夕暮れ 寒空 七条の等伯
朝から、空には重い雲が立ち込め、曇天からの冷たい風がベランダに咲き始めた春の花を右へ左へ揺らし煽る。そんな昨日。金曜日・・・
こんな日の夕方には、連日長蛇の列!っていう「長谷川等伯展」も人影まばらに違いない!
以前「日曜美術館」で取り上げられていた「等伯」の絵が、急に見たくなった。
姜尚中さんが、あの深く静かな声で薦めてくれると、私はなんでも見たくなってしまう。
姜尚中さんのお誘いなら、なんでも乗ってしまいそう・・・って誰が誘ってるねん!
思い立ち、早々に夕飯の準備を済ませる。
溜まってしまったアイロン掛けは、また明日。
洗面台の水垢落としは、また来週。
3時過ぎには、家を出る。
京都七条国立博物館「長谷川等伯展」にいざ出発!
で、いったん家を出るのだが、着ていた春のコートが北風に舞い上げられ、寒すぎる。
なので、家に引き返し、冬のコートに腕を通して・・・
再度出発。
大丈夫。こんな夕方には「長谷川等伯展」のために京都七条に出向く人は少ないに決まっている!だから、きっとゆっくり観ることができる。厚手のコートで身を守り、私の期待は膨らみ続ける。
と、ここまで書くと、もうすでに結論を書くまでのない気もするけど・・・・
そうなのです。
4時の博物館前は、予想に反して長蛇の列!「待ち時間 80分」の札が・・・
行列の最後尾に並んで、ようやく入ってもきっと、「他人の頭を見に行く感じ」になりそう~
金曜日は午後8時まで開館しているらしいので、閉館間際に滑り込むことに決めて、京都を歩くことにする。夕暮れに向かう祇園を通り、出勤時タクシーに乗りこむ「舞妓は~ん」の美しい立ち姿に出くわしたり、京の裏通り下町の風情に「パッチギ」を思い描いたり・・・いろんな事しながら四条まで歩く。
~京都の春の夕暮れはコート着てても寒いくらいで~
四条で、パスタ食べて、一杯だけワイン飲んで・・・
円山公園から、清水寺界隈を通って、七条へ
夕暮れの京都をオバハンの独り散歩。
7時に博物館へ「待ち時間 30分」
で、やっと等伯。
等伯の政治力ばかりが私の知識になっていた。
北陸の絵師の家に生まれ、日蓮の絵を描き、京洛し、狩野派とうまく行かず、才を売るため千利休の取り入ったとか・・・どでかい涅槃図を御所に奉納したとか・・・奇を衒う流行絵師・・・
なんて、どこで、どう得たのかも不明な前知識が頭を掠めていた。
ところが、金曜日七条の博物館で観た等伯の絵は、私のそんな前知識を吹き飛ばしてしまうものでした。というより、その政治力が等伯の描くものの中で、ひとつのアクセントになるっていうか、折り重なる様々な「等伯」というモチーフのひとつとなって興味深いというか・・・
例えば・・・屏風いっぱいに「枯芒」だけが描かれている絵があって・・・ススキが屏風にあまり空間を残さず沢山の「線」を広げているのに・・・そんなに「いっぱい」なのに、威圧感がなく、風の向きに呼応して頼りなげに身を任せる感じがあったりとか・・・(萩芒図屏風)
例えば・・・金を背景に描かれた楓の絵・・・太い木の幹に紅葉する楓の葉や秋の花が無数に巻き付いて着物の絵柄のような「絢爛」を作り上げているのだが、その「絢爛」は、はかなげな小さなもの・・・小花や散り行く寸前の楓や・・・そんなもののその場に生きる命みたいなものが集積して、可憐に作り上げられている様が浮かび上がっていたり・・・(楓図壁貼付け)
例えば・・・6幅もの屏風いっぱいに荒ぶ波を描いた絵・・・岩はまるで現代のアニメに描かれる近未来の要塞のような、固く鋭角で影をもつ存在として、微妙な配置で画面に転がっていて、波は「波動」を表す記号のように、放物線でデザインされていて・・・まるで400年前の絵とは思えない感覚なのに・・・けど、やはり「自然」への畏敬というか、波の躍動というか・・・それは今の人には描きようがないような・・・(波濤図)
等伯ブランドと呼ばれ愛されたらしい「柳橋水車図屏風」は、柳の楕円、橋の太い直線、水車の幾何学的な円のデザインがバランスよく配置されていて、「おしゃれ~」って雰囲気。おしゃれな町民が等伯ブランドをインテリアに取り入れるのをステイタスとした感じがよく分かったりする。
木も、人も・・絵全体を直線で描こうとしたかと思うと、生き物の「やわらかさ」を細かな筆遣いで丸く丸く描いたり・・・まるで、あらゆる試行錯誤の後が見られ・・・こんな風に苦しみながら、挑戦しながら、しかも政治力を発揮したりもしながら・・・等伯という人が筆を握っていたことに、ちょっと震える感覚で・・・
それで、最後があの有名な「松林図屏風」
絵の殆どが空白で、霧の中にかすかに浮かぶ木々を、その視覚のというか現象として心が捉えたままを、欠落を欠落として画面に置いた作品。
林の静寂の向こう、佇む者に木々の声がもし聞こえたとして、その声のさらなる向こう側にある「静か」を心が捉えることが出来たら、こんな絵になるんだろうなぁ~。
閉館時間に追われるようにして外へ出る。
8時30分。
夜の風が冷たく、歩く人が春服の衿を立てて足早に行きかう道を、そのまま西へ。
冬のコートに守られた私は、悠々と「等伯」の余韻にしたりながら、京都駅まで歩いて帰る
こんな日の夕方には、連日長蛇の列!っていう「長谷川等伯展」も人影まばらに違いない!
以前「日曜美術館」で取り上げられていた「等伯」の絵が、急に見たくなった。
姜尚中さんが、あの深く静かな声で薦めてくれると、私はなんでも見たくなってしまう。
姜尚中さんのお誘いなら、なんでも乗ってしまいそう・・・って誰が誘ってるねん!
思い立ち、早々に夕飯の準備を済ませる。
溜まってしまったアイロン掛けは、また明日。
洗面台の水垢落としは、また来週。
3時過ぎには、家を出る。
京都七条国立博物館「長谷川等伯展」にいざ出発!
で、いったん家を出るのだが、着ていた春のコートが北風に舞い上げられ、寒すぎる。
なので、家に引き返し、冬のコートに腕を通して・・・
再度出発。
大丈夫。こんな夕方には「長谷川等伯展」のために京都七条に出向く人は少ないに決まっている!だから、きっとゆっくり観ることができる。厚手のコートで身を守り、私の期待は膨らみ続ける。
と、ここまで書くと、もうすでに結論を書くまでのない気もするけど・・・・
そうなのです。
4時の博物館前は、予想に反して長蛇の列!「待ち時間 80分」の札が・・・
行列の最後尾に並んで、ようやく入ってもきっと、「他人の頭を見に行く感じ」になりそう~
金曜日は午後8時まで開館しているらしいので、閉館間際に滑り込むことに決めて、京都を歩くことにする。夕暮れに向かう祇園を通り、出勤時タクシーに乗りこむ「舞妓は~ん」の美しい立ち姿に出くわしたり、京の裏通り下町の風情に「パッチギ」を思い描いたり・・・いろんな事しながら四条まで歩く。
~京都の春の夕暮れはコート着てても寒いくらいで~
四条で、パスタ食べて、一杯だけワイン飲んで・・・
円山公園から、清水寺界隈を通って、七条へ
夕暮れの京都をオバハンの独り散歩。
7時に博物館へ「待ち時間 30分」
で、やっと等伯。
等伯の政治力ばかりが私の知識になっていた。
北陸の絵師の家に生まれ、日蓮の絵を描き、京洛し、狩野派とうまく行かず、才を売るため千利休の取り入ったとか・・・どでかい涅槃図を御所に奉納したとか・・・奇を衒う流行絵師・・・
なんて、どこで、どう得たのかも不明な前知識が頭を掠めていた。
ところが、金曜日七条の博物館で観た等伯の絵は、私のそんな前知識を吹き飛ばしてしまうものでした。というより、その政治力が等伯の描くものの中で、ひとつのアクセントになるっていうか、折り重なる様々な「等伯」というモチーフのひとつとなって興味深いというか・・・
例えば・・・屏風いっぱいに「枯芒」だけが描かれている絵があって・・・ススキが屏風にあまり空間を残さず沢山の「線」を広げているのに・・・そんなに「いっぱい」なのに、威圧感がなく、風の向きに呼応して頼りなげに身を任せる感じがあったりとか・・・(萩芒図屏風)
例えば・・・金を背景に描かれた楓の絵・・・太い木の幹に紅葉する楓の葉や秋の花が無数に巻き付いて着物の絵柄のような「絢爛」を作り上げているのだが、その「絢爛」は、はかなげな小さなもの・・・小花や散り行く寸前の楓や・・・そんなもののその場に生きる命みたいなものが集積して、可憐に作り上げられている様が浮かび上がっていたり・・・(楓図壁貼付け)
例えば・・・6幅もの屏風いっぱいに荒ぶ波を描いた絵・・・岩はまるで現代のアニメに描かれる近未来の要塞のような、固く鋭角で影をもつ存在として、微妙な配置で画面に転がっていて、波は「波動」を表す記号のように、放物線でデザインされていて・・・まるで400年前の絵とは思えない感覚なのに・・・けど、やはり「自然」への畏敬というか、波の躍動というか・・・それは今の人には描きようがないような・・・(波濤図)
等伯ブランドと呼ばれ愛されたらしい「柳橋水車図屏風」は、柳の楕円、橋の太い直線、水車の幾何学的な円のデザインがバランスよく配置されていて、「おしゃれ~」って雰囲気。おしゃれな町民が等伯ブランドをインテリアに取り入れるのをステイタスとした感じがよく分かったりする。
木も、人も・・絵全体を直線で描こうとしたかと思うと、生き物の「やわらかさ」を細かな筆遣いで丸く丸く描いたり・・・まるで、あらゆる試行錯誤の後が見られ・・・こんな風に苦しみながら、挑戦しながら、しかも政治力を発揮したりもしながら・・・等伯という人が筆を握っていたことに、ちょっと震える感覚で・・・
それで、最後があの有名な「松林図屏風」
絵の殆どが空白で、霧の中にかすかに浮かぶ木々を、その視覚のというか現象として心が捉えたままを、欠落を欠落として画面に置いた作品。
林の静寂の向こう、佇む者に木々の声がもし聞こえたとして、その声のさらなる向こう側にある「静か」を心が捉えることが出来たら、こんな絵になるんだろうなぁ~。
閉館時間に追われるようにして外へ出る。
8時30分。
夜の風が冷たく、歩く人が春服の衿を立てて足早に行きかう道を、そのまま西へ。
冬のコートに守られた私は、悠々と「等伯」の余韻にしたりながら、京都駅まで歩いて帰る
夜の影
先週末の冷たい昼下がり。
急に思い立って大阪九条のシネヌーヴォに出かける。
田中冬星っていうアングラの俳優が撮った映画が気になっていた。
アングラ劇団で活躍してきた俳優が、映画制作会社を創設し、海外との製作協力も決まった矢先、末期癌を宣告される。
「夜の影」「ルナの子ども」ていう2本の映画は、末期がんの治療と闘いながら撮った映画・・・
『死を前提にした人間が描き出す、一見醜く、孤独と絶望、悲鳴に満ちた世界。だが、その中から本当の美しい世界が見えてくる。
絶望と闘いながら、命をかけて生み出した映画たちを観て、あなたは何を感じるだろうか。』
っていう言葉をネットで見つけて、気になっていた。
寒さの所為にして、新年の部屋に閉じこもり、梅原猛の「仏教の思想」をベースに龍樹、鳩摩羅什・・・なんて追っかけていた私は、外に出る口実を探していたので、この映画を!と決めて出かける準備をした。
映画館に着くと、同時に「カネフスキー特集」も実施中で、「動くな、死ね、甦れ!」の上映時間が迫っていた。ロビーにケッコウ人がいて、こっちの映画も気になったのだが・・・初心貫徹。
「ルナの子どもと、夜の影・・・」とチケットを求める。
で、30名の座席しかない2階の会場へ・・・
まず「ルナの子ども」なのだが、この時会場にいたのは、なんと2人だけ。
映画以前に、狭い部屋で見知らぬ人と二人きりで観るその空気がすでに雰囲気を持つ。
「生殖」を目的としない「性」みたいな感じの物語りがオムニバスで描かれる。
田中冬星が、コルセットをつけた病身をそのまま被写体にして演じている「絡み」のシーンは、悲しく儚げで・・・「生」のあやふやさが痛いほど伝わってきた。
で、1本終わって休憩・・・入れ替えとかで・・・一旦外に出されて・・・「夜の影」が始まる・・・
で、周りを見渡すと・・・なんと!今度は私より他に人もなし・・・
映画館で、一人でスクリーンに向かう・・・ちょっと、寂しすぎるやん!!
「夜の影」は。石原裕次郎が現役だった頃のやくざ映画みたいな設定。殺人。麻薬。セックス。って書くと本当にありきたりになるのだが、観ているとちょっと違う。
行間・・が違う。
スレスレの線で・・血のニオイがするっていうか・・・体温があるっていうか・・・こぼれてしまうような「命」の感覚が、ストーリーではなく言葉ではなく、映像の行間から伝わるような・・・
でも、映画館の暗闇で、たった一人スクリーンに映し出される血まみれのセックスシーンを観ている自分の立ち位置が、時々脳裏をかすめ・・・そっちの方が「人生の儚さ」を物語ってるような気もして・・・
外にでると冬の夜は寒く。霧もなく澄んだ空気に、一人の私が吐く息ばかりが白く流れていた
急に思い立って大阪九条のシネヌーヴォに出かける。
田中冬星っていうアングラの俳優が撮った映画が気になっていた。
アングラ劇団で活躍してきた俳優が、映画制作会社を創設し、海外との製作協力も決まった矢先、末期癌を宣告される。
「夜の影」「ルナの子ども」ていう2本の映画は、末期がんの治療と闘いながら撮った映画・・・
『死を前提にした人間が描き出す、一見醜く、孤独と絶望、悲鳴に満ちた世界。だが、その中から本当の美しい世界が見えてくる。
絶望と闘いながら、命をかけて生み出した映画たちを観て、あなたは何を感じるだろうか。』
っていう言葉をネットで見つけて、気になっていた。
寒さの所為にして、新年の部屋に閉じこもり、梅原猛の「仏教の思想」をベースに龍樹、鳩摩羅什・・・なんて追っかけていた私は、外に出る口実を探していたので、この映画を!と決めて出かける準備をした。
映画館に着くと、同時に「カネフスキー特集」も実施中で、「動くな、死ね、甦れ!」の上映時間が迫っていた。ロビーにケッコウ人がいて、こっちの映画も気になったのだが・・・初心貫徹。
「ルナの子どもと、夜の影・・・」とチケットを求める。
で、30名の座席しかない2階の会場へ・・・
まず「ルナの子ども」なのだが、この時会場にいたのは、なんと2人だけ。
映画以前に、狭い部屋で見知らぬ人と二人きりで観るその空気がすでに雰囲気を持つ。
「生殖」を目的としない「性」みたいな感じの物語りがオムニバスで描かれる。
田中冬星が、コルセットをつけた病身をそのまま被写体にして演じている「絡み」のシーンは、悲しく儚げで・・・「生」のあやふやさが痛いほど伝わってきた。
で、1本終わって休憩・・・入れ替えとかで・・・一旦外に出されて・・・「夜の影」が始まる・・・
で、周りを見渡すと・・・なんと!今度は私より他に人もなし・・・
映画館で、一人でスクリーンに向かう・・・ちょっと、寂しすぎるやん!!
「夜の影」は。石原裕次郎が現役だった頃のやくざ映画みたいな設定。殺人。麻薬。セックス。って書くと本当にありきたりになるのだが、観ているとちょっと違う。
行間・・が違う。
スレスレの線で・・血のニオイがするっていうか・・・体温があるっていうか・・・こぼれてしまうような「命」の感覚が、ストーリーではなく言葉ではなく、映像の行間から伝わるような・・・
でも、映画館の暗闇で、たった一人スクリーンに映し出される血まみれのセックスシーンを観ている自分の立ち位置が、時々脳裏をかすめ・・・そっちの方が「人生の儚さ」を物語ってるような気もして・・・
外にでると冬の夜は寒く。霧もなく澄んだ空気に、一人の私が吐く息ばかりが白く流れていた
紫の月
外は雨。
珍しく午前中に買い物を済ませた帰り、エレベーターで宅急便のお兄さんに遭遇。普段なら目礼で終わるところ、「雨ですねぇ」などと声をかける。「ええ、大変ですわ。昨日はいい天気だったんですけどね」という応え。
昨日はいい天気だったんですけどね
昨日はいい天気だった。
そう、昨日はいい天気だった。
午後4時。
放課後の子どもたちが投げたドッヂボールが、長い影を芝生に走らせながら飛んでいくのを見ながら、私は傾きかけた陽の光を背中に浴びて坂道を下っていた。
腕に抱えた紙袋には、朝信州の林檎農園から届いたばかりの赤い林檎が5個入っていて、蜜の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
遠のいていく子どもたちの歓声。
葉を散らすサクラやケヤキやイチョウ。
夕暮れというには少し早い時間。
青空は翳る気配を見せず天空に広がっているのだが、空気は既に冷気を含んで湿っている。
友だちの家まで。
林檎を届けに。
まるで林の中のような遊歩道を
落ち葉を踏みながら
歩く。
友だちは、10日ほど前にお母さんを亡くしている。
友だちは、これまでに弾きたかった曲をこれからの人生で弾いてしまうのよ。と豪語しているピアノ教師である。
友だちは、社会に起こる様々な事柄に的確な、でも、どこかで聞いたことのあるようなコメントを発することができる賢い女性である。
友だちは、時々寂しそうで、
友だちは、時々お酒を呑んで絡んできて、
友だちは、私のことを冷たいとか、策士だとか非難したりして、
友だちは、私のことを「私たちともだちだから」と言ってくれて・・・
蜜の入った瑞々しい林檎を、彼女に食べて欲しいから、夕暮れには少し早い時間に遊歩道を下っていく。
肩まで伸びた髪を後ろで束ねた彼女は、
母さんを失った悲しみより、葬儀をめぐる姉妹のすれ違いの方に心を痛めていて、私の手渡した林檎の袋を手に持ったまま、私に向かってマシンガンのように姉さんの言動を再現してみせる。
少し笑って、少し同調して、少し落ち着くよう促して・・・
相槌を打つ。
夕暮れが迫り、西の空が染まり始め・・・
私はようやく帰り道につくことができた。
夕焼けが綺麗だ。
なので、そのまま東に下って駅まで行くことにする。電車に乗ってデパ地下でお魚を買うことにする。
歩き始めると目の前に大きな月が姿を現した。
木津川に沿ってなだらかに広がる鹿背山の上の空に、大きな満月が紫色に張り付いている。
背中の空はまだ黄昏色に染まっていて、オレンジの光線は顔を出したばかりの月に反射し、月を紫色に固定してしまったのだ。
今、こんな月が空にあることを、誰かに教えたい。
最近何故だか、心が少し弱い私は、情緒的な誘惑に駆られ、同じ月を見ることができるはずの近くの友人にメールを入れた。
「月がきれいよ」
その友人が私のメールに気付いて月を見上げたのは、深夜に近い時刻になってからだったから、面白い。
現実は時々、どんな物語より情緒的なものらしい。
たとえ、それが特別数奇な現実でなくても。
土曜日、奈良の小さなライブハウスのようなところで、
「プリミ恥部な世界」という映画ライブを観た。
スクリーンの前に、小さなテーブル。狭い部屋にはナマメカシイ原色のふわふわの敷物が敷かれていて、同じ高さでギターとマイク。後ろにドラム。
デフォルメされた現在が映像で流されると、ダンスをしながら女装した男の子が現れ、ギターを手に歌い始める。
例えば、
スクリーンに川が映し出されたかと思うと、水の流れがスクリーンの奥から波動をつくり、前方へと押し寄せ、それは前に置かれたテーブルに反射して画面の前に座り込む観客の上に流れ込む。
同時に音も画面の奥から波動をつくり前方へと押し寄せ、ギターの音へ、最後に部屋の後ろのドラムの響きへと繋がっていく。
っていう仕組みで、映像と現実が確かにボーダーを消滅させる瞬間を味わうことができる。
実験としてはおもしろいライブで、3Dなんかでスクリーンから飛び出してくるディズニー映画とは違ったのだ。
ちなみに3Dで観た「クリスマスキャロル」は、ちょっと面白くて、ディケンズがもし1950年にこれを観ていたら、それでも朗読劇をしたのかなぁ?とか考えたりしていたのです。
珍しく午前中に買い物を済ませた帰り、エレベーターで宅急便のお兄さんに遭遇。普段なら目礼で終わるところ、「雨ですねぇ」などと声をかける。「ええ、大変ですわ。昨日はいい天気だったんですけどね」という応え。
昨日はいい天気だったんですけどね
昨日はいい天気だった。
そう、昨日はいい天気だった。
午後4時。
放課後の子どもたちが投げたドッヂボールが、長い影を芝生に走らせながら飛んでいくのを見ながら、私は傾きかけた陽の光を背中に浴びて坂道を下っていた。
腕に抱えた紙袋には、朝信州の林檎農園から届いたばかりの赤い林檎が5個入っていて、蜜の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
遠のいていく子どもたちの歓声。
葉を散らすサクラやケヤキやイチョウ。
夕暮れというには少し早い時間。
青空は翳る気配を見せず天空に広がっているのだが、空気は既に冷気を含んで湿っている。
友だちの家まで。
林檎を届けに。
まるで林の中のような遊歩道を
落ち葉を踏みながら
歩く。
友だちは、10日ほど前にお母さんを亡くしている。
友だちは、これまでに弾きたかった曲をこれからの人生で弾いてしまうのよ。と豪語しているピアノ教師である。
友だちは、社会に起こる様々な事柄に的確な、でも、どこかで聞いたことのあるようなコメントを発することができる賢い女性である。
友だちは、時々寂しそうで、
友だちは、時々お酒を呑んで絡んできて、
友だちは、私のことを冷たいとか、策士だとか非難したりして、
友だちは、私のことを「私たちともだちだから」と言ってくれて・・・
蜜の入った瑞々しい林檎を、彼女に食べて欲しいから、夕暮れには少し早い時間に遊歩道を下っていく。
肩まで伸びた髪を後ろで束ねた彼女は、
母さんを失った悲しみより、葬儀をめぐる姉妹のすれ違いの方に心を痛めていて、私の手渡した林檎の袋を手に持ったまま、私に向かってマシンガンのように姉さんの言動を再現してみせる。
少し笑って、少し同調して、少し落ち着くよう促して・・・
相槌を打つ。
夕暮れが迫り、西の空が染まり始め・・・
私はようやく帰り道につくことができた。
夕焼けが綺麗だ。
なので、そのまま東に下って駅まで行くことにする。電車に乗ってデパ地下でお魚を買うことにする。
歩き始めると目の前に大きな月が姿を現した。
木津川に沿ってなだらかに広がる鹿背山の上の空に、大きな満月が紫色に張り付いている。
背中の空はまだ黄昏色に染まっていて、オレンジの光線は顔を出したばかりの月に反射し、月を紫色に固定してしまったのだ。
今、こんな月が空にあることを、誰かに教えたい。
最近何故だか、心が少し弱い私は、情緒的な誘惑に駆られ、同じ月を見ることができるはずの近くの友人にメールを入れた。
「月がきれいよ」
その友人が私のメールに気付いて月を見上げたのは、深夜に近い時刻になってからだったから、面白い。
現実は時々、どんな物語より情緒的なものらしい。
たとえ、それが特別数奇な現実でなくても。
土曜日、奈良の小さなライブハウスのようなところで、
「プリミ恥部な世界」という映画ライブを観た。
スクリーンの前に、小さなテーブル。狭い部屋にはナマメカシイ原色のふわふわの敷物が敷かれていて、同じ高さでギターとマイク。後ろにドラム。
デフォルメされた現在が映像で流されると、ダンスをしながら女装した男の子が現れ、ギターを手に歌い始める。
例えば、
スクリーンに川が映し出されたかと思うと、水の流れがスクリーンの奥から波動をつくり、前方へと押し寄せ、それは前に置かれたテーブルに反射して画面の前に座り込む観客の上に流れ込む。
同時に音も画面の奥から波動をつくり前方へと押し寄せ、ギターの音へ、最後に部屋の後ろのドラムの響きへと繋がっていく。
っていう仕組みで、映像と現実が確かにボーダーを消滅させる瞬間を味わうことができる。
実験としてはおもしろいライブで、3Dなんかでスクリーンから飛び出してくるディズニー映画とは違ったのだ。
ちなみに3Dで観た「クリスマスキャロル」は、ちょっと面白くて、ディケンズがもし1950年にこれを観ていたら、それでも朗読劇をしたのかなぁ?とか考えたりしていたのです。