ブログネタ:予測変換、「せ」で出る言葉があなたを表す言葉なんだって。なんて出る?
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このブログネタで、文章を書こうと思ったのは先週のことである。ケータイの予備変換の最初の言葉は、どんどん変化していくから、その時のケータイの中の言葉で書く事にした。言葉は「迫って」であった。自分にとっては、かなり意味深な言葉であった。最近は、時間に追われる生活が続いており、ブログにもなかなか投稿できない。今日も明け方に畳の上で目を覚ました。布団を敷かずにパソコンの前で寝込んでしまっていたのだ。最近、このパターンが続く。何かに「迫られて」いる感じである。
或る関係団体のアンケートの回答の打ち込み作業をずっと続けているが、予想より大幅に遅れている。そのせいでもある。また、父親の大腸から転移した肝癌の化学療法も始まったばかりである。
そんな中、先週、透析クリニックの院長から透析時間の1時間の延長をしたらどうかという申し入れがあった。ほぼ西暦2000年から始めた透析である。10年という節目の年は過ぎている。導入当初から、1回4時間の透析であった。厳密に言えば、長時間透析というのは6時間以上であるのだろう。しかし、患者にとっては、5時間透析も長時間透析と受け止められているようである。
長時間透析を標準的に行なっている施設もあるが、あくまでも少数派である。普通は、週3回の4時間透析が「標準的」になっているようである。どの施設でも長時間透析を行うというのは、現実的にはかなり難しいことである。スタッフの対応も大変である。
また、皮肉なことに透析患者の少なくない人々が、現状の透析時間を「長く」感じており、苦痛に思っていることである。長時間透析が身体にとって良いことであると認識する前に、「拘束時間」という視点から、なかなか透析を受容できないのである。透析自体に拒否反応を持っており、透析中に「痛み」を訴えて、抜針を毎回要求する患者もいる。「痛い」と言っても、具体的に痛いのかどうかは判明できないのである。1回の透析に、毎回何度も透析の中止を訴える。勿論、止めれば尿毒症で死に至ることは分かっているはずであるのだが、己の置かれた状況への恨み言の変形のように感じられる。また、或る患者は、医師から3時間半の透析の30分の延長を告げられた時、その延長を避けようと他の施設に転院していった。そういうことも、透析の一つの現状なのである。
さて、院長のいつから始めても構わないという好意で、明日から5時間透析を始めることにした。
今回のことがきっかけで、自分に残された余命を考えさせられた。昨年は、2歳年下の患者仲間が亡くなっている。最近も、クリニックの送迎バスも利用しないで一人で通院していたいつも笑顔の穏やかなNさんが突然亡くなって、急遽お通夜に行ってきた。また、曜日は違うのだが、50から60代位のOさんも突然亡くなった。通院当初から、水分の摂り過ぎで体重を増やしてきた人で、いつも医師やスタッフから注意されていた。自分からは、決して水分をとったとは認めることもなかった。当然、心不全が疑われた。
僕の場合は、年齢的に若くないことが最初に考えたことだ。このままでは、あと10年生きられるのだろうか。いつもは年齢のことは考えないようにしていた。しかし、透析患者の平均余命は健常者より短いのも事実である。勿論、透析歴40年で今も患者運動を活発に行なっている先輩も存在するのであるが、患者会の役員として何人もの会員の最後のお別れの場に行ったことであろうか。普通のサークルと比べると、亡くなる会員の数が少なくない。
「迫って」という言葉は、自分の余命の事を指していたのかもしれない。しかし、5時間透析という機会の提供が「迫って」いたと考えたほうが心が落ち着く。免疫力が健常者より落ちていることによる感染症に注意すれば、1時間の透析時間の延長は、余命を伸ばしてくれる可能せうが高まる。大きな福音であった。
さて、この文章を投稿したらすぐにアンケートの打ち込みを急がなくてはなるまい。こちらの期限も「迫って」いるのだから。今晩はちゃんと布団の中で寝よう。






