愛愛子さまが皇太子になるべき100の理由愛No.50

 

今回で第50回。100に向けて早くも折り返し地点に到達しました。

いつもいいねやコメントをいただきありがとうございます。

とても励みになっていますデレデレ

これからもよろしくお願いします。

 

100回目を迎える頃には、愛子さまの立太子が成就していればいいなと思います。

 

さて今回は、男系固執派にとっては不都合な真実でもある元明天皇について記しておきたいと思います。

 
 

 TODAY'S
 
子から母へ、母から娘へ

 

元明天皇が即位したのは707年。

先帝の文武天皇(元明の息子)の崩御に伴う即位でした。

その時、元明は47歳、文武は25歳。

 

わが子の死去という悲しみを乗り越え、

 

「遺詔により万機を摂る」

 

という詔を発令し即位しました。

 

めちゃカッコイイ!デレデレ

 

声に出して読みたい日本語だわ。

 

「遺詔(いしょう)により万機(ばんき)を摂る(とる)!」

 

バババーン!

 

 

 

元明天皇物語、はじまりはじまり~

 

 

 

  中継ぎではなくエースとして登板

 

子から母への皇位継承が行われたのは、後にも先にも文武→元明のみです。

 

なぜそのような継承が行われたのか?

 

それは、経験と実力を持ち、そして権力と権威を発動するにふさわしい年齢(47)だったからです。

 

元明天皇は、阿閇(あへ)と呼ばれ、草壁皇子の正妃でした。

草壁皇子は天武天皇と持統天皇の子、という超優良な血筋であり、持統天皇が世継ぎとして考えていたものの、689年に28歳で死去、そしてそこから既に18年が経過していました。

 

 wikiより

 

また、文武天皇の子、首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)も当時まだ7歳でしたので、当然皇位継承の対象外でした。

 

さらに、阿閇は若かった文武天皇の補佐として「皇太妃」という称号を持ち、世を統治していました。

 

文武天皇の在位時年齢は15歳~25歳、当時の基準としてはまだまだ若造ヒヨコであり、単独でリーダーシップをとることは不可能でした。

 

文武の15歳~20歳までは、持統「太上天皇」として共治し、持統が崩御した後は阿閇(=元明天皇)が文武の20~25歳までを「皇太妃」として後見しました。

 

こうして、実力も経験も兼ね備えた阿閇が、満場一致で即位したのでした。

 

 

なお、この時から1,300年後の現代のモノサシで、元明天皇は聖武天皇までの中継ぎだった真顔、と言いたがる人達がいます。

 

男系固執派=ダンケーカルト です。

 

 

 

 

歴史のことを何も知らないタワケが!ムカムカ

 

としか言いようがありませんむかつき

 

 

6~7世紀以来の長老男女即位の慣行に照らせば、持統から元明へ、長老女性の執政は途切れることなく続いています。

このことが、7世紀末に新たな方向として導入された年少男性の即位と治世を支え、律令国家形成期の王権の安定を実現していったと言えます。

(義江明子著「女帝の古代王権史」p179

 

この時期、持統太上天皇のリードで大宝律令(701年)が制定されました。

 

若き文武天皇を支えた持統が、自らを「太上天皇」として共治し、実力を備えた阿閇(=元明天皇)を「皇太妃」として後見させ、女帝がリーダーシップを取り、この奈良時代を治めていたのです。

 

そして、さらに決定的なのが、「女帝の子」規定です。

 

皇族の身分・範囲を定めた継嗣令皇兄弟条

「凡そ皇の兄弟・皇子は、みな、親王と為よ。<女帝の子も亦同じ。>以外は並びに諸王と為よ。・・・・」

この条文に対して、帝京大学名誉教授・文学博士の義江明子氏

 

これはすなわち、女帝の子も「親王」として皇位継承資格を持つことを意味する。すなわち、日本令の本柱は、女系天皇の即位を容認する規定なのである。

と解説しています。 「女帝の古代王権史」p172

 

男系女系論争は「女帝の子も亦同じ」の文言で終止符が打たれるのではないでしょうか。

 

愛子天皇、そして愛子天皇の子が皇統を引き継いでも全く問題なし!という結論にしかなりませんね。

 

「太上天皇」

「皇太妃」

「女帝の子」

 

この3つのパワーワードで、古代日本をリーディングした持統天皇、元明天皇の時代こそ、まさに大女性活躍時代、だったのです。

 

な~にが中継ぎじゃ!

(; ・`д・´)プンスカプン

 

 

  元明天皇の偉業

 

即位した元明は、藤原不比等をサポート役につけ、

 

・和同開珎の発行

・古事記の完成

・平城京造営/遷都

 

といった施策を進めました。

 

 

おお。

めっちゃメジャーじゃないですか!

 

なんと立派な平城京。せんとくん!

 

すごいな!元明天皇!

 

 

 

  娘への皇位継承

 

ダンケーカルトにとって不都合な真実となる出来事が起きます。

 

715年 55歳となった元明天皇は、熟年の娘/氷高(36歳)に譲位しました。

 

第44代 元正天皇です。

 

58歳で没した持統を見つつ、自身の年齢を考慮した結果でした。

 

文武の子、首皇子はその時まだ15歳ヒヨコ

 

娘氷高に譲位して、自らの後見のもと統治経験を積ませ、自分の没後の首育成を委ねようと考えるのは、ごく当然のことだった。(同書 p184)

 

いわゆる 女系継承 が行われたのです。

 

ここでも、ダンケーカルトは、元正天皇の父は草壁皇子だから男系継承だ!という論陣を張ってきます。

 

 

何度でも言いますむかつき

歴史のことを何も知らないタワケが!ムカムカ

 

 

この皇位継承が行われたのは715年。

草壁皇子が死去したのが689年。

 

26年も前に死去し、しかも天皇になっていない草壁の血筋が決め手になったのではありません。

 

そんなことをありがたがって皇位継承したのではなく、

 

皇族の身分・範囲を定めた継嗣令皇兄弟条

「凡そ皇の兄弟・皇子は、みな、親王と為よ。<女帝の子も亦同じ。>以外は並びに諸王と為よ。・・・・」

この大宝令内の継嗣令の条文に従って、皇位継承したのです。

 

1,300年後のモノサシで見たら、草壁皇子が光り輝いて見えるのでしょうが、後世の感覚で歴史をみると判断を誤ります。

 

「皇位」は「母」から「娘」に引き継がれた。

 

 

これが女系による皇位継承です。

 

 

 

 

 

愛子さまが皇太子になるべき理由 その50

 

学説としても女系継承はあったとされる以上、女系天皇を認めると日本が滅びる、というのはもはやカルト思考による妄想でしかない。

 

皇位は皇統に属する子孫が継承せよ。

男女の別、男の系統のみに固執するのは愚の骨頂である。

 

愛子さまを皇太子に。

 

元明天皇からのメッセージである。