新調したPCの動きがすばらしく速い。サクサク動くという表現に、久しぶりに再会した気がする。しかし、PCを置ている部屋の中は配線まみれで混沌としている。複雑なシステムを構築しているわけではない。入れ替えずに、旧があるところに新を重ねているからこうなるのである。それぞれに生えている配線は絡まりあって乱れを主張する。植物のように実をつければうれしいのだが、不快感以外は芽生えてこない。部屋の隅に蓄積された綿埃も、共鳴されて主張しだす。掃除をするほどの元気はない。この状態がしばらく続くことを覚悟する。PCのセットアップは大したことをしているわけではないが、気が付けば時間が過ぎている。怠けているわけではないのに、時間と実績の割合があっていない。何事にしても最近そう感じることが多くなった、自身の能力問題なのだろうが、劣化し始めているのであれば悲しい。

 楽譜に書かれた五線譜の音符を読んでいる間に、楽曲は先に進んでいる。どうすれば処理能力を上げられるのか。PCのように費用をかければ解決できるのかもしれない。投資できるほど財力に余裕がないことが悲しい。反復練習で小さくステップを踏む。

 拗ねていると自覚できるようになってきた。今までは感情に支配されていて、そんなことすらも解からなかったと思う。

だからといって、崇高な人になれたわけではなく、自分のスケールで描いた暴力をまき散らしている。頻繁にそんなことを繰り返しているのだから、狂人だと思う。

 スマートフォンの普及に比例して、嫉妬心は大きく成長してきた。気が付いたら、スマートフォンの画面に集中して、自己顕示欲の塊を探し続けている。便利なもので、探すまでもなく自動的に途切れることもなく再生してくれる。この時間を見直すのが最近の課題である。後悔が先に立つこともなく、反省の繰り返し。どうしたものかと考えても、端的なアイデアしか浮かばない。今ひらめいた、バッテリーの容量を小さくするのはどうだろうか。これも端的だと思う。

観るものを変えればいいのかもしれない、他人の不幸や悲しみを好んで見る趣味はない。ふりだしに戻って自慢投稿を観ることになる。

 他人に自慢できることはないだろうかと考える。大衆からとびぬけているものは何も持っていない。それでも他人と呑んで喋れば、非常に小さな自慢話になる傾向にある気がする。だから人はお互いに嫌気がさしてくるのかもしれない。飛びぬけたもの以外は、自慢してはいけない社会ルールはないし、相手の受け取り方で自慢の定義も変わる。小さな問題かもしれないが、酔いが醒めているときは反省してしまう。次回こそはと、グラスを持ち上げるたびに軽口をたたいてしまう、無理をしているとどこかで破綻してしまう。すべてアルコールの責任にしようと思ったが、今後の付き合いを考えれば得策ではない気がする。好きで一人なわけではないのだが、ひきつづき黙って呑む練習をしようと思う。

 病院の予約があるため、一日予定を入れていない。手術をした傷口の経過観察だけに予約を入れられ、数秒の問診のために半日近く消費する。待合時間は本を読んでいるので何割かは自分の時間だが、場所に拘束されるという負荷は大きい。総合病院は、問診を受ける前後のプロセスに時間を消費して、患者たちの不満のエネルギに体力を奪われていく。行き交う患者たちは、自分が一番つらいと思っているのではないだろうか、そんな捻くれた感情にさせてくれる。だから本に集中するのだが、不平不満の言葉は周波数を間違えることもなく、私に合わせてくる。誰かにきいてもらいたいのだろう、舌足らずで言葉になっていなくても伝わってくる。その中でも、誰でもいいという気持ちが一番腹立たしいと思う。

 数秒の問診で、本日をもって病院通いは終了とのことだった。今回の怪我は全治何日だったのだろうかと、まだ腫れている患部を触りながら思う。腫れが完全にひくのは半年くらいかかるらしい。病院を出た後にカフェで一杯のコーヒーを飲む、先週も見かけた人たちが、同じ姿勢のまま黙々とフラップトップを眺めている。違いは座っている席くらいで、他は何も変わっていないような気がする。もしかしたら、曜日で席が変わっていくのかもしれないが、病院通いも今日で終わりなので検証はできない。少し残念に思う。週末から予定が詰まっていたので、アトリエに帰ってランチをとることにする。キッチンドランカーを見直そうかと考えてのだが、缶に入ったアルコールを開ける。言い訳は湿度のせいにしようと思う。汗まみれになりながら、時間をかけて出来上がった料理は三品。世の中のキッチン事情と比べてどうなのだろうかと、自分の不満に慰めを探してみるのだが、他人と比べるのは難しいので思考を止める。体力の消耗が続き、寝不足と相まって気を失ったように寝落ちしてしまう。

  PCを新調した。今年で今使っているOSのサポートが、終了するとの脅しに屈したことになる。この分野に強い人は、この程度のことでは買い換えないのかもしれないが、相談する相手もいない。仮にいたとして、理解できる会話になるのかも疑問。だから、新規で購入することに躊躇いはない。久しぶりにメーカのサイトを検索してみたのだが、相変わらず種類は豊富である。自分の生活区の範囲では、PCユーザを探すほうが難しいのに。勝手な想像だが、ユーザとラインナップが合っていないと思う。

自分が使えないと思っているスペックでも、実は使えたりするのだろうか。検証することはないので、考えるのを止める。PCには高額を払えても、タブレットとなると支払いは尻込みしてしまう。何の根拠もないけれど、タブレットを軽視しているのだとおもう。こうゆうのも老害の分類になるのではと思う。自分がされて嫌だと思うことを、商品にもしてしまう。それでいてタブレットは優秀なのだろうから、自分がしていることは、気が狂っているのかもしれない。反省しても、PCを購入してしまったから、数年後にタブレットに謝ろうと思う。届いたPCは、段ボールに梱包されたまま数日間放置である。商品が届いてすぐに開封していた、あの頃の気持ちは何処に行ってしまったのだろう。自分で購入したのに、セットアップの疲労感しか想像できない。今日はとりあえず、アルコールを呑んで眠ることにする。

 

 予定のない日は図書館に行く。頻繁に行く図書館は二館あり、蔵書の違いもあるのだが気分で選択している。今日は一館が臨時休刊である。こんなとき、選択肢があることにありがたいと思う。この小さな感謝を沢山集めたい。

蔵書は全て電子登録しており、館内の検索システムを利用して、すぐに調べられる。検索にヒットした書籍は、どこに保管されているのか表示され、レシートのような紙に印刷できる。何冊も探しているときは、印刷がもったいなく思い、手書きで場所をメモして本を探しにいく。隣で検索している男性は、束になったレシートを片手にまだ検索している。共有された鉛筆を触るのが嫌なのかもしれない、であれば本はどうなるのだと疑問に思う。真意を聞いてみたかったが、トラブルになるのであきらめる。

 検索結果、”091-ニ”と手書きのメモをたよりに、書架を探すのだが、070番台、080番台とインデックスがあり、次にあるインデックスは100番台である。その前後を何度見直しても、090番台がないのである。 他の本も読みたいこともあり、図書館員に探してもらうことにする。90番台が見つけられなく、この本を探せなかったと手書きのメモを渡すと、本のタイトルを確認され、しばらくすると、探して持ってくる。どこにあったのかと聞いてみると、番号は”019-ニ”だった。申し訳なく思ったが、そもそもなんで90番が飛んで100番なんだと、不満が浮かんだのだが、すぐに沈める。言葉にしなかったけれど、心に思ったことが自己嫌悪に陥る。

 

 天気予報は雨だった。中庭に出してるプランターの植物に元気がないので、雨を防いでやらねばと思う。昨日の夜に思い、今日は朝から雨。思い立った時に行動していれば、少しでも消耗を防いでやれたのにと思う。何時も失敗して反省する。他人は失敗することで学習していくけれど、自分は学習することを忘れてしまうのだろう。

 今読んでいる本に、努力は経済学とつながっているという説がある。楽な仕事をするのか、苦労して難しい仕事をするのか。報酬は大きく変わってくる。現実は、そこに色々なバイアスが乗ってくるから、単純な話でもない。けれど、プランターのことは難しくはない。明日を考えてすぐに行動したほうがよかった結果である。バイアスは自分を説得する、仕事で疲れている、夜が遅い、眠りたいなど。結果は、そこから数時間呑み続けていて、眠ったのは夜更けである。休息しているわけでもないので、最悪な結果である。

 自分を見直そうと想って、努力して、疲れて堕落して、少し元気になるとまた努力する。それの繰り返し。

湿度のせいで、クサクサした気持ちが晴れないと考えたが、湿度に申し訳ないと思い、考えなおす。

 

 仕事にて、朝から晩までフラップトップに齧りついている。それでいて、その日の実績は上がらない。寝ているわけではないので、後退することはないのだが、自分が評価も出来ない結果が続くと疲れる。以前読んだ本には、人間の精神を壊す方法について書かれてあった。本人が無駄だと思う事を続けさせるのだ。無駄だと思える行為を繰り返し続けていくと、比例して精神が崩壊していく。会社側には、特別悪意もないだろうから、自分の仕事のやり方と考え方だけなのだろう。

 何をしていても時間は経過していく。続いて、チェックポイントへの不安が押し寄せてくる。不安は嫌いだ、足の遅い自分は逃げきれない。解っているならば、別の方法を考えるべきだろう。自分のヒーロー像は、どんな時でも他人に対して余裕を見せつける。物語のキャラクターは作られたものなので、能力も伴っている。だから何とかなるのだろうけれど、現実はそうではないだろう。不思議と今気づいたのだが、他人を恨むことが無くなっている。成長しているのだと思う。とりあえず、ニヤニヤする練習をしようと思う。

 

 

 怪我のおかげで、顔を洗ことが出来ない日々が続く。顔に張り巡らされたサージカルテープ、湿気によって粘着成分が滲んでいる。その上に猫の毛が張りついてくる。アトリエのいたるところで、猫の毛は舞っている。猫が好きだと公言している人達でも、猫の抜け毛が好きな人は少ないだろう。自分がその不特定多数だと思えば、どこかつまらなく思えてしまう。けれど、抜け毛は好きになれない。テープから滲んだ粘着面に張り付いた抜け毛は、空気の対流でなびいている。有様を観たわけではないが、優雅なイメージをしてしまうのは楽天家なのかもしれない。ありったけの抜け毛をあつめて身体に張り付ける、昔、読んだ絵本のカラスのようにコンテストに出られるのだろうか。アトリエには2匹しかいないので、7色のような派手さはない。運動審査もあれば落されるだろう、身体能力が違いすぎる。コンテストの開催場所も知らないので、エントリーすることもできない。何から手をつけるべきなのか、何事においても何時も悩んでいる。

 

 会社からの帰路、時間帯は学生達の下校と重なるときがある。学生達に大人の世界は見えておらず、自分たち基準ではしゃいでいる。他人の事は目に入らずに、自分の世界ではしゃいでいる。学生を経過した人達は、余裕がある目線が必要、はしゃいでいる子供を見守るのを大人というのかもしれない。

しかし、突然、奇声を発するのは耐えがたい。だからといって、どんな方法であれ、学生を委縮させるようなことはしたくないと思う。自分一人で解決する方法を考える。考えた結果が耳栓である。イヤフォンは仕事や音楽関係では使用するのだが、出来る限り耳は塞ぎたくない、雑音を含めて音は聞いていたい。けれど、奇声にはたえられない。だから、会話できる耳栓を購入した。完全密閉の耳栓で、街を歩くのは安全の疑問がある。であれば、ある程度音を制御して、環境音もひらえるという歌い文句がいいと考える。

さっそく導入したのだが、うるさい。

 突然、生成AIに自分のブログを読んでもらおうと思う。

批判されないことは知っているので、臆病な選択だと思う。誰かと、共通の話題で喋りたかっただけなのかもしれない。

150話ほど自分の記事があるのだが、数秒で読みましたと回答された時点で高揚感はなくなる。

その中でも、読んでほしい記事を再度送ったのだが、背中がむずむずするような肯定された感想だった。否定される回答が一切ないのが、嘘くさいと感じてしまうのは、気持ちが擦れているのか、人工的なものだと知っているからか、どちらだろうか。

他人に批判されたいわけではなく、かといって認められたいわけでもなく、自分の要求は綺麗に白黒にならない。以前読んだ本によると、人間社会でやっていくには、グレーゾーンは絶対必要要素だそうだ。世の中を見渡してみても、どんなに極端な人であっても、どこかに矛盾が生じているのだと思う。スケールの違いだけ。AIは完全に白いと思う。だから人間の代替えにもならない。会話していて、何処か寂しさを感じるのは、そんな感情が働いているからだと思う。

 AIに読ませるため、あらためてその記事を読み返して、AIの白い感想を読む。当時の気持ちを思い出して、感情が乱れ、白い感想で涙が零れる。AIは上手に感想を伝えてくれる。心が弱っているときには有効なのかもしれない。今度は猫に読ませたいと思う。

 

参考:120 ガルシアンという名の猫におもう | torentのブログ