人はなぜ殺人を犯してはならないのか、という質問を子どもがした場合、何と答えるのだろうか。社会契約説にも通じる「自分が(他人によって)殺されたくないから、自分も(他人を)殺すことはしない」」という、日本語では「お互い様」ということが案外納得できる理由のような気がする。この精神は、人間が社会を形成した時(ロビンソン・クルーソーのように孤独な生活を送るのではなく、2人以上の人間が共同生活を送る最小単位からも関わってくる)から必要とされたもので、お互いに求められる許容する対象行為は、殺人・傷害といった否定的行為から、反社会性がないが他人がすると気になる行為の受容まで拡大していく。行為だけでなく、本来は表に表出しなければ分からないな内心の自由から、思想の自由までもその範疇に入れて拡大を続けていった。思想の自由な市場が民主主義を保証するという考えも出現して、「多様性」が保障された社会を目指す人々も増えていった。「人にしてもらいたいことを、自分でもしてあげなさい」「人にしてもらいたくないことは、人にすべきではない」といった考え方は、独善的になる危険性をはらんで宗教上に、キリスト教の黄金律をはじめ、各宗派に見られることも興味深い。

 性に関する多様性も、思想の多様性同様に社会が健全性を持っている場合は、受け入れる方向にあるようだ。人間の性というものも、生物学的なセックスの概念のほかに社会(制度的、歴史的)な性別であるジェンダーという概念が受容されるように張った。性的な愛情対象が同性である同性愛や、心(脳)と身体との不一致であるトランスジェンダーも社会の認知がふかまっているようだ。ただし、ネオナチにおけるフォモフォビアのごとく、国家独裁主義を辛抱する人や原理主義者の中には、こうした事態を認めない傾向が強い。多様性の受容は、独裁性や排他性になじむはずがないからである。

 人間という存在は、不思議なものである。他の動物のように、純粋に生物学的に説明できない面を多く有している。動物として生きていく上で、特に必要とされない「宇宙の原理」を追及していることなど、学問する動機が「人間的だから」という答えになっていないような説明をすることになる。独善的な思想や行動に支配されてしまうことも、説明は同様に難しい。

 今回のニュースは、性の多様性を政府レベルで認める傾向の深まりを示しているようだ。

 ニュースを引用してみると「オーストラリア政府は、公的文書に記録される性別として、個人が「男性」や「女性」の代わりに「不確定/インターセックス/不特定」という第3の選択肢を選べるようにすることを定めた新指針を発表した。

 マーク・ドレフュス(Mark Dreyfus)連邦司法長官によると、7月1日に発効するこの新指針により、トランスジェンダーやインターセックスといった人々は、各連邦政府機関の保管する個人記録上の自分の性別を明確化したり、変更したりすることがより容易になるという。

 ドレフュス長官は13日に発表した声明のなかで、「人々は、出生時や幼少時に与えられたものとは異なる性別や不確定な性別として、自己を認識したり社会から認められたりできるべきだと、われわれは認識している」と述べている。」。

 第3の記述方法から性を変える、自己の性別決定も柔軟な方法をとっているようだ。

 世界では、LGBTを認めない、刑法犯の対象とされているところもあるし、受容する法律の成立をめぐって国民の価値観が2つに分かれる事態も起こっている。
人間は、多様性を尊重して生きる存在であるのか、個性のない一つの価値観に収束する生き物であるかの選択をする必要がありそうだ。ジェンダーや関連するフェミニズムは、個人主義を認めない国家主義者の嫌悪する対象である。

 なお、インターセックスについては、日本ではあまり取り上げないのではないだろうか。
昨日は、久しぶりにまとまった雨が降る中、透析クリニックに向かった。まだ。足の痛さは続いているが、行きはバスを利用して一部の区間だけでも、脚の負担を軽くする。雨の日は、透析に行くのは面倒な時がある。傘をさしても、雨の降り方では、身体が濡れてしまう時、荷物が少なくないのに傘をさして歩く不便さなど。足が痛い時に、傘をさすのは少しばかりしんどい。

 でも、雨が十分降らなければ、夏の帰還の水不足の事態を招く。そうなれば、多量に水を使用する透析にも影響が及ぶ。自分を含めて、人間はかなりわがままにできている。寒い冬は、ごろ寝しても大丈夫な夏の暑さを思い、熱い夏は冬の寒さを思ったりする。

 川の水も大不増えた。ちょこっと,安堵した。帰りは、歩いて帰った。痛みをこらえながら歩くと、痛さに身体が馴れてくるし、痛みが軽くなる時間も出てくるようになった。

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 本日は、夜から古本まつりの反省会に初めて参加した。反省会というよりは、交流会でもあった。次回の秋の開催日も決まった。こうした場で、色々な職業やボランティアの人と話すことは楽しいし、勉強にもなる。帰りは、9時過ぎであったが、夜の街を通って帰った。不思議と足の痛みが軽くなっていた。少しばかり走れたし、早歩きもできるようになった。見込みのない痛みは、辛いものである。でも、やがては回復することが分かれば、我慢もできる。今日の反省会は、ロキソニンより効果があったのであろうか。
 明日は、朝食抜きでエコー検査がある。主治医は、また、早期の副甲状腺摘出手術を勧めるだろう。憂鬱なことである。検査は、結果が判明するまで、心に刺さったとげとなる。6月の憂鬱な原因の一つ。
 内部障害の透析患者として、東日本大震災は自分と仲間の命を守るためにどんなことができるのかを問いつけるものでした。
 昨日の朝日新聞の一面では「要援護者名簿 3割未整備 災害避難 困難な高齢・障害者」というタイトルで、国として初めて全市区町村と対象に行った要援護者名簿についての整備・登録状況の調査の内閣府からの結果が報道されていました。この記事は、是非、お読みいただきください。個人情報保護という観点からの名簿作成のむずかしさ等の考えるべき論点も含まれています。今回は、この震災で死亡した要援護者数を把握していた39自治体の障害者の死亡者数1702人とういうの数値の大きさに関する内容が無視できないものでした。住民全体の死亡率0.75%に対して障害者の死亡率は1.47%と約2倍となっていることが判明しています。

 実際に地震発生から避難生活の中で、一体どのような状況下に障害者たちは置かれていたのか、また、今後も日本各地では発生が懸念されている地震等の災害に、障害者や社会的弱者に対して防災、減災のために何をなすべきか、そういった緊急の課題に対して考える、そして実行するための情報の提供としての記録映画2本が作られています。障害者の視点からの作品だそうです。

「生命のことづけ~死亡率2倍 障害のある人たちの3・11~」は、劇映画「ゆずり葉」のろう者の監督、早瀬憲太郎さんが監督を務めています。
 もう1本は、飯田基晴監督の「逃げ遅れる人々」。

 この2本が、東京渋谷アップリンクで 6/22(土)~6/28(金)料金一般・学生¥1,300(平日学割¥1,000)/小・中・シニア¥1,000で上映されます。連日午前10時30分1回の上映であるが24,25日両日は午後6時半の2回目上映もあるとのことです。最終日の28日は、早瀬監督と「生命のことづけ」制作を発案した「日本障害フォーラム」(JDF)の幹事会議長藤井さん(視覚障害)のトークと軽食・ドリンク付きの懇親会「つながりシネマぱぶ」が会費2000円で行われる予定になっています。

 ちなみに透析患者団体の全国組織である㈳全国腎臓病協議会は、障害者フォーラムの構成団体の日本障害者協議会の正会員でありますので、今後の上映も含めて機会がありましたら、透析患者さんも見ていただきたいです。もちろん、健常者の方にこそ、見ていただきたい作品でもあります。人間は、年をとった時には、障害者に近い存在になることが自然の流れのようです。ノーマライゼーションの考え方が社会の共通認識となる世の中の到来は、誰もが住みやすい街づくりにもつながります。防災の面でもあります。




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 この世の中には、科学で解けない謎があるのだ、そう涼しい顔とおっしゃる人がいます。空飛ぶ円盤や宇宙人、霊魂、お化けが存在する理由だそうです。でも、よく考えると、科学で解明できないことが無数にあるというのは、科学で説明のできることも少なくないということと同様に、当たり前のことを言っているにすぎないわけです。人間という存在は、不思議なもので、お金にならなくても、自分の利益にならなくても、宇宙を始め、自然の仕組みやらを研究してきたのです。誰からも命じられることもなく。人間だけが、自分の人生に直接関係なくても、自然の成り立ちやら法則を研究してきました。人類もやがては滅びることに、種にも寿命というものがありそうですし、この太陽系だって人間の時間から比べればとてもなく長い時間がながれるものの、最期が来るのはわかっています。人が永遠にあこがれるのがわかるような気がします。さて、本題に戻って、科学が進歩していく、そして新たな研究課題を見出してきたのが科学の歴史なら、その推進力は尽きせぬこの世界の謎に他ならないわけです。そう、科学で解明できないことがあるのはこれからも先、図と続くことなのです。自然界自体、尽きせぬものなのです。だからといって、解明できないこと =霊魂の実在、宇宙人の実在ということにはならないこともきっちり自覚すべきです。

 これは、理性を中心とした話です。人間は、厄介な存在で、感情的な動物でもあるわけです。生まれる時同様に、1人で死ななくてはならない。病気や自分の努力でもどうすることができないことがあることに、子どもの段階から気付くことも多い。無常観も、ある程度人間をやっていると、自然に理解できたりする。群衆の中の孤独などというのも感じている。生き辛さから救われたいと思う、そんな時に、自分たちの味方になってくれる存在を夢見る、希求する。この感情面の感覚は、人間性を破壊したり、金儲けのための宗教や、思想でなければ否定することではないのでしょう。「アレキサンドリア」という比較的最近に上映されている外国映画は、一神教の独断性と暴力性も描いた作品なので、こんなことを考える上ではとても参考になる作品なので、機会があったらご覧ください。

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 また、長々と書いてしまいましたが、豊かな美しい自然の中や、社寺の境内に立つと、敬虔な気持ち、自分が清められたような感じになるのは、感情面では良いことのようです。自分も高広大な宇宙につながっているとか、意味ある構成物であると感じるのは、肯定されるべき自然哲学なのでしょう。独善的でなく、原初の宗教のような感覚、大事にしたいと思います。

 さて、本題にもどりまして、ダイソーでは、時々気になる植物が売られていることがあります。花屋さんでも、まめに通っていると珍しい植物に出会ったりしますが、百均で買い物に行ったついでに、生きている植物の売り場を見ると楽しいです。でも、室内で長いこと売れずに置かれて枯れかかっている植物をみると悲しくなります。最近では、エアプラントと言われているチランジアもごく普通に売られているのは、ある意味、感慨深いです。
 今日は、売り場に羅漢まきの実生苗の鉢植えが観葉植物として売られていましたのを発見。観葉植物となるのは、西洋で日本のアオキが観葉植物として扱われるのと同じ感覚なんでしょうか。
 その売り場で、今回、目を惹かれたのが、なぎのきの実生苗の小さな鉢の寄せ植えでした。針葉樹には見えない幅広の照葉がなんとも魅力的でした。本来は、寺社の境内などに植えられる「御神木」が、観葉植物として売られていたんですね。しかもダイソーで。葉っぱは、魔除けにもなるとか、縁結びにも御利益があるなどといわれていますが、そう思えば、幼木とはいえ有り難く見えてきます。昔のヒ人のように、でも、それは決して私たちより高い所に位置するというよりは、身近な存在に思えてくるのです。財布の中などに入れて、密やかに幸をいのり、間をよけている感覚を持ってみるのもいいかも知れません。
 なぎという言葉からは、風が吹きやむ静かな状態を表す「凪」という言葉のイメージが湧きますが、心の平安はなかなか味わえないのが現実です。
 百均のお店といっても、全部が百円というわけではなく、今回出会えたまきのきは税込みで315円商品でした。
 感情面では、昔から俗世に汚れていない宗教に心ひかれる自分がそれを買ってしまったのは、植物好きなので自然なことでした。人間は、ある存在に自分や大事な人の幸を祈ったりもする不思議な存在でもあります。それが、自分の感情の投影に過ぎないものにしても、そういう気持ちは大事にしたいですね。百円ショップの買い物で、ほんの少しでもハッピーな気持ちになれれば、それも善也かな。


 二年ほど前、比国の車の多く行き交う大路にて起こりし事件、人々の心を打てり。その事件とは、飼い主の幼き娘とそのいとこ、大路を渡らんとするところにまさにオートバイが飛びこまんとするを、カバンなる犬の、進み来るオートバイの前に身を投げて子らを救いしことなり。この行いにより、カバンは己が顔の一部を失えり。
人々、かのカバンを英雄犬と称えり。しかし、その大きなる怪我は痛々しきものなれり。その時、カバンは子をはらみし雌犬なりし。昨今は、インターネットなるもの流行りおりしが、遠く米国なる女性、ふぇいずぶっく、つぃったーにてカバンを自国にて治療する活動を始めけり。結果、集まりし善意の寄付金にて、カバン、米国に渡り、長き治療を受けり。カバン、不幸にもがんも患いし、加えて寄生虫も宿りし身なり。難しき治療に多くの獣医関わり、カバン、良き治療を受けることかなう。病癒え、新しき顔を得て、本国に帰れり。
 これ、心ひかれしニュースなり。人々の善意も、今の世の、ネット世界のなせるわざかな。

 人にあらねども、犬にも「情けは人のためならず」ということあることを知り、驚かれぬる。新しき顔を得たるカバンに幸あれ。