もう夏? ブログネタ:もう夏? 参加中
  日本は、一部の地域を除いて、四季の移ろいがはっきりした国だといわれています。とはいえ、お題のように「もう夏?」なんて聞かれて初めて、四季が変わったことを実感することが少なくないようです。変化するものには、必ず転換点があるはずですが、それが何月何日の何時ころなんてことは、今まで意識したこともありません。人間は、観測機械ではないので、なんとなくその変化を実感した時が、その人にとっての季節の変化の認識なんでしょうね。もっとも、感覚的には、季節の移ろいは直線的なものではなく、グラデーションの帯のような気がします。春から夏への変化も、一時に起きるのではなく、春色と夏色の混合の割合が変わっていく過程なんでしょうね。だから、自分で何らかのきっかけで、たとえば道を歩いている時に、どこからかくちなしの花の甘い香りがしてきた時、もう夏だと感じるのかもしれません。毎日の生活が忙しすぎて、変化したことに気付かずにもう夏になっていたというのも、現代人にはありうることなのでしょう。
 夏野菜のトマトやキュウリは一年中売られています。。スイカもトウモロコシもモモも、青果売り場にはとっくに売られています。また、花屋でも同じ現象が見られます。食生活をはじめとして、四季の変わり目がはっきりしなくなっています。こんなことも、四季の変化に気付くことから人を遠ざけているのでしょう。。
 人生を四季の変化に例えますが、もう秋の季節を迎えてしまった私には、現実の夏は精神的にも、肉体的にも厳しい季節となってしまったようです。

 さて、また余計なことを考えてしまいましたが、透析患者である私にとって、汗をたくさんかくようになったと実感した時が、もう夏なんだと認識する時であります。今日も、クリニックに歩いて行きましたが、ロッカー室で着替えの時、シャツがかなり汗でぬれていました。先週あたりから、歩くと発刊を意識するような鳴りました。一日に摂取する水分量を制限されている患者にとっては、汗が出ることは、その分だけ水分も撮れるということです。発汗量が多くなる季節が、先程は夏は厳しい季節とは行ったものの、夏の有り難さも感じる時なのです。そうです、この文章を書きながらも、部屋の中で汗をかいています。ということで、私にとっては今はもう夏なのであります。

 駅近くの放射線通りは、年間を通してイベントを開催していることが多い道です。車が通らない道なので、イベントをするのには持ってこいの場所です。年2回開催の古本まつりは、私たち地域腎友会も参加していますが、この放射線通りで行っています。
 私が、今のクリニックに通ってもう13年近くになります。その施設を選んだのは、駅近くの街中にあるからでした。通う時を利用して買い物もできますし、お祭りなどのイベントを楽しむことができるからなのでした。

 今日は、八王子風流まつりが行われていました。もう、イベントも夏モードでした。朝顔市では、地元の芸者さんも売り子になっていました。もちろん、夏の浴衣のスタイルです。明日の七夕も行われます。浴衣を着ている女性は、人力車に載せてもらえるようです。子供たちが、水もののテントに群がっていました。風船釣りか、スーパーボールすくいなのでしょう。

 この長くはない通りを歩きながら、夏に包まれていました。明日は、患者会の勉強会でまたこの通りを通ります。学習会では、せっかくの七夕ですから、参加者に短冊を書いてもらおうと思っています。短冊には何と書きましょうか。透析患者の平均余命は、健常者の半分だといわれています。あと何回夏を過ごすことができるのかはわかりませんが、この四季の国に生まれたからには、汗の夏を含めて、できるだけ仲間と多くの時間を過ごせますように、そう書いてみたい気持ちであります。


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 ご当地ゆるキャラの「松姫 マッピー」が朝顔の鉢を持ってポーズをとってくれました。八王子の松姫ってどれ程有名なのかな。

 でも、気ぐるみの中は、猛暑ですよ。熱中症にならないように、頑張ってください。夏のお仕事は大変ですね。

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世間は狭いと思う? ブログネタ:世間は狭いと思う? 参加中

私は思う 派!

 この記事を書くので、今、目の前の画面の時刻を見る。もう、午前0時を超している。ということは、出だしは今日の朝ではなく、昨日の朝ということになる。時間の進み方の早いことよ。私の人生にとって、時間は限られた有限のものであると実感することが多くなった。では、空間の方は。
 人は成長と共に、活動の範囲を広げていく。生きる世界が拡大するといっても良い。赤ん坊の時は、母親を中心にしたごく狭い空間に生きている。歩けるようになると、世界が少しだけ広くなる。幼稚園や保育園に行く頃には、もっと世界が広くなる。こうして成長と共に世界は広がっていく。でも、人間社会も有限で無限ではない。
 もう、この世界には冒険家が活躍する未知の世界はほとんど残っていない。冒険家がGPSやPCを使う現在、世界はぐんと狭くなっている。私たち、「普通の人間」の生活する空間は、彼らほどそんなに広くはないだろう。通信手段や移動のための交通機関の発達で、いよいよ空間的には狭くなっていく。だから、テレビを見ていて、友人や知人の姿を画面の中に発見することも、驚くべきことではなくなった。昨日、テレビに映っていたよねなんて会話も経験者は少なくないようだ。

 昨日の朝、透析に行く時間を30分ほど早めた。ドンキホーテは朝早く行っても開店しているから、探し物をするための時間を確保するためであった。あちこち売り場を見たが、目的のものはなく、結局は透析施設に行く時間ぎりぎりで店を離れた。クリニックの近くの電気量販店の前で、前方にどこかで見たことのある人物の姿を認めた。前に、ブログで何時間も待たされて待ちぼうけされた知人であった。あの時は、メールで「君の行為は、人の時間を無駄にさせたことだから、その人の大事な時間を、自由に使えるはずの時間を奪ったことになる。限られた時間だけれども、その人をその時間だけ殺したことと同じだ。」と書き送った。その後、別の知人を通して、彼がそのメールの内容で、怖がっていると知った。手話を母語とするろう者は、視覚的空間的言語である日本手話と使う。手話を使ってコミュニケーションしている時、自分の前方の一角に手話と同じ内容の画面が映っているというろう者の発言が載っている本を読んだことがある。彼も、メールの内容が視覚化されて、そのイメージにおびえていたのか。

 彼は、あの時よりかなり太っていた。人間関係が苦手な彼は、今は、この街から離れて暮らしていることになっている。自分の世界を今は大切にしている。声をかけようかと躊躇している間に、その量販店に入っていった。PC売り場に行くのだろう。以前はよく一緒に行ったものであるが。躊躇したのは、今は、会わない方がいいとも考えたからだ。でも、クリニックに遅刻しないで行くため急いでいる時に、彼の姿を認めるなんて、なんて間が悪いのだろうと思った。同じ街に住んでいるのだから、出会っても不思議なことではないのであるが、これも縁のなせる業なのであろう。

 哲学や、この縁という言葉を使う仏教的考えの中には、この世の中のものはすべてつながっていると解釈しているようだ。街を歩いている多くの他人同士も、どこかでつながっていると考える。生物学的にも、自分の先祖をたどっていくと、そうした歩行者の中には、同じ血が流れている「遠い親戚」がいてもおかしくないのである。縁があるけれども、それに気付かないのは、コミュニケーションが足りないからだろう、お互いの情報が共有されることがないからであろう。親しく話をしていくうちに、お互いに、共通の知人を介して縁があることなどに気付かされることは珍しくない。患者団体の事務局員の1人は、同じ高校の卒業生であった。サークルの手話通訳の人は、透析団体の東腎協が立ち上がった時にお手伝いをしたことがあると話してくれた。当時、病院の看護師をしていたという。

 父親が入院していた病院の売店の店主は、小学校の同級生の女性だった。直接には会ってはいないが、父親から話を聞いた。その病院では、サークルの人にも会ったし(1人は父親が緊急入院をした日に、面会の受付係をしていた、もう1人は患者さんとして待合室で会った)、知人も何人か通院していたり、かつて手術をしたことがあるということが判明したりした。面会に行く母親が乗ったタクシーの運転者が、妹の義理の兄であった。この病院をめぐっても、人と人との縁を実感した。

 縁でつながっている世間という世界は、狭く感じられても当然のことのように思える。気付かずにすれ違う人も、案外、縁の深い人かも知れない。たまたま、気付いた時に「世間は狭い」と思ったりする。

 今は、人と人との関係が希薄になって、昔からのコミュニティが壊れている時代である。もっと、周囲の人とコミュニケージョンを試みて、「世間の狭さ」を実感して、新たなコミュニティを作る必要があるのではないか。空虚な広い世間は、煩わしくなないが殺伐としている。この文章を打ち込みながら、そんなことを考えていた。



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夏っぽい色って何色だと思う? ブログネタ:夏っぽい色って何色だと思う? 参加中
 今日も晴れた。今年の梅雨は、短時間に多量の雨が降る事があるものの、毎日が梅雨らしくしとしとと雨が降る様子ではない。梅雨明けまでには、真夏の水不足にならない程度の雨が欲しいものだ。

 最近は、両足首を痛めているので、透析クリニックへはバスを利用することも多い。傘をさしながらの歩行は、ちょっと厄介などである。先日の雨の日に、バスを降りて街の歩道を歩いていると、有線放送からゆずの「夏色」が聞こえてきた。懐かしいようなこの変わった曲が、もう流れる季節になったのかなと実感してしまった。あのPVも変わっていたっけ。ところで、夏の色ってどんな色なのだろうか。太陽の赤?プールの青?ひまわりの黄色>スイカの緑と黒の縞模様?

 僕にとっては何色だろうか。子どもの頃の記憶をたどってみた。そう、僕の場合は、炭酸水、それもサイダーの透き通った感覚。当時は、サイダーといえばビンに入っていた。駄菓子屋の木の冷蔵庫の中や、氷水の張られたタライのような入れ物に沈んでいるサイダーのビン達。1本をビンで飲むことはなかった。祖母の家などに行った時に、みんなで飲むものであった。すぐ近くの店に買いにいく。何本かを分かち合って飲むのだ。まだ、コーラなんて一般的でなかった頃。栓抜きで王冠を抜いた時、うっかりすると泡がビンからはあふれだす。コップに注いていく。自分のコップに注がれるのが待ちどおしく、思わずごっくんと唾を呑む。注がれたコップを渡される。一度に飲むのは惜しい気がする。コップの周囲に、水滴が付いていく。熱気を持った空気から集めた水玉をつけたコップを透かして、周囲を見てみた。夏が、冷やされたコップ越しにその景色を見せる。
 そう、僕の記憶の中の夏色は、冷やされた澄んだ透明の色。



 今日は梅雨らしく飴が一日降っていた。これから、色々と生活が忙しくなりそうだし、父親の病状もいつj急変するか分からない。5月のイベントで痛めた両足首もまだ痛みがとれない。何とか、早歩きができるようになったし、比較的長い距離も歩けるようになった。反面、ほんの少し前に多めに減らしたドライウエイトを、今度は血圧低下防止のために、ぐっと上げたので、足首が支える体重はきついのである。歩き方にミリをしてきたのか、歩行中は腰が痛くなる。でも、気にしないで歩くようにしている。痛めた当初は、強い風が吹くと身体の平衡を保つのが難しかった。今は、多少痛くても歩く時間を増やそうとしている。脚の筋肉も退化してしまうからである。クリニックの帰り道は、このところ、ずっと自分の足で歩いて帰っている。雨降りの日が少なくなったら、行きもバスではなく歩いていこうと思う。

 雨が降っていて、暇な日は、今のうちにプラネタリウムに行こうと思いたった。久しぶりだ。昨年は、「銀河鉄道の夜」を何回も観た。三角標のことや、星座の位置など、銀河鉄道の夜の読書からはよくわからなかったことが、視覚によって理解できた。作品世界が広がったようだ。他にも、色々な投影作品を観たし、「本日の夜空」という解説員さんの説明を聴きながらの星空の探訪も楽しんでいる。

 子どもの頃、夜空を見るのが苦手であった。じっと見てると、星空の中に身体が吸い込まれそうになり、思わず足をすくましたものであった。だから、星空を長く観ることは苦手であった。好きな理科も、宇宙の知識は興味の対象であったが、星座を実際に観ることに関する知識は案外少なかった。星座を校正する星の名前も覚えることがほとんどなかった。

 プラネタリウムが地元に出来てから、ろう者の友人が誘った。それまでは、ドームを見ることがあっても、中には入らなかった。大学生の頃は、渋谷にあった五島プラネタリウムに行くことにあこがれたが、ついに一度も訪れることがなかった。いつかは、どこかのプラネタリウムを初体験した思いつつ、地元にできたそれにはなかなか行くことはなかった。
 
 その時、上映中、ろう者の友人は眠っていた。音のない世界で、暗闇の中、就寝してしまったのも納得してしまった。映画を観る時は、かろうじて隣りの彼と手話で話すことができるが、すっかり暗くなったドームの中では、全くコミュニケーションできない。今夜の星空の解説の後に、投影番組があったが、動画というよりは、スライドを丸天井に映しだすだけのもので、あまり楽しいものではなかった。

 「銀河鉄道の夜」を中心とした作品の投影を観に行き出したのは、プラネタリウムの投影機の性能が良くなって、まさに、立体的なリアルな、あるいは幻想的な投影を楽しむことができるようになってからである。

 今日のような日にプラネタリウムに行って、リアルの世界では雨空では見えなかった夜空の星々を天球に観ることは素敵なことである。新暦の七夕の日は、晴天の日が少ないので、プラネタリウムの星に願いをかけることも、また、楽しからずや。

 夏の大三角をはじめ、ベガやアルタイルなどの星の名前と、それらが作り出す星座の名前も、覚えるのが嫌で苦手だったものも、解説を聴きながら自然に覚えることができるようになった。「惑星」の意味も最近理解したことである。今日覚えてことは、星座の数が88で、そのうち南半球でしか観ることのできない星座は4つだけということ。

 プラネタリウムに映しだされる風景の観客から観る方向の地点から写真を撮ってみた。雨の中の、少しぼんやりした空気の中に、プラネタリウムが写っていた。少し前、あの中で、今晩見えるはずの夜空を観ていたのであった。

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