将棋を続ける子どもの多くは、大会優勝を夢見て棋力向上を強く願っていると思います。

言い換えると、「あまり強くなれなくてもいい」という方針の子どもの比率はあまり高くないと思います。


で、大人の場合は「あまり強くなれなくてもいい」という方針の方が多くてもいいように感じています。

具体的に言うと、『丸暗記原始棒銀戦法』 + 囲い、くらいが目標でもいいと思うのです。急戦で攻め込まれたら対応できないけど、そうでなければ一応囲えて、原始棒銀で攻めることもできる、という程度です。

そりゃまあ、大会で勝つことも将棋の楽しさの1つだと思いますが、同程度の棋力の人がいれば上記程度の人 (やそれより下の人) でも楽しめると思うんです。

大人になってから将棋を始める人、子どもの頃に駒の動かし方だけ覚えてちょっと将棋を体験したまま大人になって再開する人、そういった人にとっての将棋の楽しみ方の1つとしていいんじゃないかな、と思います。


ふと思ったのですが、入門者や初心者にとって、急戦で負けるのとちゃんと囲ったうえで負けるのとでは、対局の満足度にかなりの差が出るんじゃないですかね。

表題の「point of no return」は元々は航空用語らしいですが、私は大航海時代前までのアフリカ大陸西岸の岬を想定して使っています。「(当時の造船技術では) この岬を超えると欧州に帰って来れない」という地点です。

「後から振り返ると、〇年〇月までに手を打たなかったことが決定的だった」ということってあると思います。

囲碁だと、芝野虎丸元名人が2020年6月15日にこんなことをつぶやいています

日本囲碁界は数年前から、なにも変わらなければ潰れるだろうという状態が続いてます

囲碁界は、「潰れる」未来が回避できるのか、それとも「潰れる」ことが回避できないのか、私には分かりません。

将棋界も、囲碁界の後追いをしているように見えます。未だ point of no return を超えていないとは思いますが、超える瞬間を「今だ」と我々が認識することはできないでしょう。気づいたらいつの間にか超えていた (将棋界が「潰れる」未来が回避できなくなった)、と後から分かるだけです。


北海道将棋連盟道場日誌にはこんな記事がありました (2009年)。

今の状態は昭和50年ころから始まったこの組織の怠慢のつけ。
30年近い停滞を取り戻すのは並大抵ではないが、とにかくやっていくしかない。

多分、昭和50年頃にはこういう未来は予想できなかったのでしょう。それが原因で2009年の筆者 (新井田基信氏) が苦労しています。


将棋界は危機感が足りない気がするのですが…気のせいですかね。

支部最弱の私が書いても、程度の低い話にしかならないのですが、もしかしたらちょっとだけ終盤が見えてきたかも知れません。

あ、すみません、「終盤」といっても勝つための「終盤」ではなくて負けるための「終盤」です。

入門者・初心者の子どもと対局する際、なるべく一方的な展開は避けて、お互い、玉に迫られてヒヤヒヤするような感じにしたいと考えています。

私は最終的に必ず負けるようにしているので、あとはいかに相手の子の玉に迫れるかなのですが、これまでの私は終盤が全然得意じゃなくて、うまく攻め込めないことが多かったです。ちゃんと読み切らないうちに攻め込んでしまうと、相手玉を詰ませてしまい、「必ず負ける」という方針が守れなくなるためです。

でも先日、「持ち駒があと1枚足りなくて勝ちきれない」という筋が少し見えるようになってきた気がしました。「ああ、金将があと1枚あれば勝てたのに」みたいな局面です。

次の将棋の場でも試してみようと思います。

こちらの記事を読んで、話題として使わせていただこうと思います。

私の感覚は、対局相手が対局時計を押し忘れても教える義務は一切ない、です。


ちょっと考察します。

(1) 仮に「対局相手が対局時計を押し忘れたら教えないといけない」だった場合、教えなかった場合の罰は「反則負け」でしょうか? もしそうだとすると、自分が時間切れしそうな場面で、わざと「押し忘れたフリ」をして、自分の時計が切れた時に相手の責任を追及して相手を「反則負け」にしてしまう、という技法が成立します。

(2) 仮に「対局相手が対局時計を押し忘れたことに気付いたら教えないといけない」だった場合、気付いていたことを立証する責任はどちらがわでしょうか? 恐らくそれは時間が切れた側になるでしょう。でも、「気付いていた」ことをどうやって証明しますか? 「気付いていないはずがない」という憶測くらいしかできないと思います。

なので、対局時計の押し忘れは指摘しなくてもよい、以外の決まりを作ると水掛け論が発生して運営が大混乱するように思います。

そもそも、対局時計を押すことは対局に内包されている押す側の義務であり、義務を遂行しなかった本人が責を受けずに相手が有責となるなんて、すごくおかしいように思います。「オレが角道を見落としたのは、お前が教えなかったからだ」のような滑稽さを感じます。


練習会とか交流会だったら「気付いたらなるべく教えてあげましょう」でいいとは思いますが、大会だったら「教える義務は一切ありません、黙っていて相手の時間切れを狙っても全く問題ありません」という扱いがよいように思います。

(まあでも、この点は人によって結構意見が異なる気がします。)

将棋と無関係の話題です。

私の従姉のうち1人はかなり早く (確か20代で) 亡くなったのですが、その従姉が愛読していた漫画『キノコ・キノコ』をふと思い出して Amazon で検索したら、どうやら Kindle Unlimited で読めるようです。従姉から借りたこともあるので、近いうちに読み返して懐かしさに浸ろうと思います。

で、ついでにその作者である みを・まこと さんを検索したら、昨年お亡くなりになっていたようでした

備忘録。

  1. Wikipedia の「スイス式トーナメント」の「組み合わせの決定」節は、記述が詳しくない。
  2. 上記の英語版はもうちょっと詳しい。
  3. その注釈 3 にはより詳細な記述があるらしい。
  4. 注釈 3 である Sensei's Library の Swiss Pairing には「FIDE Swiss Rules」という文献が示されている。(実際は deadlink)
  5. 実際の FIDE Handbook はこちら
  6. その付録 2 には「TRF」という PDF 資料がある。
  7. 「Format of TRF (Tournament Report File)」という語で検索したら pypi の library が見つかった。
  8. そこには sample の URL が掲載されている。将棋の情報を集積するうえで参考になりそう。
  9. その sample の最下行に記されている「Darbinyan Vigen」という方を検索してみたら、色々と chess 関係の情報が見つかった。将棋の情報を公開する system を作るうえで参考になりそう。

表題の通りです。

何度言っても、他人の対局に口をはさむし、対局中の盤の近くに来るし、対局中の机に触るのです。時には、負けても「負けました」を言わず、ふざけて大人を試しています。

今日はそこそこ強めに叱ったのですが (将棋の場で私が子どもを叱ることは殆どないので、かなり珍しい事例です)、それが正解だったのかどうか、よく分かりません。

その男児は、叱られた後はちょっと素直になっていました。

次回は、受付の時点で保護者と一緒に人が少ないところで言い含めておくのがいいのかも知れませんが、やっぱり悩んでしまいます。

数日前の blog で「私は、日本将棋連盟の『三段リーグ』上位2人という仕組みもかなりガバガバだと感じています。」と書きましたが、別の方法で調整可能であることに後から気付きました。

現在の制度では、

  • B級2組参加者4人につき1つの降級点がつき
  • C級1組参加者4.5人につき1つの降級点がつき
  • C級2組参加者4.5人につき1つの降級点がつきます。

この「4」や「4.5」という数値を変えることで、プロ棋士の総人数をある程度制御できます。

これは、制度設計としてはかなりよくできているように思います。「4」や「4.5」という数値を変えても、それだけで即座に誰かが引退することにはなりません。「4」や「4.5」という数値を変えることに反対すると、「私は弱いから変えないでくれ」と主張することと同等にみなされます。

ただ、C級2組を廃止しなければならないほど将棋人気が衰退した場合はかなりの壁が露わになるでしょう (制度設計が難しい、ということです)。


日本棋院は…どうしたらいいのでしょうね。

即座に誰かが引退させられるような制度を提案すると、該当者が強く反発すると思います。

仮に降級点制度を導入して「降級点が3点貯まったら引退」とするなら、制度を導入して3年経たないと最初の効果が表れません。財政が破綻する前に効果が表れるようにしたいなら、ここ1~2年くらいで導入してしまわないとまずい気がします。

数カ月前、新規採用を減らすという形で院生に犠牲を強いたので、「次は現役プロ棋士が身を切る番だ」という説得材料が増えました。


…と、色々考えてみましたが、日本棋院が存続できない可能性も結構ある気がしてきました。こちらで触れられている通り新団体設立の可能性も少なくない気がします。

もし、(敬称略) 一力・井山・芝野の3強が中心になって新団体を作ったら、結構いい線いけるんじゃないですかね。現棋戦はいくつか減ると思いますが、「プロ棋士数はものすごく絞り込みましたよ、sponsor 負担はかなり減りましたよ」となれば新聞業界以外の新しい sponsors がつく可能性もまあまあある気がします。

表題記事より引用。

日本囲碁界の危機の本質はスポンサーから見て無駄金が多いことである。

これもすごく同意します。sponsors から見てお金を出す価値があるかどうか、はとても重要なことです。

仮に、全棋士参加のタイトル戦の予選1回戦の対局料を13万円とすると、スポンサーが払うのは1局26万円である。余分なザコ棋士が200人いるとするとザコ棋士同士の対局は100局なので、2,600万円。ザコ棋士が100人残る。ザコ棋士同士が2回戦を打つとすると50局、対局料据置でも1,300万円。ザコ棋士が50人残る…。いつかはザコでない棋士と打つが、片方がザコ棋士の棋譜に価値は無い。ザコ棋士200人が全員敗退するのに200局、単純計算で5,200万円かかる。

プロ棋士が多すぎると、テイケイグループ杯のように sponsor にとって費用対効果が高い大会が中心になってくると思われます。