ブログネタ:自分に対してイラッとすることある?
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余裕が無い時に、自分のエゴイズムが理性などものともせずに、感情面に居座り続ける。と書いている自分にも苛立っている。この書き方だと、自分とエゴイズムの二元論てなってしまい、自分の責任の存在をぼかしているだけだ。「私のエゴイズム」なのだ。
今日も、患者団体の手伝いに行く電車の中からの投稿である。自宅から遠い事務所には、なるべく早く入って作業したい。しかし、電車の時間はもう既に決まっている。予定していた電車に乗り遅れると、次の電車まで間が空いてしまう。それに加えて、遅れた電車に乗り込んだとしても、最近の人身事故の増加による電車停止に、またかという気持ちと同時に、人身事故の当事者に対する同情より、なんて迷惑なと非難する気持ちが勝る。苛立ちだけでない。
そのイライラ電車に乗る事の大きな原因の一つが、停留所の時刻表通りには来る方が珍しいバスである。バス停から恨めしそうにバスがやって来る方を見ているうちに、時には、その時点で苛立ってくる。最悪なのは、乗りたいバスが、どうした具合か、遅れる代わりに時刻前に到着して、そのバスを見送ることになった時であろ。タイミングの悪い時は、発進したばかりのバスを、バス停で見送ることだ。
でも、今日のケースはエゴイズムが絡んでいて、自分自身に苛立ちの感情が向かった。
と、投稿文を書いているうちに、この辺で目的駅に近づいたので、ひとまず筆を?置く。しかし、只今、山手線が大幅に遅れている。人身事故ではないのは良かったのだが、イライラすることだ。
帰宅してから、文章の続きを以下に書き記す。なお、目下、中央線で人身事故があり、ダイヤが乱れていることをケータイが知らせてきた。いい加減にして欲しい気持ちが強まった。
本日のバスは、2台立て続けにバス停を去るのを近くから見ながら、バス停でしばらく待った後に乗り込んだものであった。順調に走るバスに、9時12分発の電車に乗れるチャンスが生まれた。ところが、途中のバス停で、僕と若い女性が、座席からの移動を支持された。車椅子の青年が、介助者無しでrバスに乗り込むためである。運転手が、2つの座席を取り除き、ステップに傾斜板を置いて、車椅子を車内の新たに出現したスペースに連れ込むと、車椅子の固定を試みた。最終確認の上でようやくバスが動き出した。実は、席の移動を支持された女性は、片足が悪く、歩くのに難儀している状況で、別の席に移動した。片足を引きずりながら。その様子を見ていた運転手は、申し訳ないと言っていた。発車直前のバス停には、初老の女性が杖をついて立っていた。以前にも、時間に追われてバスに乗車中に、同じバス停ではあるが、子供連れの若い母親らしき女性が、車椅子で乗り込んだ。当然、どちらも発射までしばらくの間、乗客たちは車中に待たされる。急いでいた客は運が悪かったと諦めるしか他はない。苛立ったって仕方がない。
以上が、自分の感じたエゴイズムの部分である。障害者も、不自由なく一般社会に普通に暮らすノーマラーぜーションの社会の実現のために、障害者の移動の自由や権利は守らねばならないものである。かつての社会は、障害者ばかりが一方的に我慢を強いられてきた。だから、現在、身障者が移動する時に、周囲の人間が多少の我慢を強いられるのは、当然のこととなった。冬の時代、障害者が家の外に出ることも困難であった。家族が、世間体を気にして、障害があること自体を隠そうという傾向が強かった時代もあった。
「共に生きる」という観念も、自分の生活に余裕がないと、受け入れるのが困難なものとなる。しかし、心のバリアフリーには、共生の考え方が必要とされる。
余裕のなくなった時の自分のエゴイズムにひどく苛立ちを覚えたことを記しておく。自分も赤手帳を所持して、社会から助けられている透析患者なのにである。