「余裕のある人」ってどんな人? ブログネタ:「余裕のある人」ってどんな人? 参加中
 「余裕」という言葉から、真っ先に頭に浮かんだ言葉は「あそび」であった。文化系の僕としては、「遊びをせんとや生まれけむ」という気分で生き抜いていくのが余裕ありの生き方などとうそぶきたいところであるが、今回の「あそび」は、理科系のテク酸などが良く使う機械の遊びのことである。教習所などでは、ハンドルの遊びのことが教えられる。機械と機械の間にあるある一定の空間で、機械を操作する上での余裕の部分でしたよね。きっちりしすぎると、機械が円滑に動かなくなる。無駄なようで、必要な空間。これが、人間の場合も必要だというイメージが湧いたのでした。でも、たとえ話というのは、イメージでつかみ取るには有効でも、じっくり考えるのには、十分ではないようです。もっと具体的にということなんでしょうね。

 まずは、毎日の生活をするのに必要なお金以上を持っている人が考えられます。財布の中身のことを心配しないで買い物もできるし、心が広ければ、ビッグイシューのサポート会員にもなれます。最近では、一時的に株価が上昇しましたが、お金に余裕がある人で、投資というよりは財産として株を所有している人は、何日の間に、何もすることなく莫大な利益を得たそうです。とはいえ、充分以上の財産を持っている人は、日本人全体のわずかな人々だけですし、日本経済のバブルの崩壊の時のことを考えると、とても余裕のある人とは思えませんでした。デイ・トレイダーの人の人の生き方もしんどそうです。

 人間は、生まれてくる時と死ぬ時は1人です。でも、生きていく間は、たくさんの人と関係を持って、社会の中で生きていかなければなりません。コミュニケーションも、あくまでも、話す相手をいつも想定しています。一人称の私だけでは、会話をはじめとしたコミュニケーションは成り立ちません。あくまでも、話し相手のあなた、ないしはあなたたちという2人称が存在します。この二人称も、会話の状況により変化していきます。Aと二人ではなしていたら、そこにBがやってきた。もしかしたら、Bは、それまで3人称の存在だったのかもしれません。これから先、私とAが一人称で、Bが二人称、あるいは、私とBが一人称で、Aが二人称の立場になるかもしれません。コミュニケーションは二人称を想定している、この基本的な考え方は、手話を学ぶ上で教えられた大事な視点です。人が人と関わりを持って生きていく、そのことを基本として、世の中は色々な、多様性ある人間で成り立っていますから、「余裕のある人」とは、どんな相手とも心を開いてコミュニケーション出来る人である。僕の現在の理解です。相手に対して自分を必要以上に大きな存在であると思わせようとしたり、反対に、自分はなんて卑小な存在であるのかと劣等感を持ったりせずに、自然体で接することが出来る人、自己肯定感を持つことのできる人、そういう人に私はなりたい。

 そして、その時に、その人と大事な縁が出来て話をすることが出来るのですから、心の中と頭の中に、今まで生きてきた知恵とか知識とか思いやりの気持ちとかのたくさんの経験という財産の入った引き出しを持っていたら、相手に合わせて引き出しの中から相応しいものを取り出すことができます。お金では買えない引き出しの中の宝物をいっぱい持っている人が「余裕のある人」だと確信しています。では、どうやったら引き出しの中を満たすことが出来るのでしょうか。だれでも、最初は隙間だらけの引き出しの空間しか持っていませんが、人の話を良く聞く、美しい、あるいは心に訴えてくる絵画や戯曲や書籍やらから多くのものを自分のものにしていくことができたら、それから「黄金律」を実践して、人の優しさに触れるんですよね。「あなたが人にしてもらいたいことを、その人にしなさい」。あるいは「してもらいたくないことは、その人にしてはならない」。言うが易くですが。



今痛いところ ブログネタ:今痛いところ 参加中
 今、痛い所は僕の心です。心が痛い、懐かしい人に会いたい、、心のとげを抜きたい、この世知辛い世の中を生き抜きたい、本音が言える環境が基本ね、などというのは冗談です。精神的な痛みには、案外順応性があるようです。「心が痛い。死んでしまいたいくらい」というのは口癖となっていますが、自分に対する愚痴みたいなものです。さもなければ、とっくに心ではなく、脳の病気になっています。明後日は、患者団体の勉強会のお手伝いの予定でしたが、中心となる進行役の人の急病で、当日の司会をはじめ、イベントの責任者になってしまいました。また、近所で急な不幸がありまして、同じ日の夕刻にまでは急いで帰宅して礼服に着替えてお通夜に参列となりました。周囲のコミュニケーションをめぐる複雑な人間関係とともに、気分が落ち込みそうでありますが、いざとなると現場で踏ん張れるようです。お気楽な性格なんでしょう。色々な人と出会えることも、思った以上に楽しんでいます。多様性を示す人間との縁を大切にしたいなどと思っていますので、苦手な人がいることも納得しています。心の本当の痛さは感じないのでしょうね。その分、自分で腹を立てることが少なくなく、心を自ら痛めとしています。
さて、本題に戻って今痛いのは身体の一部です。痛みが継続するものでも、その痛みがいつかは消えるものとはっきり分かっている場合は、耐えることができます。激しい歯の痛みも、やっとの思いで歯医者に行った場合、治療が始まればしばらくの痛みには我慢できるのも、同じ感覚です。ところが、痛みが消えるめどが立たない時は、不安な暗い気持ちが加わって、痛みが消えずに後遺症となって残ったらなどと最悪な展開を考えてしまいます。人間は、精神的な存在とされている割には、身体から来る痛みには比較的簡単に精神も参ってしまうようです。痛みの存在が常に気になって仕方ない、人とは脆い存在です。

 今、気になっている痛みは、両足首のくるぶしの外側の部分です。原因は、5月の連休を中心としたイベントに参加した折、連日、会場への往復に重い荷物を持って歩いて通ったことによる足首に対する負荷であります。会期中は、お客さん相手が仕事の中心ですから、テントの中でもなかなか休めませんでした。最終日などは、家に帰る一歩のしんどかったこと、途中で小さな子どもに追い越されていきます。一応は、帰ってからシップを貼ったのですが、足首は腫れなかったものの、翌日から透析クリニックに通うのが苦行でした。クリニックでは、痛み止めの飲み薬と湿布薬をもらいましたが、いつもは、クリニックの往復は歩行だったのが、途中までバスに乗ることにしました。途中までというのは、昼食用のお弁当を買っていかなければならないからでした。バス停で待っている時に、強風が吹くことがありましたが、思わず身体がよろけてしまいました。こうした経験は、嫌でも障害者や高齢者のバリアフリーの問題点を身体で体験することになりました。ノンステップバスの乗りやすいこと。普通のステップだと乗り降りの度に足首に痛みが突き刺さりました。一見、平らな歩道も、小さな凹凸があって、普段ならひっかけない足を引っ掛けて、前につんのめりそうになりながら、またもや、足首を痛めるのでした。

 でも、徐々には良くはなっているようです。劇的には変化はしませんが。今では、歩き始めは痛いものの、何とか、歩きながら痛みが軽くなり、早歩きも出来るようになりました。クリニックの行き帰りも、歩行の回数を増やしています。でも、買い物をしすぎた時は、足に負担がかかりますから、少し振り出しに戻った感覚です。程度は前よりましですが。それに、痛みにも馴れたようでもあります。痛みも、ある程度のレベルだったら、身体や気持ちと親和するのかもしれない、というのが今の感覚です。この痛みが永続することを恐れながらも、何とかクリアできると信じて、なるべく歩行することをリハビリだと考えて希望をもっています。そうでもしないとやっていけないからかもしれません。すぐに整形外科に行けばよかったのかもしれませんが、透析をしていると、なかなか他の診療を受けにくいのが現状です。入院ということになっても、透析施設が整っている病院でなければ不都合が起こってきます。

 現在の痛みは、耐えられるレベル内の親和状態にあるようです。


 高温注意報が一昨日に引き続き昨日も出されていた。今年の梅雨はあっという間にあけており、その後の猛暑の日の連続。今年の夏は、元気に過ごすことができるのだろうか。猛暑の夏は、一日に摂取できる水分の量が制限されている透析患者にとっては、水分管理が難しい。汗をかいた分、ドライウェイトという一つの目安としての、理論的数値としては緻密ではないが、患者ごとに決められた「標準体重」ともいうべき値が存在する。健常者に比べて大きくなりがちな心臓と肺との大きさの比較を試みた心胸比という値と、血圧の高低などを参考に、勘を働かせてはじき出したような数字である。身体から余分な水分が出なくなった透析患者には、当然、口からたくさんの水分を身体に入れれば、身体に水がたまっていくのは必定である。
 どこのクリニックにも、恐ろしく透析前の体重を増やしてくるモンスター患者が存在する。中一日の透析に、ドライウェイトよりも4キロなど普通に増やしてくる。もちろん、身体の大きな人は小さな人とは単純には比べられない。透析中1日でドライウェイトの3%以内、中2日で5%以内というのが一つの目安である。体重70キロの人だったら、中2日で3.5キロが最大値となる。だから、体重のもっと少ない人が4キロを中1日で増やすことは尋常ではないのである。6キロ以上の超モンスターもいたりする。そういう患者には、クリニックの主治医をはじめスタッフがいくら注意しても全く分からない人もいる。水分を取らなければ増えないのに、スタッフから水分を取りすぎたでしょうと言われても、身に覚えがないとうそぶく。あるいは、食事を1色抜いてまで水分だけは取っている患者もいるようだ。過剰な水分は、心臓を段々と大きくし、初期の頃たっだらこの暑くなった心臓の壁も適正な水分摂取で薄くなるのであるが、ボディブローのように時間をかけて身体にダメージを与えていく、結局は、肥大した心臓は元に戻らなくなって心不全という結果で終わりとなる。糖尿病から透析に至った患者の場合は、のどが渇きやすいので、特に気を付ける必要がある。合併症との兼ね合いもある。モンスターの1人は結局心臓を悪くしてなくなった。いつも言い訳をしていたもう1人のモンスターは、壊疽による脚切断をして結局はなくなったという話を聞いた。女性のスタッフに体重管理で注意されると、いつも「看護婦さん、きれいだね」と言っては、話をそらそうとしていた声は、何度も聞いていた。水分の過剰摂取は、時間をかけた自殺行為といっても良いのではないか。
 さて、話を元に戻して、夏の暑さで汗を良く出す透析患者は、自分で失われた水分に見合う水分を取り入れないと、熱中症や脱水症状からくる脳梗塞などのリスクを負うことになる。この季節、かなりの水分を汗腺が発達している患者は取ることができるので喜ばしい一面がある一方で、適正な量を自己管理で決めていかなくてはならない。
 ということで、一昨日は中一日であったが、クリニックの体重計の乗った時は、ドライウエイトよりマイナスの値であった。かなりの水分を取ったつもりで会ったのに。

 多摩から都心に出る時、「東京に行く」と表現をする。昨日は、東京の病院に行ったことになる。汗が良く出るので、帰りは病院内に出来たスタバで冷たい飲み物を取った。それを含めて、自販機から買ったものも含めて、冬には考えられない量の水分を取っている。

 帰りの電車の中、帰りを急いでいたので、座れる次の電車を待たずに、座れない電車に飛び乗った。つり革につかまっていた。そしたら、前の席に座っていた青年が、立ち上がって僕に席を譲ってくれた。こんなことは初めてである。東京都の「ヘルプマーク」を肩掛けカバンに付けていたのに、気がついたようだった。我々透析患者は、見た目は健常者と同じに見える「見えない障害者」である。だから、身体の調子が悪くても、優先席にも座りにくい時が多い。都で作ったヘルプマークは、対象者が「義足や人工関節を使用している方、内部障害や難病の方、妊娠初期の方など、援助や配慮を必要としている方」とされている。このマークを欲しい人は、都営地下鉄大江戸線の各駅務室で請求するともらうことができる。また大江戸線の優先席には、このマースと配慮を呼びかけるステッカーが貼ってある。まだ、このマークが使用されることになってから時間はたっていないし、認知度も大江戸線だけの告知という条件下で低いものだ。なお、都は、「ヘルプカード」というデザインは同じであるが、緊急時に周りの人に助けを求めるカードを各市区町村に作るようにガイドラインを示している。

 積を譲ってくれた青年は、たまたまこのマークを知っていたのだろう。あるいは、福祉について関心が深いのかもしれない。人を思いやる心がすたれていないという発見であった。でも、優先席に座って、スマホをいじっている若者の姿を見かけることが多いのであるが。若者でなくても、バスや電車の中で大きな声で電話している人もいる。日本は、個人主義の定着より利己主義が定着した国となったのだろう。夏目漱石の憂鬱は、現代も続いている。


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