今日は、患者団体の学習会が午前中ありました。
朝早い集会でしたが、もう夏だから午前中もありかなという感じでした。
とはいえ、晴れていましたがまだ梅雨のこと、湿度が高いのか、とても厚い朝でした。

 開場の時間より早めに着いたので、会場のアイムの周辺の彫刻を探してみました。

 僕の街も、彫刻の街と自称しています。北村西望の将軍の孫をはじめとした具象作品と、それよりも多い抽象というか前衛彫刻というのか、見ていても正直な所、感動することもない作品が、広いしないのあちらこちらに置いてあります。抽象的作品は、「遊び心」が感じられず、彫刻というよりは、物体というのが正直な感想です。芸術論は、真にやっかいなものです。絵画でも、前衛的作品である抽象画には、心が惹かれることがありません。絵をずっと上下逆に飾られても分からなかったという話が、実しやかに語られることがありますが、ありうる話であるというのが実感です。

 立川の駅を降りてから、駅前には非常に多くの彫刻があります。この街の彫刻には、「遊び心」が感じられるものが多いようです。
 身近に存在感を感じることが出来るのでしょう。彫刻の街というのは、僕の街よりは相応しいようです。

 アイムの周辺で、短時間でも次のような作品を見つけることができました。

 大きなかごは、僕のショルダーバッグと比べるとかなり大きいですね。


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 次の2点は同じ作者のようです。2次元的3次元の表現とでも言うのでしょうか、見る位置によって、微妙に変化を見せます。


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 まるで、RPGにでも出てくるようなモンスターに見えてしまいました。

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 恒温動物が、金属を使って造られています、こちらを見ている、視線を感じます。

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 かくて、学習会が始まりましたが、時間のある時は、彫刻を探すことを楽しむ事ができそうです。
 美術館や博物館の外にあるアートも、気軽に身近に触れることができます。

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 ブログだから、日記も書いてみようと思う。
などといっても、時刻は零時を少し過ぎているから、書くのは昨日のこととなる。でも、日が変わったとはいえ、「今日は」と書いたほうが自然な感じだ。朝、起きてからは、「昨日は」と書くのが自然な感じがするのと同じ感覚だ。だから、昨日のことだけれども、今日はと書いてみる。

 写真は、先週のものだ。今年は、早々と町内の祭りが始まる。今日、明日の土日である。本来は、八幡様と呼ぶ神社の祭礼の日は平日だろうと決まった日に行うのが習いであった。しかし、町内での祭りは、お勤め人の関係から、土日に行われる。また、海の日という本当は戦前のような国家主義的祝日が出来てから、海の日というイメージからは程遠い国家の呪縛を巧みに隠した祭日を、祭りの後片付けの日とした。だから、この町会の祭りは、海の日の前の土日となり、市内でも最も早い夏祭りのようだ。
 コミュニティの崩壊は、こうした行事によって防がれている。地震などの大震災が起こった時、有効に機能するのが地域のコミュニティであろう。

 今日は、透析日なので、祭りの準備が行われている会場を横目に、いつものようにクリニックに徒歩で行った。帰りは、お盆中なのでお寺とお墓に寄ることになっている。一昨年までは、両親が行っていたのであるが、少ししんどくなったので、僕が行くようになった。次の墓守の意味合いも込めて。

 最近は、疲れ気味なので、透析中、うつらうつらして体を休めている。とはいえ、透析中はベッドでじっとしていても、マラソン、人によっては短距離の要素も入っているというが、したぐらいの疲労を感じても不思議ないという。それだけ、自分の血液を回路を通してダイアライザーの中できれいにして、また、回路で自分の体内に戻すのは、相当なエネルギーが要るということのようだ。不思議と、お腹が空き、透析しながらの昼食は、折り返し点の意味も含めて、ちょっとした楽しみである。

 透析終了後、バスで市街地のハズレの高台にある市営の霊園に行く。以前は、墓地というのは汚れた場所のような気のする場所であった。しかし、一人で何回か墓参りするようになってから、感じ方も変わっていった。僕の知らない祖父も眠っている。農家の次男坊に生まれたけれども、かなりの変人だったという。その血が自分にも流れているようだ。

 墓地から家まで、歩いて帰った。お墓では、少しばかり草むしりをしたりしていたので、梅雨時の暑さの中、かなり疲れた。祭りの会場の横を通る。始まるのが待ち遠しい子どもたちの姿も目立つ。お囃子のレコード、いや、CDが賑やかに雰囲気を作っている。

 明日は、午前中、患者団体の学習会が予定されている。手伝いに間に合うように、早く寝なくては。当分、忙しい日が続く。
今日は、盆の入りです。僕の街も一応は東京都なので、お盆は新暦で行います。明日は、透析の帰りにお墓参りに行く予定です。今夕、オガラを焚いて先祖を我が家に迎えます。オガラって何か調べたら、麻の茎の皮を剥いたものだそうです。麻の紐や縄は、神社の祭礼で使われますよね。やっぱりと思いました。お盆は、お寺関係の仏教行事と思われていますが、本当は日本の行事なのでしょう。本当のお釈迦様の説いた仏教は、悟りを開かない限り、永遠に輪廻転生を繰り返す訳ですから、ご先祖も死後は別の存在になっているということです。ですから、先祖の霊という概念は日本的なものです。お墓参りに行っても、お墓には仏教の教えでは、ご先祖は存在しない。お寺も宗派によって、盂蘭盆の施餓鬼供養を行いますが、あれは餓鬼道に落ちてしまった餓鬼に対するもので、原則的には先祖の供養とは関係ないものてす。また、大乗仏教も、お釈迦様が説いた教えではないと、学問的には言えるようです。お釈迦様が、大乗仏教のお経を読んだら、違うとおっしゃるかもしれません。因みに、キリスト教でも、イエス委員会で、福音書の記述から、実際にイエスがおっしゃった言葉を選り分ける作業をしている。ヨハネの福音書は、原始キリストの伝承だと断定しているようです。
さて、本題に戻って、お盆のような色々な宗教が影響しあって出来たというよりは作った日本人の宗教的な寛容性、悪く言えば曖昧さは評価されて良いものだと思っています。宗教史上、明治に行われた廃仏毀釈運動は最悪のものでした。大乗仏教も、人間の知恵の産物として理解するばよいでしょう。お経も、お葬式の為だけのものではないのですから、お坊さんが神妙に唱えているお経の内容も知ってみると、色々な興味深いことが書かれている、あるものは文学作品、SEの様に感じられます。タイトルで紹介した般若心経は、子どもの為と書かれていますが、難解な文言を分かりやすく、また生きていることの大事な意味も伝えています。真言(マントラ)と呼ばれる「おまじない」も付いています。

子どもにおくる般若心経/新井 満


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世の中、活字離れが進行中である。「富士には月見草がよく似合う」という太宰治の有名なフレーズも、知らない人間の方が圧倒的に多くなるのだろう。この月見草、在来種のそれではなく、外来種のオオマツヨイグサを指しているとおもわれる。西洋種には、黄色い花ではなく、白などの花が昼間も咲いている園芸種もあるのだが、野生種のオオマツヨイグサは荒れた土地にも大いに繁殖したものだった。浅川の川原も、ホタルが飛び交っていた頃から、ごく普通に繁茂していた。その後、ホタルの姿がすつかり消え去った後も、オオマツヨイグサは、相変わらず早朝まで花の香りは放っていた。
その環境に強いと思われていた帰化植物の茂る姿が見られなくなったことに気が付いたのは、記憶の上では12年位前のことである。理由は分からないが、代わりにオオマツヨイグサが小ぶりになったような、しかし這い性の今まで見たことのない植物が黄色い花をつけていたのを何度か見かけている。
現在、川原は駆除されるべきとされるアレチウリやニセアカシアの木までジャングル状態に繁茂している。外来種にもかかわらず一定の風情さえ持っていたオオマツヨイグサの消失の原因を知りたい。川原で何が起こっていたのかを。
前述の太宰の1文をはじめ、文化に対する人々の関心が薄れ、共有する日本文化の範囲は狭まりつつある。人々の間で、今まで常識的とされた言葉や概念が、外国語の如くに通じなくなってきている。
日本文化の無知には、忘れな草がよく似合う。

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 人間は一人では生きられない生物である。関係性で、他者との距離を測る事が出来る。無人島でたった1人で暮らす時には、他者との利害関係も生まれないし、法律などの社会制度も必要ないし、犯罪も起こらない。
しかし、寂しい世界である。『キスをしても1人』などと、自由律の俳句のパロディを作った所で、1人で薄笑いをしてお終いである。アートも人間の表現であるから、当然、他者がいなければ意味ないものである。物理的には、命のない物体である絵画と向かい合った時に感じることは、やはりその絵画が表現するものを、自分の生きている環境の関係性に置き換えて、あるいは関連させて観ている事になる。音楽を聴く行為も、奏者の存在を感じているし、その感動を他者に伝えたい、共有したいとも思うものである。

 アートの世界も人を通して、自分と結び付き、その関係性が限りなく広がっていく可能性を感じ取っている時、幸福感を感じていたりする。人との縁が、アートとの縁につながる事があるのだ。偶然に見えて、また、ばらばらに見えていた世界がつながったりする。

 透析施設の中は、まさに社会の縮図であるというのは、たびたび話していることである。特に、利害関係のある者が意図的に集まった社会でもないし、共通の事業を起こすためにまとまった社会でないのは、当然の事で、透析療法を受けなければ死んでしまうという事で、たまたま同じ施設に通う事になっているだけなのである。この小さな社会の構成員には、老若男女、さまざまな才能の持ち主、多様な職業に就いている事、所有する財産の多い少ないの格差、等々社会を映し出した世界である。ロマンポルノの上垣保朗監督も透析患者であり、長年の透析生活を患者会の会長を務めながら、劇団を主宰している。今年は、かつての日活作品に出演していた女優さんたちがアンサンブルを舞台の上で披露してくれた。感激できたのも、透析患者という縁であった。

 今年の七夕は、雨の降る日であった。透析終了後、風姫さんの『公開リハーサル』の会場へ赴いた。P..A.I を主宰し、障がいのある人と舞台を作り上げている西東京アクターズスクールも、八王子を中心に長年続けられているアーティストである。西東京アクターズスクールの存在は、公民館に置かれていたチラシで知っていたが、実際に観る事が出来たのは、今年の5月13日の「第Ⅷ期終了公演『Q』」が初めてであった。それまでは、なかなか行く機会がなかった。思い切りがなかったというのが正確な表現なのだろうが。
 そのWASの活動も、風姫さんによる事が分かったのは、初めてチラシを見てから随分と後の事であった。

 風姫さんやWASの人に会ったのは、精神障害の共同作業所『パオ』の作品展を3年ほど前に観に行ったのが最初であった。こちらは、通行人のごとき単なる観客の一人であったが、回を重ねるごとに、少しずつ「縁」が深まっていった。ありがたいことである。

 そして、今回の『公開リハーサル』。案内では、「BOB (DRUMS) vs Kazehime (PERFORMANCE)」とあったが、最近のミュージックシーンに疎いので、BOBさんが「TEPPAN」というバンドのドラマーである事は、会場で初めて知った状態であった。ドラムスの歴史の解説もあったりして、勉強にもなったが、興味深かったのは、風姫さんとBOBさんの出会いであった。その「縁」が、今回の公演にもつながっている。人間の「縁」とは、真に不思議なものである。
 音楽?ドラムと、風姫さんのダンスをはじめとするパフォーマンス。豊かな表現力を持った打楽器としてのドラムスの存在は意外であった。両者の絡み合いは、人間の根源を流れている原始の心に共鳴した。普段は、表に出ないが、アフリカに初めて人類が登場して以来、私たちの一番深い基盤となっている根源性に直接訴えかけてきたような、思い出させるような力が働いたかの様であった。それは、原初の人間が持った宗教心にもつながっているようにも感じた。同時に、現代社会のごく普通の日常生活を送る我々の生き方にも、ドラムの音に乗って、風姫さんの非日常的な身体の動きが働きかけてくる。

 今後、アートとのどんな「縁」が生まれてくるのだろうか。未知なるものへの期待感と、関係性を持つ事への待望の気持ち。人間は、一人だけで存在するものではない。1人ずつの個性が尊重される他者との世界の関係性の中に存在する。当たり前のような事の再認識。