織田信長 小説
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「猿? ・禿鼠? 奇才?」 第四部
町の機能がうまく回り、潤滑が良くなれば、余に対する、民の支持が上がり、民の生活の士気が上がり、余は民を信頼する。持ちつ持たれつの良い関係が築きあげられていく。余は民の為に戦い、民は余の為に戦ってくれることになる。
政務の健全な循環が出来上がる。
剣術大会の開催が告知されてから開催されるまでは、一ヶ月の時間があった。
それまで、参加者は訓練に励み、関係者は準備を進めた。
余は、その頃、生駒家に足繁く通っていた。
吉乃との逢瀬を楽しんでいたのである。
夜の闇に紛れて、そそくさと、人眼を忍ぶ、怪しげな事が、何やら、幼き頃の{おおうつけ}と呼ばれていた頃の心の機微を思い起こし、胸が躍る。
そっと、部屋を出た。
丑の刻。
忍びの真似事で、抜き足で、誰にも、気づかれていないものと思い込んでいたが、一人、目の前に現れた。
玄関口である。
暗い。
闇、である。
大手門の、夜勤の、門番の松明はここまで灯りは届かない。たまに、薄気味悪く、夜行性の小動物のたてる物音が聞こえるだけである。…、…、いつもは、そうである。
が、しかし、目の前に、一人、現れた。
猿の様な身のこなしで瞬時に、夜の闇に、自身の影を重ねた。巨大な禿鼠のようでもあった。
殺気は感じられなかった。危険視する事はなかった。
「何者じゃ?」
余は、威嚇を含めて、声を上げたかったが、人眼を忍んでいる状況、小声で、問いただした。
「はい、草履取りにこざいます」
「何ゆえ、ここに? こんな時に?」
「はい、殿様がいつでも、すぐに動けますように、と」
「…、…。貴様、いつもの草履取りではないな」
「はい。いつもの草履取りは寝ております。よって、それがしが代わりに草履をとらせていただきます」
その、代理の草履取りは草履を足元に差し出した。
「…、…。ん!?」
草履が温かった。
「貴様、尻に草履を敷いていたのであろう」
糞生意気な小僧だ、と思った。が、
「いえ、いえ、殿様」と小僧は寒さにも構わず、解れまくった、薄くて、おんぼろのぼろ雑巾のような肌着の胸を肌蹴させて、草履から胸の地肌に付いた泥を見せて、訴えた。「殿様が、草履を履かれます時に、草履が冷たくては、申し訳がないと、懐にて暖めさせていただきました。これがその際に、草履から胸についた、土にござります」
そう言って、代理の草履取りは、露出した薄っぺらい、肋骨の浮き出た胸についた、汚れを払った。
「そうか…。それは、ありがたい。気が利く事だ」
代理の草履取りは、それまでの真摯な眼差しを緩ませ、小さく笑って、余を見た。猿のくせに愛嬌がある。
「貴様、名は」
「はい。藤吉郎にございます。木下藤吉郎と申します」
「覚えておこう」
余は、その場を去って、馬小屋に向かおうとした。
「殿さま」
藤吉郎が言った。
「…、…」
余が振りかえると、藤吉郎は、笑顔でこういった。
「明日も、また、この時間に!」
「…、…」余は振り返っていた体を元に戻し、歩みを、再び、馬小屋に向けた。「さぁなぁ、明日の事は分らん」余は、背中越しに、藤吉郎に答えた。
余は、闇夜に馬を走らせた。
余は、吉乃の所へと、馬を走らせた。
余は、毎晩の様に生駒家に通い詰めた。
藤吉郎は、毎晩の様に、草履取りを務めた。
春が近づいた。
「藤吉郎。もう、草履は温めんでも良い。この一冬、随分と助かった。ありがたい。もう、温かくなり始めた。明晩からは、草履を温めなくてもよい。代わりに、貴様は余の馬の世話をしろ」
「はぁっ! ありがたき幸せ!」
つづく
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