北大東島・南大東島と共に大東諸島を構成する沖大東島。
この沖大東島は「ラサ島」とも呼ばれ沖縄県那覇市の南西約400㎞に位置し、一番近い南大東島まで約150km。
現在のラサ島は在日米軍の射爆撃場として一般人の立ち入りは禁止されており、硫黄島同様「絶海の孤島」と呼ぶには相応しい無人島ですが、戦前・戦中は燐鉱石が採掘され、採掘会社の従業員2000人が暮らしていました。
昭和19年になると、大東三島を攻略しそこから沖縄や南西諸島へ米軍が侵攻するのではないかと予想され、軍は本書著者の森田氏が指揮する中隊を守備隊としてラサ島への派遣を決定しました。
当時のラサ島には燐鉱石採掘の鯛尾産業株式会社(現在のラサ工業株式会社)ラサ島鉱業所と、中央気象台観測所、海軍の望楼がありましたが、戦闘のための装備や軍事施設は全く無く、米軍が上陸すれば玉砕が確実の「玉砕引当部隊」となりました。
昭和19年4月26日、森田部隊ラサ島上陸。
ラサ島鉱業所の従業員らは日の丸の小旗を振り、森田部隊を総出で出迎え歓迎、そして、陣地を構築するにもダイナマイト1本どころか、のみ1つ無い軍に大量に保有しているダイナマイトや各種資材、会社の医務室、空いた工員宿舎、集会所、人員を提供し全面的に軍に協力しました。
また、会社の代表者が全従業員を集めて「兵隊さんはこの島を守るために、命を賭けて召されて来ているのだから、将校であろうが二等兵であろうが、出会ったら敬礼をせよ」と訓示したという話もあったそうで、
会社側がどれほど軍に協力的だったかが伺えます。
そして、従業員の退島や食料の要請、一緒に演芸会を行うなど軍も会社側の好意に答えました。
会社側の協力で陣地構築、砲台設置など進み、万全の体制をとり米軍来攻に備えました。
ラサ島へは艦砲射撃と空襲が続き、一度だけ「いよいよい米軍上陸か?」という状況もありましたが、結局米軍の上陸は無く玉砕は免れました。
玉砕確実と言われた絶海の孤島へ派遣されるも、「部下達を傷1つせずに凱旋させたい、自分もそうありたい」という思いで住民と島を守った森田守備隊長。
終戦時、処分命令があったにもかかわらず、苦労に苦労を重ねた全隊員血と汗と涙の結晶を処分するには忍びなく、米軍の目を盗みながら持ち帰った18冊の陣中日誌を基にまとめた1冊。