山あり谷あり、波乱の人生ドンブラコ!
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立憲民主党の辻元清美議員がツイッターに掲載した投稿が、新聞各紙で話題になっています。
投稿の内容は、先日の高市首相の「台湾有事」に関わる発言が、「内閣官房が用意したものではなく、首相個人の考えを発言したものだ」という批判でした。
しかし、その一点だけを切り取って批判する姿勢に、私はとても違和感を覚えました。
本当に問題にすべき点は、そこなのでしょうか。
応答要領にない発言のなにが問題なのか?
辻元議員は、今回の件をまるで鬼の首でも取ったかのように発信しています。
しかし、「内閣官房が用意したものではなく、首相個人の考えを発言したものだ」ということの、どこがそれほどいけないのでしょうか。
マスコミが取り上げた辻元投稿
国会答弁とは、本来、政治家が自分の言葉で説明し、国民に考えを示す場のはずです。
官僚が用意した紙を一字一句読み上げることだけが、正しい姿なのでしょうか。
もしそれしか許されないのであれば、国会質疑は中身のない儀式になってしまいます。
しかも、これまでの野党のやり方を見ていると、応答要領どおりの答弁をすれば、今度は「誠実に答えていない」と批判することは目に見えています。
その一方で、今回のように少しでも踏み込めば「勝手な持論だ」と叩く。
このような姿勢は、あまりにも都合がよすぎるのではないでしょうか。
問題は、官僚メモに書いてあったかどうかではありません。
検証すべきは「従来解釈と何が違うのか」では?
本来、検証すべきなのは、台湾有事をめぐる高市首相の説明が、従来の政府解釈とどこが同じで、どこが違うのかという点ではないでしょうか。
高市総理の「台湾有事答弁」の答弁資料が開示されました。
— つじもと清美 (@tsujimotokiyomi) December 12, 2025
「あの答弁は誰がつくったのか」という私の質問主意書に対し「内閣官房の作成」と閣議決定された文書がこれ。
やっぱり、あの答弁は高市総理の個人的見解であり、官僚が書いたのではないことが明らかになりました。… pic.twitter.com/ouJslW03D6
辻元氏のツイッター投稿
具体的には、存立危機事態の三要件など、これまで積み重ねられてきた考え方との整合性です。
当日の国会でも、高市首相は当初、一般論的な説明にとどめていました。
しかし、岡田議員の執ような問いかけに対し、「戦艦を使って……」という具体例に触れた答弁を行いました。
これは、質問に正面から向き合い、分かりやすく説明しようとした結果だと見ることもできます。
具体例を示して答えることの、どこが悪いのでしょうか。
それが、従来の政府解釈の枠内にある説明であれば、問題視する理由はないはずです。
にもかかわらず、野党も、そしてマスコミも、「応答要領に書いてなかった」という点ばかりを強調し、「中国が日本を非難するのは高市のせいだ」と、責めます。
肝心の中身の検証が、置き去りにされているように感じます。
官僚作文だけの国会でいいのか?
もし、「応答要領から外れたら即アウト」という考え方だけが広がれば、どうなるのでしょう。
行政府のトップである首相が、国会で自分の頭と言葉で説明する余地は、どんどん削られていきます。
政府が辻元参院議員に開示した答弁資料
引用元=朝日新聞
結果として残るのは、すべて官僚が書いた紙を読むだけの質疑です。
それが、国民が期待する政治の姿でしょうか。
もし、高市首相の具体例が、既存の憲法解釈や安保法制の枠組みと整合的であるならば、「書いてなかったからけしからん」という批判は、本末転倒です。
辻元議員の発信は、その危うさに目を向けさせるものではなく、むしろ政治を形式的なものへ押し戻す力として働いているように見えます。
いま問うべきは、誰が書いたかではなく、何をどう説明したのかではないでしょうか。
まとめ
今回の問題で、辻元議員が強調しているのは、「応答要領にない答弁で首相の個人的見解だった」という一点です。
しかし、それだけで首相の答弁を重大問題のように扱うのは、あまりにも短絡的です。
本当に検証すべきなのは、台湾有事をめぐる発言が、従来の政府解釈と整合しているのかどうかです。
そこを見ずに、「官僚が書いていない」「個人の考えだ」と騒ぐだけでは、国会は中身のない場になってしまいます。
政治家が自分の言葉で説明し、議論を深めることこそが、民主主義の土台です。
辻元議員の投稿は、その本質から目をそらしていないか、冷静に考える必要があるのではないでしょうか。





