終戦間際の昭和19年11月から翌20年3月まで日本軍はアメリカ本土に対し世界初の大陸間弾道兵器による長距離爆撃を行いました。


この兵器は、第9陸軍技術研究所・通称「登戸研究所」で研究・開発された「富(ふ)号兵器」で、和紙と蒟蒻糊で作られた気球に高度維持装置と爆弾投下装置を懸吊し、偏西風に乗り高度8000メートルから10000メートルを時速200㎞以上で飛行し、約50時間後に爆弾と焼夷弾を投下する「風船爆弾」で、作戦名を「富(ふ)号作戦」とされました。


「風船爆弾」は海軍がゴムを使った気球、陸軍が和紙を使った気球と別々に研究・開発をしていましたが、

深刻な物資不足の中非常に貴重で高価なゴムを使用していた海軍案は見送られ、より安価な和紙を使った陸軍案が採用され和紙製気球の生産が開始されました。


高高度を長時間飛行するには強靭で軽く気圧の変化による伸縮が無い事が必要で、この条件を満たしたのが日本古来の和紙であり、和紙を貼り付ける糊はゴム糊のようには重くなく軽くて強固、湿気に強く他の合成材料にも負けない蒟蒻糊でした。


開発責任者の草場季喜技術大佐は、糊の原料になる蒟蒻粉の作り方を条文化し群馬県その他の特定の地域の蒟蒻粉製造業者に配布し、粘り気を調べるために竹箸で挟んだ糊球が下へ滑り落ちる秒数を測る方法まで指示し品質を統一させ、女学生や女子挺身隊員らによる蒟蒻糊作りが始まりました。

気球の製作に必要な気球用原紙は大資本の洋紙工場なら規格統一・大量生産が簡単でしたが、高知県、福井県、岐阜県、愛媛県、埼玉県などに残っている和紙製造業者は限られており、大量生産には不向きな家内制で製造されていたため、1枚1枚の寸法も30種類以上、性質や強度もバラバラで規格が統一されていませんでした。

草場大佐は和紙の規格を大判2種類・小判3種類に規制し、和紙の原料となるコウゾの白皮作りと気球用原紙は地方の和紙産地、気球の製作には陸軍が接収した東京の日本劇場、宝塚劇場、国技館、有楽座などの娯楽施設が当てられ、蒟蒻糊作り同様に多くの女学生や女子挺身隊、百貨店・飲食店の女店員が動員され、完成した気球は千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の放球基地からアメリカ本土へ向け放たれました。


無誘導で風任せの大陸間弾道弾は約1万個が製作され実際に放球されたのは9300個、そのうちアメリカで確認された物は約360個で、未確認も含めると1000個近くがアメリカへ到達したと言われています。

この作戦でアメリカが受けた被害は小規模な山火事が起きた程度で大きな被害はありませんでしたが、心理的に受けた効果は非常に大きく、気球を使った細菌兵器による攻撃や日本兵のアメリカ本土潜入などが危惧され、この大陸間弾道弾対策に労力を注ぎ込む事になりました。


昭和20年3月10日、「東京大空襲」で国技館などの気球製作場が焼失し気球の生産が不可能になった事と、本土決戦準備のために「富(ふ)号作戦」は中止となり、そのまま終戦を迎える事になりました。



風船爆弾(Wikipediaより)
あかべこのブログ




帯より


直径10メートルの水素ガス気球は、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の3基地から飛び立った。

冬季8千メートルから1万メートルの上空を吹く偏西風に乗って、この兵器は時速二百キロ以上のスピードで飛行する。

約一万個製作され九千三百個が実際に放球されたが、戦果は不明に等しかった。

終戦時には放球基地および一切の証拠物件が焼却された。

国運を賭して厖大な国家予算と銃後国民の労役を犠牲にした風船爆弾を、昭和十九年、十七歳の時、目の当たりにした著者が徹底的に取材をして、積年の謎を解明する。



風船爆弾/鈴木 俊平/新潮社


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本書によると、「登戸研究所」で開発された兵器は開発順で「い」号兵器、「ろ」号兵器と「いろは」順に呼ばれる慣行があり、風船爆弾は32番目に開発されたので「ふ」号兵器とされ、風船の「ふ」と「いろは」順の「ふ」が偶然に一致したそうです。
また、Wikipediaによると、本来の呼称は「気球爆弾」であり、「風船爆弾」と言われるようになったのは戦後になってからだそうです。