連日の暑さ、汗は出るのですが、歩くのも疲れます。
7月31日は、富士森公園にある浅間神社の「団子まつり」でした。公園は、市の高台に位置してますので、昔はその名の通り、富士山が見えたのでしょう。だから、浅間神社が鎮座するようになったものと思われます。本番は夜なのでしょうが、厄除け団子を求めに、透析終了後、駅から冷房の利いたバスに乗って行きました。本来は、参拝に来た人には、お釜で炊いた塩の入ったお湯を振舞われます。お清めの意味があるのでしょうか。今年の夏などは、熱中症対策によさそうです。
 この神社は、特別の日以外は無人のようです。お酉さまの市守神社も同様ですが、市の一宮の八幡八雲神社で管理しています。
 小さな境内には、露天が店を広げていました。

 団子も焼き始めていました。早めのお客さんの姿もありました。父親の病気の事もあるので、今年も団子を買おうと思った次第ですが、僕の注文した団子を、後から来た、かつてはオバタリアンと呼ばれた年齢の二人組のおばさんが間違えて持っていこうとするんです。一応、それは僕のですがと言ったのですが、押しの強い言い方で、絶対に自分のだと言い張るんです。結局、それを持って帰ってしまいました。図々しいのは構いませんが、人のものを横取りしたのですから、僕の厄も団子と一緒に持って帰ったことになりますよ。厄除けのつもりで食べても、人の厄入り団子なんですよ。団子は、順序よく串に刺さっているのに、二人のおばさんは順番も守れないんです。せめて、神様の前では、善い人出会って欲しいものです。代わりの厄除け団子を、団子屋さんからもらいました。団子は、1本百円で、地元の相場からは高めですが、まあ、縁起物ですから。
 来週から、本格的な市のお祭りが始まります。今年は、暑い或いは熱いお祭りになりそうです。
でも、日曜は患者団体のイベントがありますから、帰宅時は夜祭の賑やかさの中を通っていくことになりそうです。山車ではお囃子の中、狐が踊っているのでしょうか、おかめひょっとこかな。

トッペイのブログ

トッペイのブログ


 鳥類や動物でも、メスよりオスの方が美しいものが多数存在する。イブがアダムから生まれたというよりは、アダムがイブから生じたと考えたほうが自然であるように感じいている。ミトコンドリアという他の生命体を細胞の中に取り込んだ人間も、ミトコンドリアイブに遡って伝えてきたのは女性である。
 透析患者でも、穿刺という、回路に血液を送るための太い針の血管への針刺しを痛がるのは、男性の方が多いのである。痛みは、女性のほうが体制があり、出産という行為に耐えられるように体ができているのかもしれない。
 しかし、歴史を学ぶと、その表舞台に立つのは男性がほとんどであり、この世の中を政治的にも経済的にも動かしてきたのは、男性として描かれている。
 地元の自由民権運動など、身近な郷土史を学んでも女性の姿が見えてこない。そのことを強く意識して、女性の発掘を試みる歴史研究家も登場しているのであるが。

 アメリカは、西部開拓史から男性中心の国であった。その国の、男性の嗜好の変化に関するニュースである。ラテンアメリカのマチズモの精神も、ヒスパニックの若い男性では影響力が弱くなっているような感じがするニュースである。

 ただし、2000人の男性に対する調査には、エステと共に日本では普通の理髪店が含まれていることには注意。

 「18~34歳の男性では25%がマニキュアやペディキュアをしたことがあり、20%が美顔術を受けたことがあると答えた。」という部分がニュースの核なのだろう。

 記事の中に、『メトロセクシュアルな男性』という言葉が出てきている。都会的な性的関心の強い美的意識を持った男性とでも解釈するのであろうか。我が国では、一部の地域では、ジェンダーを超えた男性が出現しても、違和感が無いようであるという。

 最近、帽子をかぶる男性が増えている、甚平や浴衣男子も珍しくない、ステテコは、カラーステテコとなって、股引、パッチはレギンずに姿を変えて復活している。興味深い現象である。

 どうやら、『レトロセクシャルな男性』の復活といっていいのかもしれない日本の状況は面白いもののようである。これはおまけの話だが。

 アメリカにおいては、自由と民主主義の国と言われていても、全ての国民に権利が独立宣言以降、認められていたわけではない。女性に参政権が与えられたのも、黒人の公民権獲得などは、歴史から見ればごく最近のことになる。同性婚の認知などは、現在進行形の権利獲得の活動となっている。
 権利の主体も、アングロサクソンを中心とした白人男性であったことからの対象の拡大と見ることができるが、差別意識は南部に根強く残っている。プアホワイトの存在、キリスト教原理主義の影響力等がそうした差別観を支えているようだ。
 アメリカ全土を見てもWASPは、マイノリティグループへと変化している。いずれは、ヒスパニック、黒人が影響力を持った国へと変わるかもしれない。その過程での、人種的軋轢の現象が、今回の南部での差別意識の表出といった形で起こりうる国となったのである。
 「招かれざる客」を映画の古典として見ることは、まだ早いようだ。


 未だ、復興が遅れているとしか思えない東日本大震災。首相のパフォーマンスばかりが目立ち、政治の不毛時代の影響を被っているようだ。人災といっていいのだろう。被災地では、児童の貧困問題をはじめ、障害者などの社会的弱者にしわ寄せがいく。いっそ、小選挙区制をはじめ、政党助成金も含めた、有権者による政治制度に対する事業仕分けを行われる必要性が国民の共通認識になればよい。アメリカの独立宣言にも、国民には抵抗権という、国民の意志と遊離した政府を取り替える権利が認められていることを知るべき有権者の立ち位置である。

 さて、消費増税だけが先行しかねない、税と社会保障制度の一体的見直しにも関係しそうな平均寿命のニュースがあった。長い間、女性の平均寿命は世界一の立場を不動のものにしていた。しかし「厚生労働省が26日発表した2011年の「簡易生命表」で、日本人女性の平均寿命が1985年以来初めて世界2位へと後退したことが分かった。」と報じられた。

 「2011年の日本女性の平均寿命は85.9歳で、前年の86.3歳を下回った。厚労省によれば、東日本大震災により多くの死者が出たことが大きな原因という。日本男性の平均寿命も前年比減の79.4歳で、世界8位となった。」と報じている。福祉関係の教科書などは、早急に書き換えられなくてはならないだろう。まさかと思われたニュースであったが、大震災の影響の各方面への影響が、平均寿命にまで拡大したということであった。震災の復興が順調に行われ、介護保険や高齢者医療制度のまやかしでない有効な見直しが図られるのならば、返り咲きも早く行われるに違いない。

 なお、「最新の統計結果では香港女性(86.7歳)にトップを譲った。3位はスペイン(84.9歳)、4位はフランス(84.8歳)だった。」長生きしてよかったという声が上がる国であってほしい。
自分に対してイラッとすることある? ブログネタ:自分に対してイラッとすることある? 参加中

トッペイのブログ


余裕が無い時に、自分のエゴイズムが理性などものともせずに、感情面に居座り続ける。と書いている自分にも苛立っている。この書き方だと、自分とエゴイズムの二元論てなってしまい、自分の責任の存在をぼかしているだけだ。「私のエゴイズム」なのだ。
今日も、患者団体の手伝いに行く電車の中からの投稿である。自宅から遠い事務所には、なるべく早く入って作業したい。しかし、電車の時間はもう既に決まっている。予定していた電車に乗り遅れると、次の電車まで間が空いてしまう。それに加えて、遅れた電車に乗り込んだとしても、最近の人身事故の増加による電車停止に、またかという気持ちと同時に、人身事故の当事者に対する同情より、なんて迷惑なと非難する気持ちが勝る。苛立ちだけでない。
そのイライラ電車に乗る事の大きな原因の一つが、停留所の時刻表通りには来る方が珍しいバスである。バス停から恨めしそうにバスがやって来る方を見ているうちに、時には、その時点で苛立ってくる。最悪なのは、乗りたいバスが、どうした具合か、遅れる代わりに時刻前に到着して、そのバスを見送ることになった時であろ。タイミングの悪い時は、発進したばかりのバスを、バス停で見送ることだ。
 でも、今日のケースはエゴイズムが絡んでいて、自分自身に苛立ちの感情が向かった。
と、投稿文を書いているうちに、この辺で目的駅に近づいたので、ひとまず筆を?置く。しかし、只今、山手線が大幅に遅れている。人身事故ではないのは良かったのだが、イライラすることだ。

 帰宅してから、文章の続きを以下に書き記す。なお、目下、中央線で人身事故があり、ダイヤが乱れていることをケータイが知らせてきた。いい加減にして欲しい気持ちが強まった。

 本日のバスは、2台立て続けにバス停を去るのを近くから見ながら、バス停でしばらく待った後に乗り込んだものであった。順調に走るバスに、9時12分発の電車に乗れるチャンスが生まれた。ところが、途中のバス停で、僕と若い女性が、座席からの移動を支持された。車椅子の青年が、介助者無しでrバスに乗り込むためである。運転手が、2つの座席を取り除き、ステップに傾斜板を置いて、車椅子を車内の新たに出現したスペースに連れ込むと、車椅子の固定を試みた。最終確認の上でようやくバスが動き出した。実は、席の移動を支持された女性は、片足が悪く、歩くのに難儀している状況で、別の席に移動した。片足を引きずりながら。その様子を見ていた運転手は、申し訳ないと言っていた。発車直前のバス停には、初老の女性が杖をついて立っていた。以前にも、時間に追われてバスに乗車中に、同じバス停ではあるが、子供連れの若い母親らしき女性が、車椅子で乗り込んだ。当然、どちらも発射までしばらくの間、乗客たちは車中に待たされる。急いでいた客は運が悪かったと諦めるしか他はない。苛立ったって仕方がない。
 以上が、自分の感じたエゴイズムの部分である。障害者も、不自由なく一般社会に普通に暮らすノーマラーぜーションの社会の実現のために、障害者の移動の自由や権利は守らねばならないものである。かつての社会は、障害者ばかりが一方的に我慢を強いられてきた。だから、現在、身障者が移動する時に、周囲の人間が多少の我慢を強いられるのは、当然のこととなった。冬の時代、障害者が家の外に出ることも困難であった。家族が、世間体を気にして、障害があること自体を隠そうという傾向が強かった時代もあった。

 「共に生きる」という観念も、自分の生活に余裕がないと、受け入れるのが困難なものとなる。しかし、心のバリアフリーには、共生の考え方が必要とされる。
 余裕のなくなった時の自分のエゴイズムにひどく苛立ちを覚えたことを記しておく。自分も赤手帳を所持して、社会から助けられている透析患者なのにである。