愛愛子さまが皇太子になるべき100の理由愛No.60

 

理由No.30 推古天皇からのメッセージ

理由No.36 皇極天皇(=斉明天皇)のリーダーシップ

理由No.40 持統天皇からのメッセージ

理由No.50 元明天皇からのメッセージ

 

ときましたので、No.60はまんをじして元正天皇について書いておきたいと思います。

 

(今さらですが、皇極天皇もキリ番にしておけばよかった滝汗)

 

 TODAY'S
 
1300年後熱視線を浴びまくる女帝

 

 

第44代 元正天皇

 

680年- 748年

(在位:715年- 724年)
 
父:天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子
母:元明天皇。
 
文武天皇の姉。
諱(いみな)は氷高(ひだか)皇女、氷高内親王。
 
それまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇
 
724年に甥の首皇子(聖武天皇)に譲位し太上天皇となり、25年にわたって聖武天皇を後見した。
 
 
 
 
 
 

元正天皇の在位中、歴史的には3つの大きな出来事がありました。

 

1.養老律令の編纂

藤原不比等により701年に制定された大宝律令のアップデートを開始しました。

 

2.日本書紀

日本書紀が元正天皇の在位中に完成しました。

 

3.三世一身法

農地の限定的私有を認めました。

しかし、あまりうまくいかず、のちの墾田永年私財法につながっていきました。

 

どれも日本の歴史において重要な出来事ばかりですね。

 

 

 

しかし、今この元正天皇が、2024年現在の皇位継承問題において、とても注目度を集めている天皇となっています。

 

その理由が、

 

  1. 唯一の女帝→女帝継承
  2. 中継ぎとしての即位
  3. 生涯独身だった

からとなります。

 

特に1は、女系継承でしかないのですが、男系固執派による激しい反論でつねにX上をにぎわしている状況です。

 

 

  1.女系継承?草壁皇子の存在について

 

715年に元明→元正に譲位による皇位継承が行われました。

それよりも26年前、689年に父である草壁皇子は亡くなっていました。

 

後世の感覚でみれば、689年と715年は大した差がないのですが、はたして当時、26年前に若くして亡くなった父親の存在を本当に意識して皇位継承を行ったのでしょうか。

 

参考までに、現在2024年から26年前(1998年)に亡くなった著名人に、宇野宗佑(うのそうすけ)氏がいます。

第75代内閣総理大臣 です。

 

現在の感覚でいくと、大分過去の人、ではないでしょうか?

 (宇野センセー、トバッチリすみません!)


そのように考えると、元明→元正への皇位継承時において、即位していない草壁皇子の存在は、はたして重要な情報だったのでしょうか。


私は、全然重要じゃなかったえーと考えます。

皇位にもついていない過去の人なんか、です。

 



715年の譲位の時、元明天皇はすでに55歳と、当時としてはかなりの高齢となっており、継承者を選定する必要がありました。

 

候補者は3人でした。

 

娘:氷高皇女

娘:吉備内親王(長屋王妃)

孫:首皇子

 

元明は、自分の血を引く3人のうちのいずれかに、なんとしても皇位継承をしたかったのではないでしょうか。

 

当時のルールである大宝令には

 

「凡そ皇の兄弟・皇子は、皆、親王と為よ。

女帝の子も亦(また)同じ」

 

と規定されていました。

(規定した時の天皇は文武太上天皇は持統です。)

 

この令に従い、「皇位」を女帝から女帝に継承したことが歴史の事実です。

 

草壁皇子の存在は、後世の「男系男子」をどうしても信じたい人たちによって、むりやりこじつけられたとしか思えません。

 

 

それでも自説を唱えたいのが、ダンケーカルトです。

 

 

 

 

 

 

オエーオエーオエーゲローゲローゲロー昇天昇天昇天

 

 

 

 

谷田川さん(X上でだけ有名な人)、ifの世界でご満悦のようです。

 

ダンケーがいくら自説を唱えようとも、日本人の感覚は、

 

 

皇族以外の男性と結婚して生まれた子が皇位を継ぐ「女系天皇」は「賛成」「どちらかと言えば賛成」が計84%

 

なのです。(2024年4月28日北海道新聞朝刊より)

 

 

 

 

  2.中継ぎとしての即位?

 

たしかに、元正即位の時点で、首皇子が9歳だったので、成長するまでの中継ぎ、と考えられているのが一般的です。

 

しかし、そうではない、というのが、義江明子さんの研究からの考察です。

 

 

元明から元正への譲位の時点で、元正の次が首と決まっていたわけではない。吉備・長屋夫妻(とその子)にも、十分に継承資格はあった。吉備は元明の子、長屋は高市と御名部の子で、夫妻はともに、天武・天智の孫にあたる。群臣の目から見て、藤原宮子を母とする聖武よりも、夫妻とその子は血統的尊貴性において明らかに優位にあった。

「女帝の古代王権史」p190 義江明子

 

 

中継ぎの定義として「次が既に決まっている」場合とすると、元正は中継ぎの定義には当てはまらないことになりますね。

 

 

女性天皇の価値を下げることに必死なダンケーカルトには、強烈なカウンターになりうる武器です。

 

 

 

 

 

  3.生涯独身だった

 

それまでの女帝は、既婚で未亡人となったうえで即位しましたが、氷高は即位時の36歳においても未婚でした。

 

理由は諸説ありますが、

「必要がなかったので興味がなかった真顔

のでは?というのが、結論になりそうです。

 

よくある説として、婚姻年齢(18歳)ごろに弟である文武が即位したため、将来氷高が即位する可能性を見越して、独身を通したのではないか?、があります。

 

ダンケーがよく、愛子天皇はいいけど、結婚はできないルールだ、というおかしなことを言う根拠に使われます。

 

全くのでたらめですムキームキームキー

 

 

たしかに、文武天皇は病弱でしたので、いつ皇位継承が行われるか不安定な状況ではありましたが、皇位継承候補は複数存在するのが通例です。

 

元正のケースで行くと、同じく元明の娘である「吉備内親王」及びその夫である「長屋王」も血筋としては十分に可能性がありました。(先ほど2で書きました)

 

つまり、元正が皇位を継承する確約は全くなかったので、「女性天皇は独身を貫く必要がある」というルールを証明する条件としては、不足しまくりです。

 

 

よって、単に婚姻への願望や執着がなかったからなのでは?という推論も十分に成り立ちます。

 

 

 

  艶やかで美しかった元正天皇

 

なお余談ですが、「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には、

 

「天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」

 

とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美しい」と記されています。

とても美人だったようです。

 

チラッ

 

 

 

 

 

愛子さまが皇太子になるべき理由 その60

 

1300年の時を超えて、元正天皇から我々に伝えるメッセージ。

 

「男系?女系?なぜ気にする必要があるのか?

私は、祖母である持統から、弟である文武、そして母である元明より皇位を受け継いだ。解釈によってどうとでもなる男系女系を区別するのではなく、天皇家からの血統の近さと、群臣(国民)からの推戴を元にした皇位継承を行うべきである。」

 

元正天皇の人生を見た時、女性が天皇になれない今のルールは、どう考えたって不自然としか言いようがない!