古い友人から連絡があった。どうやら仕事のことらしい。周りの人たちが、浮足立っている。自分が勤める会社では、次々に退職の挨拶がまわってくる。上司は部下の不安をあおる圧力をかけ続けている、それで気持ちを紛らわしているのかもしれない。世の中が大きく変わろうとしている予感がする。世の中の変動に、柔軟に対応する準備はしていないし、能力も人並み外れたものは持っていない。未来を考えたとき、不安しか浮かんでこない。裕福ではないけれど、貧しくはない生活は維持できなくなるのかもしれない。派手な生活ではないと思うけれど、手放すとなると惜しいと思ってしまう。貧乏な生活が怖いのではなくて、今の生活を手放すのが嫌なだけだとおもう。会社人がどんどん非情になっていくことに悲しさを感じる。自分もその中の一人であることが、気持ちを麻痺させているのかもしれない。とりあえず今のうちに呑めるだけ呑もうと思っている。
音楽仲間との会話、最近は映画ではなくてアニメ作品ばかりを観ているとのこと。映画は約2時間の枠が億劫になるそうだ。作品の話はしなかったが、凄く共感する。後日、ストックしている未鑑DVDのアニメ作品を、何気なしに再生してみたのだが、はまり込んでしまう。20世紀の作品なので、レトロ感は感じてしまう。しかし、制作陣の好きなものをありったけ詰め込んだような作品で、熱意のようなものを全編に感じてしまう。制作背景はしらないが、寝る間も惜しんで作ったような作品だと感じてしまう。時代やジャンルに関係なく思いが伝わる作品はあって、そういうものが見つけられたときに心が躍る。他人に是非すすめたいのだが、この作品は観る人を選ぶよなと心落ち着く。皆が同じ感性ではないことを忘れて、暴走してしまうところだった。しかし宣伝したい。
贔屓にしている酒蔵から注文していたアルコールが届く。他府県に買い付けにいくほど元気ではないし、注文頻度を考えれば経済的でもない。ネット通販というシステムは便利だ、どんなに遠くのものでも取り寄せられる。思いついたのは、この届いたアルコールの炭酸割りである。猛暑日が続くので我ながらいい提案だと思い、久しぶりに逢う友人宅にも持っていこうと思う。事前に味をたしかめておこうと、強めの炭酸で割ったのだが、せっかくの味が薄まってしまうのである。当たり前なのだが、そんなことにも気づかずに先方に連絡してしまっている。個人が分量を調整すればいいだけなのかもしれないが、推奨する分量を見つけるため呑み続ける。呑めばのむほど、わからなくなってきている。このアルコールの入った瓶が空になるころには、きっとどうでもよくなっているだろうと思う。
先日読んだ本で、竹輪についてのエッセイがかかれていた。著者は磯部揚げが好物で、スーパーで総菜を買おうが、料亭で食べようが、好物だから、すべて美味しいのだそうだ。そんな気持ちに感化されて、炭酸割には磯部揚げだろうと空想する。実行に移せないのは、竹輪のストックはないからである。
週末の早朝にサンドイッチが食べたくなり、24時間スーパーに食材を買い物にいく。車に乗り込むと、フロントガラスにひびが入っていることに気づく。昨日の夜、高速道路を走行中に何かが飛んできて当たったような音がしたのを思い出す。嫌な音だった、けれど暗闇は何事もなかったように思わせてくれる。嫌なことは尾をひくもので、翌朝にもちこしである。ひびは成長していき、車幅の半分くらいまで伸びていった。最近は大きな怪我をするし不運続きである。
買ってきた8枚切りの食パンと、冷蔵庫にあふれているきゅうりで、サンドイッチを作る。コーヒー豆はストックを使い切り、出来上がったサンドイッチのパンは、パサパサである。未視聴のレコードストックから、一枚を抜き取って再生する。今の気分ではないフュージョンが流れる。ネガティブな要素は、アトリエの中にも転がっている。冷蔵庫にある大量のきゅうりだけが、気持ちをなだめてくれる。明日もサンドイッチを作ろうと思う。もうコーヒ豆はないけれど。
他人の姿勢が気になる。街をあるけば教えてあげたいほど、違和感のある姿勢の人がいる。そして自分もその中の一人である。
意識しているときは姿勢を正すのだが、別のことに気をとられた瞬間、猫背に戻っている。猫背と文字にすれば、愛らしく魅力的なものなのだが、人間の姿勢だと自分の趣味ではない。姿勢について考えたり、きづいたりする時間は瞬間のもので、意識で治そうとしても無理があると思う。別の方法としてコルセットを巻くのだが、それに頼って筋力が落ちてしまうらしい。やはりトレーニングしかないのだろうか。何か方法がないだろうかと、ソファーにもたれながらアルコールを呑む。こんな日は、平和だと感じてしまう。
社会問題をテーマにした本を読む。世間知らずな私に問題を投げかける。問題をテーマにしているだけで、著者が考える解決方法を書いているわけではない。中途半端な正義感が、著者の誘導によって掻き立てられるだけである。これが問題なんだと、被害者達の声に何時も思うのは、どうすることもできない無力感と絶望感。同じ本を読んでも、行動力のあるひとはすでに動き出しているのかもしれない。身近な人たちですら満足させることもできないのに、なぜ大きな事ばかりに目が行くのだろうか。
テレビも新聞も見ない、ネットのニュースも進んでは見ない、それでも嫌なニュースは流れ込んでくる。気持ちが沈めば、しずむほど被さってくる。誰かが意図しているのであれば、逆に面白く感じてきてしまう。さっき思い出したのだが、落ち込んだ時ほど笑顔を作ろうと考えていたのだった。
人にやさしくなりたいと思う。他人にやさしくされたいからなのかと聞かれれば、そうではない。ボランティア精神も、おそらくない。それでも、そう思うのはなぜなのだろうか。
他人の不機嫌な顔を観たくないのは理由の一つだろう。いつも他人の顔色を窺っている、皆露骨に表情を変えて主張してくる。それに反応して正面からぶつかる。体力は大きく奪われて、ネガティブなものしか残らない。他人を倒して報酬を得たことはないと思う。争うのは嫌だ、人を遮断すれば解決なのだが、無人島で暮らすことはできないから実践するのは難しい。だから人にやさしく接すれば、相手の行動がかわるのではないかと考える。変えるのは自分だから希望は高い。
相手は不平不満をまき散らす自分になる。簡単ではない、手ごわい相手だと思える。正面からぶつかると共倒れになってしまうだろう、相打ちは負けである。時間は待ってくれない、世の中の不平不満を餌にして日増しに成長している。戦うための武器が欲しい。
自己承認欲求が強く感じられる現場にておもう。他人が集まる場所は、いろいろな気持ちが混ぜられて気持ちの悪い場所である。
わかっていても、皆、寂しいから、照明にひきよせられた蛾のように集っている。他人に自己承認欲求がばれないように、分厚い皮をかぶって集まってくる。この暑い季節に、のぼせてしまうことのない、体力に自信のある人ほど。その皮は、息苦しく、私のような貧弱な者では耐えるのも難しい、そうそうに脱落するしかない。結果がわかっているのならば、最初から行かなければいいのに。学習できないのも、愚かしい不確定多数の思考なのだと思う。
昼下がりにアトリエにて、アルコールに溺れる。いくら呑んでも、満たされないし、酔いは廻ってこない。現状から脱したくて本を読む。そして、自己啓発本にあきらめろと言われる。自己啓発とは単語を聴いてあきれてしまう。自分から凝り固まった思考に影響されるように行き、自我をすてて他人の色に染まる。そのうえで、すべては自分の責任なのだから、救いは少ない。
自我をどうすればいいのか解からなくなって、助けを求めているのだから、もっと楽にしてほしいと思う。
最近は本を読んでいる時間が多い気がする。それでいて消化している冊数は、前年度よりも少ない。中身をじっくり読んでいるのではないかと考えられるのだが、昨年も今年も読み込みレベルの違いは感じていない。目で活字をなぞっているだけなので、本の内容が身体に入ってくる量は非常にすくない。それでも読んでしまうのは、活字中毒なのかもしれない。本を読んでいるように見えて、何も得ていない。無理をして本を読んでいるのならば、この結果は悲しい。けれど、中毒だから知識を求めているわけではない、身の回りに印刷物があればいい。目で文字をなぞって、頁をめくる音が指先から耳に振動で伝わってくる。ここに快楽があるのかもしれない。本は何でもいいわけではない。何が良くて悪いのか、具体的に表現できない自分が悲しい。読んでいる時間が長く感じたのは、出不精が加速してきたからだろう。インターネットの動画を頻繁に観る人のほうが、知識が多いのではないかと思って妬んでしまう。最近では喋るスピードを速くして鑑賞する人もいるのだから、ますます格差が広がってしまう。取り残される不安が掻き立てられる。同じ加速なのに。
訃報が入る。記憶にある故人との思い出が浮かんできて、涙がこぼれる。私よりもっと悲しみを感じている人たちが沢山いるのに、思い出の量や質は小さいのに、涙はとまらない。こんな時に笑顔でいたいと改めて思う。以前、死に近い業種の方と喋ったとき、皆自分のために涙を流すのだという意見を聞いたことがある。もちろん、あからさまな涙もあるのは知っているのだが、その場では反論できなかった。自分自身、涙を流した記憶を掘り下げても自分に行きつく。最愛の猫を亡くしたことに、今でも涙ぐむ。真相は、自分が寂しくて悲しいだけである。涙や感情を亡くなった者に捧げているわけではない。他人のために流す涙、考えればわからなくなってくる。それだけ自分を理解していないことを思い知る、わかるだけの能力がないのかもしれない。昔に読んだ小説に、涙屋という職業が出てくる話があった。主人公が流した涙を塗ることで、他人が幸せになる話。物語では、等価交換にお金だった。今思い返しても、面白い設定だったと感心する。過去を振り返っても、涙を流すときは必ず感情が動いている。その大半が悲しみだろう。
殴られても、転んでけがをしても、すべて悲しくて泣いていたと思い出す。文章にすれば、自分が純粋な者のように勘違いしてしまう。けれど、涙を流している人の理由は、ほとんど悲しいのではないだろうか。