ブログネタ:世間は狭いと思う?
参加中私は思う 派!
この記事を書くので、今、目の前の画面の時刻を見る。もう、午前0時を超している。ということは、出だしは今日の朝ではなく、昨日の朝ということになる。時間の進み方の早いことよ。私の人生にとって、時間は限られた有限のものであると実感することが多くなった。では、空間の方は。人は成長と共に、活動の範囲を広げていく。生きる世界が拡大するといっても良い。赤ん坊の時は、母親を中心にしたごく狭い空間に生きている。歩けるようになると、世界が少しだけ広くなる。幼稚園や保育園に行く頃には、もっと世界が広くなる。こうして成長と共に世界は広がっていく。でも、人間社会も有限で無限ではない。
もう、この世界には冒険家が活躍する未知の世界はほとんど残っていない。冒険家がGPSやPCを使う現在、世界はぐんと狭くなっている。私たち、「普通の人間」の生活する空間は、彼らほどそんなに広くはないだろう。通信手段や移動のための交通機関の発達で、いよいよ空間的には狭くなっていく。だから、テレビを見ていて、友人や知人の姿を画面の中に発見することも、驚くべきことではなくなった。昨日、テレビに映っていたよねなんて会話も経験者は少なくないようだ。
昨日の朝、透析に行く時間を30分ほど早めた。ドンキホーテは朝早く行っても開店しているから、探し物をするための時間を確保するためであった。あちこち売り場を見たが、目的のものはなく、結局は透析施設に行く時間ぎりぎりで店を離れた。クリニックの近くの電気量販店の前で、前方にどこかで見たことのある人物の姿を認めた。前に、ブログで何時間も待たされて待ちぼうけされた知人であった。あの時は、メールで「君の行為は、人の時間を無駄にさせたことだから、その人の大事な時間を、自由に使えるはずの時間を奪ったことになる。限られた時間だけれども、その人をその時間だけ殺したことと同じだ。」と書き送った。その後、別の知人を通して、彼がそのメールの内容で、怖がっていると知った。手話を母語とするろう者は、視覚的空間的言語である日本手話と使う。手話を使ってコミュニケーションしている時、自分の前方の一角に手話と同じ内容の画面が映っているというろう者の発言が載っている本を読んだことがある。彼も、メールの内容が視覚化されて、そのイメージにおびえていたのか。
彼は、あの時よりかなり太っていた。人間関係が苦手な彼は、今は、この街から離れて暮らしていることになっている。自分の世界を今は大切にしている。声をかけようかと躊躇している間に、その量販店に入っていった。PC売り場に行くのだろう。以前はよく一緒に行ったものであるが。躊躇したのは、今は、会わない方がいいとも考えたからだ。でも、クリニックに遅刻しないで行くため急いでいる時に、彼の姿を認めるなんて、なんて間が悪いのだろうと思った。同じ街に住んでいるのだから、出会っても不思議なことではないのであるが、これも縁のなせる業なのであろう。
哲学や、この縁という言葉を使う仏教的考えの中には、この世の中のものはすべてつながっていると解釈しているようだ。街を歩いている多くの他人同士も、どこかでつながっていると考える。生物学的にも、自分の先祖をたどっていくと、そうした歩行者の中には、同じ血が流れている「遠い親戚」がいてもおかしくないのである。縁があるけれども、それに気付かないのは、コミュニケーションが足りないからだろう、お互いの情報が共有されることがないからであろう。親しく話をしていくうちに、お互いに、共通の知人を介して縁があることなどに気付かされることは珍しくない。患者団体の事務局員の1人は、同じ高校の卒業生であった。サークルの手話通訳の人は、透析団体の東腎協が立ち上がった時にお手伝いをしたことがあると話してくれた。当時、病院の看護師をしていたという。
父親が入院していた病院の売店の店主は、小学校の同級生の女性だった。直接には会ってはいないが、父親から話を聞いた。その病院では、サークルの人にも会ったし(1人は父親が緊急入院をした日に、面会の受付係をしていた、もう1人は患者さんとして待合室で会った)、知人も何人か通院していたり、かつて手術をしたことがあるということが判明したりした。面会に行く母親が乗ったタクシーの運転者が、妹の義理の兄であった。この病院をめぐっても、人と人との縁を実感した。
縁でつながっている世間という世界は、狭く感じられても当然のことのように思える。気付かずにすれ違う人も、案外、縁の深い人かも知れない。たまたま、気付いた時に「世間は狭い」と思ったりする。
今は、人と人との関係が希薄になって、昔からのコミュニティが壊れている時代である。もっと、周囲の人とコミュニケージョンを試みて、「世間の狭さ」を実感して、新たなコミュニティを作る必要があるのではないか。空虚な広い世間は、煩わしくなないが殺伐としている。この文章を打ち込みながら、そんなことを考えていた。
