生徒や学生の頃、授業の中で教師からの設問に答える時、学級会で意見を述べる時、自分で正しいと思って発言しようとしたら周りの大多数の意見が自分の意見と違うことが分かった時、急きょ、発現することをあきらめたことのある人はどれほどいるのであろうか。また、大人の世界でも、自分の意見を言うべき時に、同様な状況下、つまりは周囲の多数意見と違った見解を述べることが判明した時に、自分の当初の考えを引っ込めて、その多数意見に沿った形で発言してしますことはあるであろうか。私には、少なからずそうした経験がある。おそらく、同じ思いをされている方も少なくないのであろう。後から、自分はその時、適切な少数意見を言おうとしていたのだといったところで、説得力のない言い訳にしか聞こえまい。

 多数意見に沿って発言したり、行動したりすることの方が、生きていくのには楽であるという現実からも、このニュースのタイトルの『皆がするなら私も、称賛を沸き起こすのは「仲間の圧力」』ということもわかる気がするのである。しかし、今回の研究結果では、心理学的手法と数学的解析手法でその理由を解明したと報道された。

 心理学というのは、他の自然科学と比べると、人間の心理を研究対象にするものゆえ、どうも、研究のなかに研究者の主観が入り込むような気がいつもしている。たとえば、性格テスト、知能検査なども、そのテストの客観性の保証などというものは疑問を感じてしまう。ロールシャッハテストも、疑似科学とする立場もある。解釈者の考え、世界観が後付け判断の形で反映されるにすぎないとされるのである。しかし、できるだけ多くの判断の要素を詰め込んだ上での、研究成果に関しては、ある程度の信頼性は見出せるのあろう。社会心理現象のある一面を映し出すことは確かにあるのだろうから、自分なりに判断基準の参考資料としては使えると思える。

 「社会感染」という現象は、現代の社会情勢に少なからず見出すことができる。「人間は動物と同じように、非常に単純に、身近にある合図に従ってしまう」という研究者の指摘は、社会科学の上でも心しておきたいことである。

 昨日は、都議選の開票日であったが、「社会感染」について、開票結果を見ながら考えさせられた。我々、透析患者を含めた障害者は、平和な時にしか生きられないので、ファシズムの萌芽が社会に見られる時には、警戒心が高まる。理性の国と評価されることのあったドイツで、高い国民性が指摘される国民がナチズムを受け入れたのかなどは、無関心ではいられない問題である。

 選挙の時に、タレント候補に入れてしまう我が国の有権者の行動も、「社会感染」ということに深く関係していることなのであろう。そうした有権者の傾向は、「西高東低」の傾向があると思われるが、東京の選挙でも、似たような現象が起こっている。

 今回の都議選の結果を見て、一定の範囲であるが、有権者の見せた健全性も、まだ、東京が衆愚政治に完全に陥っていないという感じをもたらしてくれた。良い政治は良い有権者がその基盤にいなければならないし、気まぐれな、理性より気分や感情面に支配された有権者によって政治家を選ぶことは、その後の政治の運用の悪さを責める前に、有権者の責任でもある。

『「統計を見ると、拍手する人が増えるにつれて、拍手していなかった人たちは『加わらなければ』と感じ始めるのだということが分かる。同様に、拍手をやめる人が出始めれば、他のすべての人たちには『やめなければ』というプレッシャーがかかり、それが強くなっていく』-記事の中の研究者の発言を見ながら強く感じた。

 現代は、ネット社会の中で「社会感染」ということが起こりやすいリスクの高さも意識せざるを得なかった。解決法は、容易ではないが、「利己主義」ではない「個人主義」を出発点とする人間が、社会の基本となることなのだろう。社会は、そうした人間が、よりよい生き方ができるための手段と考えることも必要なのだろうか。

 感覚だけで決めることの危険性についても、今回のニュースから読み取ることができるようであった。
 七夕に、患者会の学習会をすることになった。せっかく七夕の日の開催となったので、出席者に短冊に何か書いてもらおうと企画した。
 ダイソーには、1本105円の作り物の笹が売っていた。ドンキホーテにも色々なビニール製の笹が売られていた。本物が欲しいのであるが、最近というよりは、小学生の時もなかなか本物の笹の枝を手に入れるのは難しかった。花屋でも行けば売っているのかな、などと思ったが、準備を急いでいたのでネットの通販で、ホウライチクの鉢植えを2つ注文した。飾り付けの後は、観葉植物として育てればいい。笹ではないが、作り物よりは絶対に良い。
 短冊とちょっとした飾りものは、透析の帰りにドンキホーテで買った。

 さて、新しい八王子のお菓子の新発売。お菓子といっても飴であるが。「なた豆天狗のど飴」という。
袋には、八王子のゆるキャラの「はっちおーじ」という高尾山に縁の深い天狗と、タヌキの「たき坊」g書かれている。なた豆が使ってある飴、そこが気に入った。なた豆って、身体によさそうで好きである。販売者は「京昌コーポレーション『ぬくもり工房・京昌』」。八王子で栽培されたなた豆使用だって。値段は、350円か360円。忘れた。桑の葉の飴も売られている。八王子はかつては桑都(そうと)と呼ばれていた。

 果たして、このなた豆のど飴、八王子の新しいお土産になることができるのだろうか。

 また、買いに行かなくては、


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携帯1番最初に買ったのいつ? ブログネタ:携帯1番最初に買ったのいつ? 参加中
 一年長生きすれば、今まで見たことのない違った風景を見ることができる、最近はそのように実感することが多くなりました。私たちの生活を便利にする道具の発達は、年と共に加速していくようです。私も、それなりに年を重ねてきましたので、テレビが家にやってきた時、黒電話が家で使えるようになった時、モノクロテレビがカラーテレビに変わった時など、多くの転回点を見てきました。初期のPCの登場時には、こうしてブログという形で、自分から情報を発するなどということは想像だにできませんでした。
 
 手話の世界に触れ始めた高校生の頃には、電話やファックスの手話表現はありました。でも、その頃には存在しない携帯電話という表現がなかったのは、当然のことでした。また、テレビの表現も、映像という表現にチャンネルを回す表現が付いていました。手話も言語ですから、時代や社会の状況を反映するものです。テレビも、現在は、映像という表現だけで(これに口形を付けたり、文の前後の流れから判断する)表現するようです。かつてのチャンネルの部分の表現は消えてしまい(当時の様子を再現する時は、付け加えてもいいのでしょうが)、もし、現在、チャンネルをガチャガチャと回す表現に変わるものを使用するとしたら、リモコンを操作する表現になるのでしょう。

 さて、今では、電車に乗るとスマホを使う人の姿が目立つようになっています。電車内の案内でも、ホームを歩く時は、スマホを見ながら歩かないで下さいと盛んに放送しています。スマホに視線を奪われて、電車と接触するリスクが増えているからのようです。

 私は、スマホではなく、今もガラ携を使っています。確かにスマホは便利ですが、大きさを考えるとタブレットを使った方が、使い勝手が良いようなので、今後も、ガラ携が携帯ショップから影の薄い存在となるまでは、使い続けるつもりです。

 前置きが長くなりましたが、お題に移りたいと思います。私が携帯を最初に買ったのは、今から9年10カ月くらい前のことでした。ということは、世の中にごく普通に携帯が普及した後、かなり時間が経ってから購入したことになります。当時は、自分で携帯を購入するつもりはほとんどなかったのが実際の気持ちでした。購入するにしても、使用するにしても、安くない出費を考えると、ショップまで行ってお店の人から話を聞くことする考えていませんでした。その頃は、慢性腎不全からの透析導入以降3年程経過していた時期でした。
 その頃からしばらくすると、透析後に、帰宅途中で血圧が下がってしまったり、クリニック内で体調に変調を起こす患者さんの様子を見たりして、だんだんと自分に透析に関する困りごとが生じた場合に、自宅やクリニック等への連絡方法を確保しなくてはいけないなどと心配するようになりました。クリニックへの往復経路で、具合が悪くなったり、悪天候の中での施設への遅れての到着などの非常時の連絡が、容易にできるようにするためには、携帯を持つ必要性を強く感じるようになりました。世の中からは、だんだんと公衆電話の姿が消えていく時期に重なっていました。クリニック内にも、公衆電話が設置してありましたが、NTTにしてみれば、主にお年寄りがたまに使うことの方が普通になってしまった、赤字の対象でしかない電話は、本来は撤退させたい存在となってたようでした。
 また、患者会の役員をやるようになったという個人的な事情としても、役員同士の急な連絡に対応できることや、他にも友人を含めて、周囲の人々も携帯利用者が増えたことが、携帯購入の気持ちが強まる後押しとなったのでした。
 透析患者の防災という点でも、地震などの災害時における情報収集にも、安否確認にも、いつも携帯している電話は必需品と考えられるようになっていました。通話は難しくても、メール等を使えば、災害時は送受信に時間がかかるかもしてませんが、何とか通じる可能性が高いようです。
 それに別の大きな理由としては、手話サークルに通うようになってから、ろう者にとって、携帯のメールがコミュニケーション手段として、すっかり定着していることを目の当たりにしたことでした。お年寄りの方も、使い慣れていました。サークル員もろう者との連絡、もちろん聴者同士の情報伝達にも有用なものとして使っていました。かつての、ファックスだけの時代、それ以前の聴者にお願いして代わりの電話をかけてもらっていた時代がうそのようになっていたのでした。

 こうして、必要性に迫られて、携帯を購入した次第です。十年ひと昔とはいいますが、わずかばかり10年には足りませんでしたが。
 加えて、透析患者の集まりである全腎協の電話会社などへの働き掛けで、その当時には、携帯電話の基本料金が50%に割引になったばかりでした。パケット料金などは、障害者割引の対象外でしたが、携帯を経済的にも利用しやすくなった訳です。なお現在は、ドコモは障害者割引のハーティ割引が60%引き(他の付加機能使用料も同様)になっていますので、助かっています。全腎協と電話会社には感謝しております。余談ですが、患者会の活動も、個人主義の観点から観ても大切なことだと実感しています。



電車の中で寝る? ブログネタ:電車の中で寝る? 参加中

私は寝る 派!

 初めて電車通学を始めた高校生の時から、電車の中で寝るということはありませんでした。結構は神経質なので、とても電車の中で寝ることなど、それも、人前でなるなどということは考えられませんでした。座席に腰掛けている時は、たいていは読書をしていましたが、時々、男女を問わず若い人が眠りに落ちて、頭をこちらの方の上に載せてくることが良くありました。肩に頭の重さを感じるくらい、良く寝ている人がいましたが、どうしても肩を強く揺らして頭をどかすことは、なかなかできませんでした。自分で頭の向きを変えるまで、ひたすら自分の停車駅到着の時間を考えながら待つことが多かったです。しかし、良く無防備で寝ることができるなどと感心していました。

 ところが、最近は電車の中で睡魔に襲われることが多くなりました。原因の一つは、就寝時刻が遅くなる傾向にあります。年を重ねるごとに、夜、起きて自分の好きなことに時間を費やしたいと思うようになったからです。限られた人生の時間の三分の一を睡眠に充てることがもったいないような気がするのです。もちろん、十分な睡眠をとらないと、健康面で心身ともに悪影響を与えることは分かっているのですが。もう一つの原因は、透析患者に多いレストレスレッグシンドローム、、いわゆる「むずむず脚症候群」の治療薬の影響です。脚の中を、虫が這って行くような嫌な感覚を覚えるという症状は、睡眠障害を起こしやすく、じっとしている時、それもや漢字に起こる傾向があります。そんな時は、脚を動かす、歩くのが発作を鎮めるのには有効なのですが、まさか、就寝中の夜中に部屋の中を歩き回るわけにはいかない。そこで、効果のある飲み薬の登場です。3種類飲んでいますが、どれも、眠気を起こす作用があります。おかげで、睡眠薬の服用の必要はなくなりました。ところが、就寝前に服用するこの薬を飲む時間によっては、翌日の昼間にも眠気を起こすことがあるのです。就寝時刻が遅くなっている結果、薬を飲む時間も遅くなっているのが影響しているようです。また、腎臓病でもともと高血圧症だったのが、透析時間を延長したり、以前より体重が増えたのか、最近はどちらかというと血圧が低めになっています。食後などは、消化器の方に血液が集まりますので、食事の後などひどく眠りたくなります。
 こうした原因が重なるのでしょう、電車の中で睡魔に襲われることが多くなりました。文庫本などを読んでいて、突然の眠気に、思わず本を落としてしまったことがあります。何とか、正気に戻って本を落とさずに済んだこともあります。タフレットで、ゲームをしている時も、タブレットをもろに足元に落としてしまったこともあります。そういう時は、音もしますから人目が気になります。最悪は、一駅乗り過ごしてしまって、あわてて次の駅から戻ってきたことです。電車の中で眠るというよりは、眠くなってしまうというのが正確な表現なのでしょうが、今の状態と比べれば、僕の方に頭を乗せてきた若い人たちの方が幸福感に満ちていたような気がします。今後は、電車の中で短時間、あるいは一瞬でも寝ることがないように努める必要があると感じる自分でありました。



電車の中で寝る?
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字がキレイ、絵が上手、どっちが魅力的? ブログネタ:字がキレイ、絵が上手、どっちが魅力的? 参加中

私は絵が上手 派!

  僕は、幼少の頃は、家中に訳のわからない絵を描きまくっていた。この落書きの氾濫は親を困らせた。小学生になってからは、そうしたことは一切しなくなった。時々、家の中の目立たない空間の壁に描かれた消し忘れの絵を見ては、不思議な感じに陥った。記憶の断片では無性に描きたかったこと、描いている時は、自分の世界に浸れたこと、罪の意識などみじんもなかったことがよみがえる。ある意味、悪ガキであった。
 小学校以降の学生時代は、自分に絵の才能がないことの、劣等感を含めた自己否定感の連続であった。図工も美術も苦手科目で、その時間帯は憂鬱であった。ただ、美術鑑賞を含む美術史は好きであったが。どうも、体育を含め身体を動かすことが得意でなかったからと、ものの本質を自分の感性で自由にとらえることができなかったからだ。「自由に」しろというのが、これまたむずかしいことであったのだ。今思えば、一部の子どもを除いては、まず、絵の基本的な描き方から入るべきだと思っている。模倣で、心より形から入れば良いのである。小学校のクラスでは、勉強ばかりか、絵を描かせれば大人並の同級生がいた。彼の才能にはあこがれることしかできなかった。

 時の方はというと、どうもせっかちな性格と、お手本通りに書くのがあまり好きでない天邪鬼の性格から、きれいに書くのは苦手であった。技法を必要とする習字などは、まるで駄目で、筆運びすらできなかった。

 夏休みの自由画や冬休みの習字は呪うべき宿題であった。

 輪をかけて、口の悪い父親は、時と絵のまずさを折りがあるたびに指摘した。悔しかったけれど、本当だったので仕方がなかった。

 自分の経験からは、絵が上手の方が魅力的だと思う。字に関しては、お手本通りに書くことがどうやら字がきれいということのようだ。世の中に、あまたいる書家も、最終的には「前衛」的な字を書くようになる。お手本通りに書いても、横一線にしかならないのであろう。個性のある字を書いたり、ほうきのような筆で書く。

 雛な時、僕は博物館や美術館に行くことが大好きである。絵の表現の多様性に感嘆する。習字の場合、「前衛的」な作品は、外国人から墨絵のようだとか、アートのようだと評されることが多いようだ。そうなると、究極の習字がアートであるのなら、また鉛筆やペン習字の果てが変態文字とりかいするなら、限りなく絵画の世界の範疇ではないか。

 てな訳で、絵が上手な方が、鑑賞家でしかない僕であるが、魅力的なのである。



字がキレイ、絵が上手、どっちが魅力的?
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