将校の中ではトップクラスの「不良隊長」として名を馳せたへんこつ隊長の手記。



内容(「MARC」データベースより)

熱血派ゆえに要注意青年将校としてブラックリストにのり、中国大陸奥地に放逐され、国境守備隊長として各地を転戦。兵士たちからは慕われるが、重謹慎40余日の記録保持者。広島では被爆者救援にあたった、へんこつ隊長の昭和一代記。



軍命違反「軍旗ハ焼カズ」―陸軍へんこつ隊長手記/後藤 四郎/毎日新聞社


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香辛料を求め15世紀末から始まったヨーロッパ人による大航海時代。

東回りでインドを目指したポルトガルは喜望峰を発見しインドへの海路の開拓に成功、さらに東進するとインドネシアがある事を知り、インドネシア・マルク諸島で産出される香辛料がヨーロッパ大陸へ持ち込まれるようになりました。


16世紀末になるとインドネシアに注目をしたイギリスがジャワ島のジャカルタ付近に進出、イギリスの進出から少し遅れてオランダが進出してきました。

ポルトガル・イギリス・オランダの間で香辛料を巡る争いが繰り広げられ、まずオランダがイギリスを破りジャワ島の支配権を確立、続いてマルク諸島からポルトガルを駆逐し、1610年にマルク諸島のアンボンに東インド会社を置き、この東インド会社を通じオランダによるインドネシア(蘭領東印度)支配が300年以上にわたり続けられる事になりました。


1941年(昭和16年)大東亜戦争が始まり、翌1942年(昭和17年)オランダ主力軍がいるジャワ島へ日本軍が上陸、わずか数日でオランダ軍を降伏させ日本軍による軍政が敷かれました。


1945年(昭和20年)8月15日ポツダム宣言受諾により日本の敗戦が決定すると、スカルノやハッタなどのインドネシア指導者らは独立宣言を出し、オランダからの独立(ムルデカ)を目指し独立戦争へ突入。


日本軍政時、インドネシアの青年達は郷土防衛義勇軍「PETA」(ペタ)を組織し、日本軍の下で軍事訓練、精神訓話、体育訓練、実地訓練など日本式の厳しい訓練を受け独立に備えますが、日本の敗戦により「PETA」は解散。

しかし、その後のオランダとの武装闘争ではペタ出身者が大きな役割を果たす事になりました。


インドネシアが独立宣言をし、武装闘争を開始してから4年後の1949年(昭和24年)12月27日、国際世論の反発を受けオランダはインドネシアの独立を認めると、16の国と地域で構成されていたインドネシア連邦共和国へ主権が委譲され独立が実現し、翌1950年(昭和25年)8月、インドネシア連邦共和国は1つに統合されインドネシア共和国が成立しました。


日本軍のジャワ島上陸時にイスラム界の指導者の1人で、軍政開始と同時にバンドン市の教育部長に就任し、共和国成立後初のインドネシア首相となった モハマッド・ナチール氏。


アジアの解放を信じ、インドネシアの独立を願って行動をし、戦後ナラリア勲章を授与された第16軍宣伝部青年課長 金子智一氏。

タンゲラン青年道場や義勇軍練成隊で日本軍人と寝食を共にし、独立後22歳で国軍情報部門責任者、32歳で陸軍参謀長代行に就任した義勇軍小団長 ズルキフリ・ルビス氏。


敗戦後インドネシア側への譲渡を禁止されていた日本軍の武器をインドネシアへ渡るように工作し、インドネシア独立を実質的に支援をした第16軍作戦参謀 宮本静雄氏。



インドネシア独立に関与した4人の証言をまとめた1冊



ナラリア勲章・・・・インドネシア国家と民族に対して多大な貢献をした人物に与えられる最高位勲章


内容(「BOOK」データベースより)

蘭領東印度を占領した日本がもたらしたものは何か?敗戦後の日本軍が取った行動の意味は?インドネシアと日本の当事者4人の証言で綴る終戦時のドラマと知られざる真実。今、あの戦争の意味を問い直す。最後の親日国、インドネシア独立秘話。

ジャカルタ夜明け前―インドネシア独立に賭けた人たち/阿羅健一/勁草書房


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昭和20年8月15日の終戦により実施されなかった「神龍特別攻撃隊」 による「嵐」作戦。

「嵐」作戦実施予定だった8月17日より5ヶ月前の3月11日、「神龍特別攻撃隊」の攻撃目標だったウルシー環礁の米航空母艦群へわずか24機で特別攻撃を実施した部隊がありました。


黒丸直人大尉以下72名で編成された「梓特別攻撃隊」です。


「梓特別攻撃隊」は800キロ爆弾を積んだ双発・三座(操縦員、偵察員、電信員)の陸上爆撃機「銀河」で、鹿児島の鹿屋からウルシー環礁までの約3000キロ、約10時間を無休憩で飛び薄暮時(日没時)に体当たり攻撃を行うと言う過酷な任務を帯びた部隊で、「銀河」搭乗員は長距離の洋上飛行には不慣れなため、誘導隊と天候偵察隊に長距離飛行に慣れている第801海軍航空隊の「二式大艇」が当たる事になりました。


「第二次丹作戦」とされたこの作戦は偵察機「彩雲」のウルシーへの強行偵察の結果3月10日に実施される事が決定。

しかし、偵察情報の錯誤による出撃日の延期と出発時間の遅延、故障による「銀河」数機の脱落、飛行時間に対する見通しの甘さから日没後の暗闇の中での攻撃となった事など、いくつもの不運が重なり犠牲のわりには大きな戦果を挙げる事はできませんでした。

唯一1機だけが空母「ランドルフ」へ体当たりし、死者25名負傷者106名の被害を与えますが、ほとんどの機体が暗闇の中で目標を捉えられず島や海へ突っ込んでしまい、犠牲だけが大きくなりました。



「梓隊」は出撃した24機のうち8機がエンジントラブルのため途中で引き返す事になります。

ウルシーへ突入した16機のうち黒丸隊長機を含む5機が体当たりを断念してヤップ島へ向かいますが、うち1機が海へ墜落、3機が不時着時に大破してしまい、無傷だった1機に搭乗員全員を乗せ後日鹿屋へ戻りました。

そして数名が別作戦で再度出撃をし敵艦へ突入し命を落としました。

ヤップ島まで「梓隊」を誘導した「二式大艇」も不調だったエンジンが爆発、失速寸前のスピードを必死に維持しメレヨン島へ着水、機体は水没し潜水艦で救出されるまでの数カ月を飢餓の島で過ごす事になりました。



「銀河」の体当たり攻撃を受けた空母「ランドルフ」
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鹿屋の通信室や誘導の「二式大艇」搭乗員、戦果確認に向かった「彩雲」搭乗員は、攻撃隊突入時の通信を受信します。


「・・―・・ ・・―・・ ・・―・・」(全軍突撃セヨ)

「クラシクラシ」(暗し・暗し)

「ワレ・・・・・ニ突入セントス」

「クライクライデ・・・・」

「クライミエナイ・・・・」


最後の通信を残し若い隊員達は暗闇の中で散っていきました。




内容(「BOOK」データベースより)

米艦隊泊地への片道攻撃の実相!新鋭高速爆撃機24機を投じ、全搭乗員72名をもって敢行された過酷なるウルシー泊地攻撃のすべてを、内外の膨大なる資料を渉猟駆使し執念の取材を経て、戦争を知らない世代に伝える。証言で綴る書き下ろしノンフィクション。


梓特別攻撃隊―爆撃機「銀河」三千キロの航跡/神野正美/光人社


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本書では、攻撃を受けた米軍が「ランドルフ」へ体当たりした「銀河」搭乗員と、目標を誤りソーレン島へ突入した搭乗員の遺体を収容し、米海軍が丁重に栄誉礼をもって埋葬したと言う事実も明らかにしています。






義烈空挺隊


米軍が沖縄上陸前に攻略したサイパン島やテニアン島、硫黄島の飛行場へ強行着陸し、吸着爆弾や帯状爆弾、破甲爆雷でB-29の破壊や米軍の施設に対し破壊活動を行う部隊として編成された奥山道郎大尉以下136名の空挺部隊。

空挺部隊の輸送には諏訪部忠一大尉以下32名、九七式重爆撃機12機で編成された第三独立飛行隊があたる事になり、飛行隊隊員にはB-29を奪い日本に持ち帰るというB-29分捕り任務も与えられていました。


義烈空挺隊は訓練を重ね出撃を待っていましたが、サイパン・テニアンまでの中継基地となる硫黄島への空襲の激化でサイパンへの突入は中止となり、その後硫黄島が陥落し硫黄島への突入も中止となりまた。

米軍が沖縄へ上陸し北飛行場(読谷飛行場)・中飛行場(嘉手納飛行場)が占拠されると、義烈空挺隊の沖縄への出撃が決定。

飛行隊隊員もB-29の分捕りではなく、着陸後に奥山大尉の指揮下に入り戦闘する事になりました。


この作戦は、義烈空挺隊が北・中両飛行場に強行着陸し飛行場を占領、敵機の活動を封じている間に、陸海軍航空部隊は全力を挙げて沖縄付近の敵艦船を撃滅するというもので、義号作戦と名付けられました。


昭和20年5月24日、12機の九七式重爆撃機で出撃した義烈空挺隊は途中4機が故障などで引き返しますが、6機が北飛行場へ突入。

突入した6機のうち5機は対空砲火により撃墜されましたが、1機は強行着陸に成功し10名の空挺隊員・飛行隊員が飛び出し航空機9機を破壊、30機近くを使用不能にし、7万ガロンの燃料を炎上させ米軍に大きな損害を与えました。

撃墜された5機の空挺隊員と飛行隊員は墜落時に全員死亡、着陸した1機は3名が機内で死亡、飛行場で破壊活動を行った10名も全員戦死しました。


中飛行場(嘉手納飛行場)へ向かった2機も着陸に成功したと報告されましたが、米側にも中飛行場に関する記録は無く、本当に着陸できたのか途中で撃墜されたのかは不明ですが、着陸に成功し破壊活動を行ったとしても戦死したものと思われます。




奥山道郎大尉は出撃が決定すると次の遺書を残しています。


遺書

昭和20年5月22日

此の度、義烈空挺隊長を拝命御垣の守りとして敵航空基地に突撃致します。

絶好の死場所を得た私は日本一の幸福者であります。

只々感謝感激の外ありません。

幼年学校入校以来12年諸上司の御訓誠も今日の為のように思われます。

心成以て御恩の万分の一に報わる覚悟であります。

拝顔お別れ出来ませんでしたが道郎は喜び勇んで征きます。

二十有六年の親不孝を深くお詫び致します。 

   

            道郎

御母上様  
        



奥山道郎大尉辞世の句


 吾か頭 南海の島に 瞭(さら)さるも

 我は微笑む 国に貢(つく)せば



昭和20年5月24日の義烈空挺隊出撃時のニュース映像には、笑顔で飛行機に乗り込む隊員たちが映されています。

国のため、大切な人のために喜んで死地に向かって行ったのです。






「空の神兵」と呼ばれた日本陸海軍落下傘部隊


昭和17年2月15日、海軍は1月11日のセレベス島メナド攻略戦に海軍の落下傘部隊が参加したことを発表、その10分後、陸軍からも2月14日に陸軍落下傘部隊が参加したパレンパン奇襲作戦の成功が発表されました。


日本陸海軍の落下傘部隊は敵のど真ん中に降下して飛行場や油田を制圧、この捨て身の攻撃隊を称え「空の神兵」と呼ばれるようになりました。


著者の秋元氏によると、最初に「空の神兵」と呼んだのはセレベス島に住む人たちで、この地方には「白い馬に乗った神が北方からやって来て、インドネシアを開放してくれる」という言い伝えがあり、白い落下傘で降下して来た落下傘部隊が350年間支配していたオランダ人を追い払うのを見て、セレベスの人たちは「解放の神兵来る」と喜んだそうです。


海軍落下傘部隊は山辺雅男海軍中尉 を中心に昭和16年11月に各750名の横須賀鎮守府第一特別陸戦隊、同第三特別陸戦隊の2部隊が誕生。


陸軍落下傘部隊はは昭和15年末から落下傘部隊創設の研究を始め、昭和16年11月800名からなる挺進第一連隊が編成され、その後、挺進第二連隊・輸送機36機の挺進飛行戦隊と共に第一挺進団を編成し日本陸軍の落下傘部隊が誕生しました。


メナド、パレンパン、クーパンでの落下傘降下作戦は成功し発表されましたが、計画された全ての降下作戦が順調に実施されたわけではありませんでした。


開戦当初メナド降下作戦に引き続き予定されながらも飛行場の整備が間に合わず中止された、オランダ領ボルネオのバリックパパン降下作戦


ビルマの第五六師団の進撃に呼応し、退却中の中国軍の退路をたち撃滅を狙うも悪天候で中止となったラシオ降下作戦


陸軍500名、海軍300名、計800名の陸海軍連合落下傘部隊を降下させ孤立していた山崎部隊の救援計画を立てるも、昭和18年5月29日に最後の突撃をし全員玉砕をしたため中止となったアッツ島救援計画


東部ニューギニアのベナベナ地区に建設された10数箇所の飛行場の撃滅を狙い計画が立てられるも、この作戦には3万名の兵力が必要であるという事と戦局の変化から中止されたベナベナ降下作戦

ソロモンのモノ島へ潜水艦で密かに上陸し野ざらしにされている弾薬や燃料、飛行機に対し破壊活動を行い敵の反攻の遅延を狙うも、作戦部隊を乗せた潜水艦の撃沈と戦局の悪化のため中止されたモノ島S特作戦

などが実施されずに終わりました。


しかしその一方で、飛行場へ強行着陸し破壊活動を行う義烈空挺隊による沖縄への突入作戦など、戦争末期になると航空機による特攻同様生還見込みの無い作戦も実施され多くの若者が命を落とす事になりました。



義烈空挺隊で検索すると出撃前の隊員を撮影した写真を見る事ができます。

これから死地に赴くうというのに笑顔を見せる隊員達が写真に納まっています。

当時の日本人の強さを表しているのでしょうか。





帯より

日本陸・海軍落下傘部隊の誕生から終焉まで

メナド・パレンバン・そしてクーパンで成功を収めるまでの苦労の数々。実施されずに終わった幾多の作戦と準備。レイテにおける死闘の実態、沖縄での義烈空挺部隊の活躍など、まさに血と汗にいろどられた日本陸・海軍落下傘部隊の誕生から終焉までの知られざる事実を詳細に描く。



落下傘部隊・空の戦記/秋元実/R出版



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全長122メートル、全巾12メートル、排水量5,500トン、特殊攻撃機「晴嵐」を3機搭載し、

連続行動可能時間は約4カ月で地球を1周半航行可能という第二次世界大戦中最大の大きさを誇った日本海軍「伊400型潜水艦」


大東亜戦争末期になると、この巨大潜水艦「伊400潜」による米本土攻撃、そして大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河の攻撃が計画されました。


この計画の発案者は山本五十六連合艦隊司令長官と言われており、昭和17年に入ると軍令部を通じ艦政本部へ

「航空魚雷(780kg)1個または、800kg爆弾1個を積む攻撃機を複数機搭載し、給油無しに大西洋まで進出し、米本土東海岸大都市攻撃の作戦のできる長大な航続距離を持つ潜水艦を作れないか」

という要求があり、この要求は

「建造可能であれば、この潜水艦で数個潜水艦隊を編成して密かに大西洋へ進出、搭載の攻撃機を飛ばして、ワシントン、ニューヨークに爆弾の雨を降らせたい。」

と言う作戦を想定したもので、その中でパナマ運河攻撃の計画が持ち上がりました。

艦政本部では検討を重ねた結果「実現可能である」との結論を出し、「伊400型潜水艦」18隻の建造と潜水艦へ搭載する特殊攻撃機「晴嵐」の開発を進めました。


昭和17年後半になると、搭載機の発進と収容作業の問題、潜水艦の運用方法、実戦使用可能になるまでの期間の問題、そして発案者の山本司令長官の戦死で18隻建造計画が原材料発注済の5隻のみに縮小される事になり、昭和18年1月から19年2月かけ5隻の建造が始まりました。


このパナマ運河攻撃は昭和20年7月上旬から8月下旬に予定されますが、作戦に参加可能な「伊400型潜水艦」は1番艦の「伊400潜」と2番艦の「伊401潜」の2隻だけのため、「晴嵐」2機搭載から3機搭載に増やし、さらに水上偵察機1機搭載で現有の「伊13潜」・「伊14潜」を2機搭載に改造し、潜水艦4隻の第1潜水隊が編成されました。

潜水艦搭載の航空隊は特殊攻撃機「晴嵐」10機の第631海軍航空隊が編成され、司令官には「伊400型」と共に一体運用されるため第1潜水隊と631空兼任で有泉龍之助海軍大佐が任命され、パナマ運河攻撃に向け共同訓練に入りました。


しかし、沖縄が陥落し戦況が一段と悪化し米機動部隊が本土周辺で猛威を振るってくると、

「差し迫った戦局を打開するするのが先決である」としてパナマ運河攻撃は中止され、米機動部隊の前線基地であるウルシー環礁の敵航空母艦群攻撃に作戦が変更されました。


ウルシー泊地攻撃は「光」作戦と「嵐」作戦の2つの作戦からなっていて、

「光」作戦は、「伊13潜」・「伊14潜」の2隻が「晴嵐」の替わりに分解された高速偵察機「彩雲」各2機を積み込み、当時南洋群島で孤立していたトラック島まで輸送し、トラック島を基地にウルシー泊地を偵察するというもの。

「嵐」作戦は、「彩雲」の偵察でウルシー泊地の米機動部隊の状況を確認した上「伊400潜」・「伊401潜」から発進した「晴嵐」6機で奇襲攻撃(800キロ爆弾と共に体当たり攻撃)をかけるというものでした。


昭和20年7月11日「伊13潜」出撃、6日後の17日「伊14潜」がトラック島に向けて出撃しました。

2隻のうち「伊13潜」は到着予定日になってもトラック島に到着せず消息不明となりますが、

「伊14潜」は8月4日トラック島に到着し「彩雲」輸送の任務を無事に果たす事ができました。


「伊400潜」・「伊401潜」は有泉龍之助指令の名前を取り「神龍特別攻撃隊」と呼ばれ、最後の積み込みを終え7月下旬大湊を出港しました。

2隻は8月14日にポナペ島の南方で会同して打ち合わせをし、その後攻撃予定の8月17日に再び会同しウルシーの奇襲攻撃を実行する予定でしたが、8月15日の終戦により内地への帰還命令が発令されウルシーへの奇襲攻撃は実行されませんでした。


海軍総隊司令部から「一切ノ武器ヲ捨テ内地ニ向カウ、艦艇ハ檣頭ニ黒玉ト黒ノ三角旗ヲ掲揚セヨ」と指令があり、全ての武器弾薬・機密書類・魚雷・800キロ爆弾・爆弾と共に敵艦に突入するはずだった「晴嵐」を海中投棄し内地へ向かいました。


そしてトラック島で終戦の報を受けた「伊14潜」は大湊近海で、「伊400潜」・「伊401潜」は共に金華山沖で米軍に拿捕された3隻は相模湾へ回航され、3隻に対する研究と実験が終わった後ハワイ沖で目標艦として撃沈処分されました。


こうして莫大な費用と時間をかけて日本海軍最後の作戦に投入された第1潜水隊は、1発の魚雷を発射する事も攻撃機「晴嵐」を飛ばし米軍へ一撃を加えることもできずに姿を消す事になりました。


もし開戦時に「伊400型潜水艦」と「晴嵐」を運用できていればまた違った結果になっていたかもしれません。



軍令部・・・海軍全体の作戦指揮を統括する中央統括機関

艦政本部・・・造艦に関係する事務を掌った海軍の重要な官衙

檣頭(しょうとう)・・・マストのてっぺん

黒色三角・・・旗旒信号の規定で「ワレ降伏ノ用意アリ」という意味の降伏旗



内容(「BOOK」データベースより)

連合軍が驚嘆した規模と性能―攻撃機「晴嵐」三機を搭載、全長百二十二メートル、排水量五千五百トン、速力二十ノット。米本土東海岸を奇襲攻撃するために建造された超大型潜水艦伊400。日本海軍が起死回生の悲願をこめて構想したパナマ運河攻撃計画の全容と、“海底空母”と呼ばれた悲劇の潜水艦の生涯をつづる。


幻の潜水空母―帝国海軍最後の作戦パナマ運河爆砕/佐藤次男/図書出版社



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本書著者の佐藤次男氏は第631海軍航空隊に所属した元海軍中尉。

購入後著者紹介ページを見て気付いたのですが、福島県須賀川市出身でラジオ福島や福島テレビに勤務されていました。

偶然ですが須賀川市出身の方の著書を須賀川市の古書店で購入しました。




戦時中、日本の主要都市の無差別爆撃、広島・長崎への原爆投下など一般人虐殺に使われた米軍のB29爆撃機。

このB29爆撃機に乗り、東京空襲を空から見た少年がいました。



第一次世界大戦後から日本の委任統治領となり多くの日本人が住んでいたサイパン島


昭和19年に入ると米軍によるサイパン島への空襲が始まり、6月15日米軍が上陸し日本軍との激しい地上戦に突入しました。


3週間後の7月7日、この日の総攻撃を最後に日本軍の組織的な抵抗は終わり、日米両軍と島民に多くの犠牲を出したサイパンの戦いは7月9日に終了しました。


サイパン島を占領した米軍は日本軍ゲリラを掃討しながら飛行場を整備拡張してB29爆撃機による日本本土爆撃の準備を進め、生き残った日本人は収容所へ収容され内地への送還を待ちながら生活をしていました。


「米軍に捕まると殺される」と信じていた日本人達でしたが、米兵は細かい事は気にせず敵であるはずの日本人に対して親しく接し、特に子供には優しくし、厳しい日本兵とは違い親しみやすい米兵に子供たちはよくなついたようです。


少年“谷田のぼる”も米兵に優しくされた子供達のうちの1人で、米軍の攻撃で両親を失い1人でいたところを拾われ収容されました。


谷田は身寄りの無い子供達と少年探偵団を作り、夜は焚火をして野宿をしたり、偵察だと言って山や飛行機を見に行っていました。


何度も飛行場へ行くうちに整備兵やMPと仲良くなり、黒人の整備兵から可愛がられチョコレートや飲み物をもらうようになり、整備中のB29の操縦席に乗せてもらい操縦かんを握らせてもらったり、後部銃座に入れてもらい機関銃を握らせてもらったそうです。


年が明け正月も過ぎたある日、谷田を可愛がっていた黒人の整備兵が最後尾の射撃手とその日乗り込んだカメラを持った報道記者に頼み谷田を東京爆撃に向かうB29へ乗り込ませます。

そして、少年は空の上から東京空襲を目撃する事になるのです。


結局、谷田を乗せた黒人兵は営倉へ入れられ、その後遊びに行っても黒人兵はおらず飛行場へも入れなくなってしまいました。


身寄りのない少年を元気付けようと思い乗せたのか、それともアメリカの力を見せ付ける為に乗せたのか、黒人兵がなぜ東京空襲に向かう爆撃機へ谷田を乗せたのか本書では書かれていません。




内容(「BOOK」データベースより)


太平洋戦争末期、サイパンは米軍の猛攻にさらされ、玉砕の島として様々な悲劇の舞台と化した。陥落後、島の一少年を待ちうけていたのは、自国の首都東京を空襲する爆撃機に搭乗するという悲運だった…!綿密な取材を基に戦争の実相を鋭く描き出した渾身のノンフィクション・ノベル。


B29に乗った少年―サイパン玉砕の陰に/浜垣 容二/ 読売新聞社

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北大東島・南大東島と共に大東諸島を構成する沖大東島。

この沖大東島は「ラサ島」とも呼ばれ沖縄県那覇市の南西約400㎞に位置し、一番近い南大東島まで約150km。

現在のラサ島は在日米軍の射爆撃場として一般人の立ち入りは禁止されており、硫黄島同様「絶海の孤島」と呼ぶには相応しい無人島ですが、戦前・戦中は燐鉱石が採掘され、採掘会社の従業員2000人が暮らしていました。

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昭和19年になると、大東三島を攻略しそこから沖縄や南西諸島へ米軍が侵攻するのではないかと予想され、軍は本書著者の森田氏が指揮する中隊を守備隊としてラサ島への派遣を決定しました。


当時のラサ島には燐鉱石採掘の鯛尾産業株式会社(現在のラサ工業株式会社)ラサ島鉱業所と、中央気象台観測所、海軍の望楼がありましたが、戦闘のための装備や軍事施設は全く無く、米軍が上陸すれば玉砕が確実の「玉砕引当部隊」となりました。


昭和19年4月26日、森田部隊ラサ島上陸。

ラサ島鉱業所の従業員らは日の丸の小旗を振り、森田部隊を総出で出迎え歓迎、そして、陣地を構築するにもダイナマイト1本どころか、のみ1つ無い軍に大量に保有しているダイナマイトや各種資材、会社の医務室、空いた工員宿舎、集会所、人員を提供し全面的に軍に協力しました。
また、会社の代表者が全従業員を集めて「兵隊さんはこの島を守るために、命を賭けて召されて来ているのだから、将校であろうが二等兵であろうが、出会ったら敬礼をせよ」と訓示したという話もあったそうで、

会社側がどれほど軍に協力的だったかが伺えます。

そして、従業員の退島や食料の要請、一緒に演芸会を行うなど軍も会社側の好意に答えました。


会社側の協力で陣地構築、砲台設置など進み、万全の体制をとり米軍来攻に備えました。

ラサ島へは艦砲射撃と空襲が続き、一度だけ「いよいよい米軍上陸か?」という状況もありましたが、結局米軍の上陸は無く玉砕は免れました。


玉砕確実と言われた絶海の孤島へ派遣されるも、「部下達を傷1つせずに凱旋させたい、自分もそうありたい」という思いで住民と島を守った森田守備隊長。

終戦時、処分命令があったにもかかわらず、苦労に苦労を重ねた全隊員血と汗と涙の結晶を処分するには忍びなく、米軍の目を盗みながら持ち帰った18冊の陣中日誌を基にまとめた1冊。



内容(「BOOK」データベースより)

琉球諸島の最南端に浮かぶ絶海の孤島・ラサ島。太平洋戦争の末期、沖縄を含む本土防衛の最前線基地となったこの島を、玉砕覚悟で守りぬいた若き守備隊長と300名の兵士たちの胸うつ人間ドラマ。極限の世界で生命の貴さをうたいあげた不朽の名著の増補新版。

ラサ島守備隊記/森田 芳雄/河出書房新社

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