多和田葉子の「犬婿入り」を読んだ! | とんとん・にっき

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多和田葉子の「犬婿入り」(講談社文庫:1998年10月15日第1刷発行、2018年10月1日第11刷発行)を読みました。

 

本のカバーには、以下のようにあります。

多摩川べりのありふれた町の学習塾は”キタナラ塾”の愛称で子供たちに人気だ。北村みつこ先生が「犬婿入り」の話をしていたら本当に<犬男>の太郎さんが押しかけてきて奇妙な二人の生活が始まった。都市の中に隠された民話的世界を新しい視点でとらえた芥川賞受賞の表題作と「ペルソナ」の二編を収録。

 

いや~、この二作、「ペルソナ」と「犬婿入り」、文章は平易で読み易いんですが、何か書こうとすると、そう簡単ではない。巻末に「<間>をめぐるアレゴリー」と題された与那覇恵子の解説が載っているんですが、これを読むと浅学の自分など、コメントなどは到底できるはずもなく、太刀打ちできる代物ではありません。が、それではなにも始まりません。与那覇恵子の解説に従い、なんとか書いてみることにいたしましょう。「他人のフンドシで相撲を取る」という、お得意のズルイ考えなわけです。

 

以下、与那覇恵子の解説より

多和田葉子は、<言葉>が一つの人格を形成するような小説を書き続けている。・・・多和田のテクストでは<もの>の本質が語るように、言語(言葉)が立ち現れてくるような表現が目指されている、といえるかもしれない。それは<もの>が自己を語るアニミズムの世界にもみまごう表現行為へと連なっていく。・・・リービ英雄との対談で「ドイツ語を母国語にしている人とは違ったドイツ語を書くことが、私がドイツ語を書いているときの目的で、そうやって書くことによって、逆に自分の母国語で書くときも、いわゆる上手(うま)い日本語、綺麗(きれい)な日本語というのを崩していきたい。つまり、二つの言語を器用にこなしている人になりたいんじゃないんです。また、一つを捨てて、もう一つに入ったんでもなく、二つを持ち続けながら壊していくような、そういうことを一応、恥ずかしながらめざしているんです」とも語っている。

 

「ペルソナ」には文化的差異の中における差別と、自国の文化・言葉からも拒絶される宙吊りにされた身体が描出される。多和田葉子の場合に<身体>は生理や感覚の具体的現れという肉体レベルのみならず、一定の時間的・空間的な制約を受ける一つのアレゴリーとしても機能/作動している。「ペルソナ」ではドイツに留学している日本人女性の自身に向けられる眼なざしとその不安とが、皮膚(身体表層)と言葉の乖離として表象されている。

・・・韓国人セオンリョンに向けられたドイツ人セラピストの、東アジア人の喜怒哀楽をあまり表に出さない表情に対する「やさしそうに見えても、仮面のような顔の下で何を考えているのか分からない」という言葉が、いつの間にか噂となって定着してしまうエピソードは、「東アジア人」全体に向けられた差別の眼なざしとして道子をゆさぶる。そこでは眼なざしが、言葉が、暴力となって身体に襲いかかってくるのである。

・・・ドイツに住みドイツ語で小説を書いているトルコ人の女性作家たちについて論文を書いている道子は、異物をはじき出そうとする共同体の眼なざしに「激しく駆り立てられる」ようにこれまで避けていた地域「難民収容所」に足を踏み出していく。

・・・<もの>を固着した意味や記号でしか読まないのが弟の和男や佐田さんやシュタイフさんである。彼らは日本人であることドイツ人であることに固執し、ステレオタイプ化された思考の域を絶対に出ようとはしない。とくに自分たちを「東アジア人」と思っていない和男らに、道子は<異物>でしかない。だから彼らに向かって「本当に思っていることを言おうとすると、日本語が下手になってしまうのだ。自分の生まれ育った国の言葉なのに、それどころか、自分自身だと思っているものを生み出してくれた言葉なのに、本当に思っていることを言おうとすると、それが下手になってしまう」のは当然なのである。

・・・最後に道子は、オリエンタリズムを具現する能面を被ることで「日本人」を体現しようとする。だが、周りの人々は「道子が日本人であることに気づかない」。ここには顔(ペルソナ=固有性)を獲得するための能面(ペルソナ)で顔を喪失してしまい何者でもなくなってしまう、という深いアイロニーが浮かび上がっている。「ペルソナ」には名前や私の顔という固有性が剥奪されている世界、そして他者との間に広がる根源的な溝・亀裂の世界が、多くのプロットで織られている。まさに多和田文学の方法の原型を表す作品なのだ。

 

「犬婿入り」は、異物の存在を見えない存在としてしまう共同体の強固さを描いた作品といえるだろう。

・・・「犬婿入り」に登場する女性みつこは、同じ鼻紙を三度使うことを勧める話から始まり、「お尻」を「ペロリペロリと舐(な)める」「犬婿」の話、鼻くそ手帳、ニワトリの糞で作った膏薬という身体の排泄物に関わる言動で表象されていく。一方、一人暮らしのみつこの前に突然現れ、犬歯でみつこの首の肌を「チュウチュウ」吸ったり、みつこを空中に持ち上げ肛門をペロンペロンと舐める太郎は、犬的振る舞いによって表象される。東京郊外の古くから栄えていた街と新興住宅の団地との狭間に出現したのが、どこから来たのか分からない北村みつこの住居兼塾であって。二つの地域の狭間に位置しているのがみつこで、そのみつこが関わるのが太郎と「変わている」と同級生から無視される小学三年生の扶希子である。さらに太郎に関わるのが「ゲームセンターでよく<腰を振っている>」と噂される扶希子の父親松原利夫である。

・・・現在、普通の<人間>とは異なる位相に在るみつこたち<異類>は、かつてのように共同体に強い衝撃を与えない。・・・彼らは、ある都市を暫く浮遊した<旅行者>のように街を去る。どの共同体にも所属していないけれど、どこにでも入り込むことのできる<旅行者>のような存在である。

・・・「犬婿入り」の面白さは何と言っても<異物>を表出する言葉の噴出感であろう。とくに太郎の表象は「犬婿」という言葉が生き物のように一つの人格となって現出されている。「犬婿」というイメージとエクリチュールとの一致は滑稽なユーモアも醸し出している。言葉が伝達の手段を超えて<もの>の本質として屹立する言語空間が立ち現れているのである。

 

多和田葉子の小説は様々なアレゴリーに満ち溢れている。しかしそこには日本語の言葉のシステムを捉え返し、既成の文学言語を突き崩そうとする強い磁場が流れている。既成の文学言語の仕組みを明示しながら、言葉に新しい生命を吹き込む。それは「あらゆる文学に対して革命的」な「マイナーな文学」(ドドゥルーズ)に位置する立場である。

 

以下は、「犬婿入り」が芥川賞受賞した時の、選考委員による選評の一部。

 

第108回 平成4年/1992年下半期

多和田葉子(32歳)「犬婿入り」

選考委員による選評(比較的好評だった選評)

大江健三郎(57歳)中立的な賛成
「異類婚姻譚のかたちを展開して、小説作りの基盤としたことには、ふたつの成果があったと思う。ひとつは文体に、もひとつは社会、家庭での人物の新しい位置づけに。それはさきの候補作『ペルソナ』にくらべるとあきらかになる。」「それは当の女性の、社会に順応するというのではないがそこで自立できる、今日的な生き方を納得させる。彼女の住む郊外都市の現実感も、確固としたものだ。」
大庭みな子(62歳)中立的な賛成
「外の世界との異和感をかかえて立つ多和田さんの強靭さは、この二三年の間に発表された何篇かの作品を通じてわたしをとらえて放さなかった。」「作家・多和田葉子は日本文学界のこの伝統ある新人賞・芥川賞で祝福される時期に来ている。」
吉行淳之介(68歳)消極的な賛成
「なかなか面白くて感心した。」「そのしたたかな才能に目の覚める気分だったが、だんだん「才気煥発」が目立つようになり、これはふつう誉め言葉なのだが、この場合には持時間不足を強引に押し切ろうとしているようにおもえてきた。そういう部分は、なまじ何の寓意か考え過ぎないようにして、あとは大勢に従った。」
黒井千次(60歳)中立的な賛成
「新旧二つの文化の接点に一粒の民話の種子を埋め、その成長を見守る話として(引用者中略)面白く読んだ。」「民話は一方で、現代人の結婚や子育てや家庭の生態を照し出し、他方、それ自体としては犬への変身譚として展開する。」「二つの力の絡み合いが、内部に正体の掴み難い奇妙なものを包み込んだまま、特異な非現実の世界を生み出している。
 

 

多和田葉子:

1960年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。ハンブルグ大学修士課程修了。チューリヒ大学博士課程修了。ベルリン在住。’91年「かかとを失くして」で群像文学新人賞を受賞。’93年本作で芥川賞を受賞。ドイツ語での文学活動に対し、’96年シャミッソー文学賞、2005年ゲーテ・メダル、’16年クライスト賞を授与される。’00年「ヒナギクのお茶の場合」で泉鏡花賞、’02年「球形時間」でBunkamuraドゥマゴ文学賞、’03年「容疑者の夜行列車」で伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞、’11年「尼僧とキューピッドの弓」で紫式部文学賞、「雪の練習生」で野間文芸賞、’13年「雲をつかむ話」で読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞をそれぞれ受賞。近著に「百年の散歩」がある。

 

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