愛子さまが皇太子になるべき100の理由No.80
明正天皇(めいしょうてんのう、1624年1月9日 - 1696年12月4日は、日本の第109代天皇(在位:1629年12月22日〈寛永6年11月8日〉- 1643年11月14日〈寛永20年10月3日〉)。諱は興子(おきこ)。幼名は女一宮。
後水尾天皇の第二皇女。母は太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の五女の源和子(東福門院)。徳川秀忠と崇源院の外孫、在位当時の将軍徳川家光の姪にあたり、徳川家綱・綱吉の母方の従姉。徳川将軍家、ひいては三大幕府の将軍家を外戚とした唯一の天皇である。
どうするニッポン
明正天皇は7歳~21歳のあいだ、14年の在位期間でした。
在位期間中は婚姻せず、また次の後光明天皇に譲位した後も、生涯独身でした。
このことを証拠に、ダンケーカルトは
「女帝は生涯独身を貫かなければならないルールが存在する」
ということを主張します。
納得しないのは皇室テロリストだけでしょうね。
— 闇鍋奉行 (@hoyaminabe) October 26, 2023
現に、女性皇太子の段階からでも一人も結婚してません。
明正天皇は、この女性天皇非婚の原則があるから、嫌がらせで7歳で即位させられてます。21才で譲位後も、不自由で孤独な生涯でした。
こうして皇女は皇統と品位を守ります。
明正天皇は、この女性天皇非婚の原則があるから、嫌がらせで7歳で即位させられてます。21才で譲位後も、不自由で孤独な生涯でした
???
果たして本当に「非婚の原則」なるものが存在するのでしょうか。
確かに、女帝ともなると徳川家ですら、婿入りするには畏れ多い、という感覚があったとは思います。
しかしあくまでそれは状況証拠で、非婚ルールについて明文化されたものはありません。
何より、明正天皇は唯一の徳川家の外戚の天皇、です。
父である後水尾天皇は、何よりも徳川家のことを嫌っていました。(紫衣事件)
よって、徳川家の血筋を引く天皇は、明正天皇一代限りにしたい、という後水尾の強い意志が働いていたことは間違いないでしょう。
なぜ後水尾は明正に皇位を譲位したのか?
この歴史的背景を知っておけば、非婚のルールなんか関係ない、ということがすぐにわかります。
妥協の産物である明正への譲位
7歳である明正(女一宮:おんないちみや)への譲位は、
- 正室であり家康の孫である東福門院の顔を立てるため
- 金のため。(困窮していた皇室に徳川家の財を取り込む)
- 自分の思い通りに操るため
という理由からです。
とにかく徳川家にコケにされ続け、徳川家を嫌っていた後水尾ですので、突然の幼帝への譲位は、徳川家にとって強烈なカウンターパンチとなったようです。
当然、徳川家の血筋は明正天皇で終わりにするため、かごの中の鳥のように明正天皇を扱い、生涯独身を通させた、ということになります。
(以下余談)
ちなみに、明正天皇は後水尾の正室の子であり、直系の子、です。
明正天皇以降、嫡子による直系継承は昭和天皇まで行われませんでした。
明正~昭和まで、約300年もの間、非嫡出子(=側室)による継承が行われてきました。
側室がいないと、いかに男系による皇位継承が難しいか、明正天皇以降の事実を見ても明らかであることがわかります。
明正天皇のモチベーション
こうして、後水尾上皇の操り人形にされ、天皇となった明正天皇ですが、どのような人生を歩まれたのでしょうか。
さぞや、暗くツライ人生を歩まれたのでは?と考える人も多いと思います。
全然そんなことはなかったようです。
「葵の帝 明正天皇」を読んでみたのですが、史料が少ない明正天皇についてですので、幾分かのフィクションが入っていることを差し引いても、周囲の人からの愛情とサポートのおかげで、豊かな人生を歩まれたことが、とてもよくわかりました。
最も心に残ったのは、
明正天皇の存在意義は、母である徳川和子(東福門院)より
公武和合(こうぶわごう)
であることを徹底的に教え込まれたことです。
徳川家の血を引く明正天皇こそが、仲の悪い天皇家と徳川家を取り持つ象徴的な存在であり、日本に平和と安定をもたらすものとして、その所作や振る舞いなどを仕込まれました。
なお東福門院と後水尾は、天皇と正室なのに、めちゃくちゃ仲が悪く、男子の皇子:高仁親王が夭折(幼くして死去)したのも、後水尾が毒殺したのでは?というドロドロのエピソードもあり、なかなかに大変な血の争いがあったようです。
それでも、結果的に明正天皇以降、天皇家と徳川家の争いは沈静化し、5代将軍綱𠮷以降、安定した関係性が構築されていったのは、結果的に明正天皇の存在意義が大きかったからではないか、という見方もあります。
明正天皇が我々に問いかけるもの
さて、明正天皇達(元正、称徳)が生涯独身だったから、という理由で、愛子さまに皇位継承がなされる場合は生涯独身となるためかわいそう、というのがダンケーのロジックです。
全くのデタラメです。
徳川家を含め、当時の権力者達が「畏れ多いから」、という理由で婿入りさせなかったというバックグラウンドを見逃すべきではありません。
翻って現代はどうでしょうか?
民間人である美智子様が婚姻により皇室に入られ、浩宮様(今上陛下)、秋篠宮様、清子様を育てられました。
民間人である雅子様が皇室に入られ、愛子様を育てられました。
民間人である紀子様が、眞子様、佳子さま、悠仁様を育てられました。
同じように、愛子さまや佳子さまが、民間人である男性を婿として迎えることについて、畏れ多いから、という理由でNGとする風潮が現代にあるでしょうか?
私は、美智子さまや雅子さま、紀子さま、というリアルを目の当たりにして時代を歩んできたため、そのハードルはもはやありません。
それが嫁入りではなく婿入りだったとしても、です。
(変な人はイヤです、ぐらいです。)
一部のダンケーのみ、謎のルールを発動させて、かたくなに拒否しているだけにしか思えないのです。
明正天皇の時代から約400年たった今、皇位継承問題の解決の突破口が決まらず、日本が非常に不安定になっています。
明正天皇から、こう問いかけられているような気がしてなりません。
私という人間が存在したからこそ、公武和合が形成され、江戸の世に平和と安定に寄与しました。400年後の日本の皆さんは、皇位継承について、どうやって日本の平和と安定を保っていくのですか?
愛子さまが皇太子になるべき理由 その80
武家社会=男性社会ど真ん中だった江戸時代興隆期ですら、何の躊躇もなくあっさり直系の女性天皇を誕生させてしまう土壌があった。
女性天皇の即位に何のためらいもないのが、本来の日本の文化である。
女性天皇は生涯独身だから不幸になる?
皇統が本当に断絶してしまうことの方がよほど不幸なのでは?
どうする日本?
明正天皇からのメッセージである。