多和田葉子の「雪の練習生」を読んだ! | とんとん・にっき

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多和田葉子の「雪の練習生」(新潮文庫:平成25年12月1日発行、令和2年2月25日4刷)を読みました。構えて読んだのですが、思っていた以上にスラスラと読みやすかった。さすがは多和田葉子、やっぱり不思議な小説、小説家です。

 

朝日新聞「文芸時評」で作家の小野正嗣は、「『多和田語』の世界」と題して、「地球にちりばめられて」「星に仄めかされて」(講談社)、「献灯使」(講談社文庫)に触れながら、以下のように述べています。

興味深いことに、本書では人物たちのアイデンティティーが入れ替わる場面がある。傑作「雪の練習生」(新潮文庫)で、人間と動物(ホッキョクグマ)との境界をやすやすと越えたこの作家の言葉は、これまで言語や国籍、人種、性差といった人々を遠ざけ分断する境界線にからめとられることなく歩を進めてきた。(本書の言葉は)さらに、私たちを閉じ込め自由を奪う<私>という牢獄からの解放を夢見させてくれる。

多和田葉子の言葉は、日本語でもドイツ語でもなく、地球上のどこからでも見える夜空よりも広大な言語と言語の<あいだ>にちりばめられた星々のように輝いている。

 

第一部の「祖母の退化論」では、旧ソ連で生まれた「わたし」が、サーカスの花形になり、体調を崩して裏方にまわり、ひょんなことから書いた「自伝」が活字になり、作家として著名になっていきます。

続く第二部の「死の接吻」の「わたし」は、「ウルズラ」という名の曲芸師で、ホッキョクグマの「トスカ」とコンビを組みます。二人(一人と一頭)の人気演目が「死の接吻」です。

第三部「北極を想う日」は、第一部の「わたし」の孫であり第二部の「トスカ」の息子である「クヌート」の物語である。「クヌート」はベルリン動物園の人気者だった実在したホッキョクグマです。

 

多和田葉子の「雪の練習生」は、結局のところ、「クヌート」と彼の母親と祖母が、それぞれに「わたし」として物語る、長い長い三代記だったわけです。

 

佐々木敦は「解説」の中でウィキペディアを引いて、「クヌート(ホッキョクグマ)」について書いています。

クヌートはベルリン動物園で生まれたホッキョクグマである。母グマが育児放棄したため、人工哺育された。・・・飼育係であったトーマス・デルフラインの献身的な飼育により、その後順調に成長します。デルフラインは2008年に44歳の若さで亡くなります。小説の中ではデルフラインは「マティアス」という名前だが、この小説はかなりの部分、事実を元にしています。

 

つまり、「雪の練習生」はすこぶる不思議な物語となることが運命づけられていました。不思議、というのは、一筋縄ではいかない、という意味である。クマたちによる一人称は、「わたし」を介して、随所で作者自身を想起させる仕掛けになっています。

 

以下の箇所は、自分のこと、多和田葉子のことなのか?

ものを書くというのは不気味なもので、こうして自分が書いた文章をじっと睨んでいると、頭の中がぐらぐらして、自分がどこにいるのか分からなくなってくる。わたしは、たった今自分で書き始めた物語の中に入ってしまって、もう「今ここ」にはいなくなっている。眼を上げてぼんやり窓の外を見ているうちに、やっと「今ここ」に戻ってくる。でも「今ここ」って一体どこだろう。(P11)

 

佐々木敦は「解説」のなかで、以下のように言う。

ということはつまり、この「わたし」とは「語るわたし」であるばかりでなく「書くわたし」、いや「書きつつあるわたし」でもあることになるのだが、だとすれば、これはまだクマであることはわかっていなくても、多分ヒトとは違う毛の生えた生き物が書いた文章ということになるのだ。それってどういうこと、と不思議がる間もなく、この「わたし」は…。そして「わたし」がこうして自伝を書くに至った顛末が語られる。このあたりまでくれば、読者は不思議は不思議なままで、理屈抜きの納得とともに、すでにこの小説に深く囚われてしまっていることに気づかされることになるのだ。

 

三代にわたるホッキョクグマの「自伝/伝記」は、そのまま過去数十年の「歴史」が重ね合わされている。冷戦状況からベルリンの壁崩壊、ソ連の終焉と、激動といっていい変化に翻弄されるクマたちの姿は、そのままドイツの、ヨーロッパの、世界のひとびとの姿でもある。・・・いうなればこれは「クマ」を通して「わたし」と「世界」を描いた小説なのであると、佐々木敦は結んでいます

(またしても、文庫本の「解説」に多くを負っています。ここまで読むのかと、教えられることが多く、勉強になりました。)

 

本のカバーには、以下のようにあります。

膝を痛めて、サーカスの花形から事務職に転身し、やがて自伝を書きはじめた「わたし」。どうしても誰かに見せたくなり、文芸誌編集長のオットセイに読ませるが…。サーカスで女曲芸師と伝説の芸を成し遂げた娘の「トスカ」、その息子で動物園の人気者となった「クヌート」へと受け継がれる、生の哀しみときらめき。ホッキョクグマ三代の物語をユーモラスに描き上げた、野間文芸賞受賞作。

 

目次

祖母の退化論

死の接吻

北極を想う日

解説 佐々木敦

 

多和田葉子

 

多和田葉子:

(1960・3・23~) 小説家、詩人。東京生まれ。早稲田大学の第一文学部卒業。ハンブルク大学修士課程修了。1982年よりドイツに住み、日本語・ドイツ語両言語で小説を書く。91年、「かかとを失くして」で群像新人文学賞受賞。93年、「犬婿入り」で芥川賞受賞。96年、ドイツ語での文学活動に対しシャミッソー文学賞を授与される。2000年、「ヒナギクのお茶の場合」で泉鏡花文学賞を受賞。同年、ドイツの永住権を獲得。また、チューリッヒ大学博士課程修了。03年、「容疑者の夜行列車」で伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞受賞。05年、ゲーテ・メダル受賞。09年、早稲田大学坪内逍遥大賞受賞。11年、「尼僧とキューピッドの弓」で紫式部文学賞、「雪の練習生」で野間文芸賞受賞。

 

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朝日新聞:2020年5月27日