愛子さまが皇太子になるべき100の理由
No.30
日本の歴史において、最初の女帝は推古天皇です。
在位期間は35年、と異例の長さを誇っています。
これがメチャクチャ長い在位期間、というのは、、、どうですか?
ピンときますか?
我々は、昭和天皇が63年在位された時代を生きていたはず(笑)ですので、そんなに長くないんじゃない?って思うかもしれませんね。
【図解・社会】在位期間が長い天皇(2019年4月):時事ドットコム (jiji.com)
なんと、メチャクチャ長い方なんです!
記録が信頼できる7世紀以降の天皇93代の歴史の中では、第6位。
![TODAY'S](https://stat100.ameba.jp/ameblo/entry_designs/v1/sources/assets/limited023_heading.png)
ガラスの天井を突き破った女帝
『日本書紀』には、推古天皇について「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」と記されています。
輝くような美人だった、ということでしょう。
そして、容姿だけでなく、とんでもない実力の持ち主だったのです。
「中継ぎ」論は男系固執派のバイアスだった
私は昭和の終わりごろ、1980年代後半に小学校で教育を受けました。
推古天皇はおまけで、主役は聖徳太子(厩戸皇子)。
彼が摂政として政治の実権を握り、和を持って貴しとなす、といった十七条憲法を作った、と覚えたのではないでしょうか。
さらに、豪族で有力者だった蘇我馬子。
彼も後ろから推古天皇を操っていた、というストーリーが一般的でした。
しかし、2000年代の研究によって、それは『政治はずっと男性が担ってきた』というバイアスがかかった虚像だった、という事がわかってきたのです。
帝京大学名誉教授の 義江明子氏 は以下のように述べています。
「日本書紀を虚心に読めば、双系的な継承がありえたことや女性が政治力を持っていたことを示す記述が実はあちこちにあります。推古天皇がリーダーとしての統治力を認められていたことや、『実際に統治を担っていたのは推古でなく蘇我馬子や聖徳太子だった』とする説が疑わしいことも分かってきました」
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簡単に要約すると、、
・厩戸皇子は推古即位時はまだ10代で、実権を握れるわけがなかった
※推古天皇はその時39歳。当時は天皇として最適な年代とされていた。
・蘇我馬子は推古天皇のたった2歳上の叔父。裏で操れるような年齢差ではなかった。
推古と馬子、二人は緊密な同志、というべき関係だった。
・推古天皇は、蘇我馬子と厩戸という2人の力をうまく活用した統治者だった
女性の天皇はただの飾り!政治を担っていたのは男性!
と声高に主張する人は、もうほとんどいなくなったようです。
では、なぜそこまで推古天皇がリーダーとして認められていたのか?
それは、ものすごいエピソードの数々!を見れば明らかになります。
「姧」そうとした穴穂部を撃退
姧す。
やらしい漢字
読み方はよくわからんが、そういうことなんだろう。
当時は、男女の合意による性関係が即「婚姻」であり、女性の合意がない場合に「姦/姧」とされたのです。(関口裕子「日本古代における「姦」について」)
推古天皇は、先代:敏達天皇の后で、5男2女をもうけていましたが、敏達天皇が亡くなった後、敏達の異母弟である「穴穂部:アナホベ」に姧されそうになったのです。
これをバシッと拒み、事なきを得たようです。
カッコイイ!
なお、穴穂部は単なる性欲ではなく、権力のため推古天皇との婚姻を望んでいたようです。
先代:崇峻天皇の暗殺
先々代:用明天皇が亡くなった後、推古&馬子は、「丁未の役」にて、穴穂部をぶっ殺しました。
カッコイイ!
その後、推古は即位せず、推しの崇峻(すしゅん)天皇を即位させました。
が、、
しかし、全然使えず、馬子の悪口も言うヤツだったので、歴代天皇としては最初で最後、なんと臣下によって「暗殺」されてしまうのです。
普通、推しメンがそのようなことになったのであれば、激怒して取り乱したりするはずですが、、
全然そんな記録もそぶりもなく
スッと自ら天皇に即位してしまったのです。
推古天皇、絶対怪しい。。
重要人物にバンバン自分の子を娶(めあわ)せる
推古天皇は、自分の次を見据えて積極的な婚姻策を展開しました。
厩戸皇子もその対象で、執拗といってよいほどに、自分の娘、孫娘を娶せていきました。
しかし、結局はうまくいかなかったようです。
もしこれがうまくいっていたら、女系継承がバンバン行われていたはず、でした。
隋の煬帝にタイマンはる
これは超有名なエピソードですよね。
推古天皇は、小野妹子を遣隋使として派遣し、煬帝に対して
日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す
といった書を送り、ブチギレさせました。
自分より下に見ていた倭の国の王と同等、と読み取れる内容だったからです。
隋の皇帝からすれば「無礼」極まりない行為です。
しかし、反省した推古天皇は、このあと、倭国は独自の君主号の在り方を模索していくことになります。
史上初の「天皇」は推古天皇
隋の煬帝を怒らせてしまったことを反省し、次の回の遣隋使の国書では
「東の天皇」
とあったようです。(『日本書記』推古16年9月11日条)
つまり、わが国で最初の天皇は「女性」だったのです。
一貫してシナの柵封体制に再び組み込まれることを拒否し続けている外交姿勢は、まさに誇り高き一国のリーダーの姿そのものです。
まとめ
他にも、
・十七条の憲法の制定
・冠位十二階の導入
・新田などの開発
・仏教を国に広めた
・朝鮮半島への軍事行動(新羅征討)
など、数々の偉業を成し遂げた推古天皇。
中継ぎどころか、史上最強のトップリーダーじゃないのか?という実績です。
なぜ、彼女がここまで活躍することができたのか?
それは、そもそも、日本がシナの影響を強く受ける前までは、男女同権、もとい、性別に寄らない実力主義が当たり前の世界だったから、です。
蘇我馬子、厩戸皇子、といった、有能な男性をも手下につける魅力が、推古天皇には備わっていたことも、偉業を成し遂げるには不可欠の要素だったのでしょう。
「当時の王権内部は、日本という双系的な社会の一部でありながら、父系である中国の影響も受けざるをえない、複雑な状況にあったと私は見ます。その中にあって推古は、自らの統治力を証明していくことで天皇への道を切り開きました」
「推古は36年にわたって君主の地位を担い続けました。没後の約150年間には実に7代5人の女性が即位しています。男性天皇と女性天皇の数がほぼ同じという特筆すべき『女帝の時代』を切り開いた。今の言葉で言えば、推古はガラスの天井を打ち破った存在だったと私は思います」
上記記事 義江明子氏の解説より。
愛子さまが皇太子になるべき理由 その30
推古天皇は、自らの魅力と資質により、有力な豪族である蘇我馬子と優秀な厩戸皇子を味方につけ、新たな日本の歴史を切り拓いた。
愛子さまは、聖域である皇室で「現代における最高の愛情」を今上陛下と皇后陛下から一身に受け、まごうことなき次期天皇として国民の目の前に堂々と姿を現した。
現代の主権者である「国民」を味方につけた今、愛子さまには次代の天皇として立太子される日が待ち受けていることだろう。
男系固執派が作り上げたガラスの天井を打ち破れ!
推古天皇からのメッセージである。