窪島誠一郎の「父 水上勉」を読んだ!
窪島誠一郎の「父 水上勉」を読んだ!
窪島誠一郎のことを最初に知ったのは、もちろん「無言館」でした。それが「日曜美術館」が先だったのか、「無言館ノオト」(集英社新書:2001年7月22日第1刷発行)が先だったのか、はっきりしませんが、それはどっちでもいいことです。「信濃デッサン館」と「無言館」を見に行ったのは、秋も深まり、林檎がたわわに実る2009年11月のことでした。若き日の自伝的な作品「明大前」物語を読んで、同じ世田谷区の住民として妙な親近感を抱きました。今でも明大前には時々行き、「キッド・アイラック・ホール」の前も通ります。「キッド・アイラック」とは、「喜怒哀楽」から来ていることは言うまでもありません。
水上勉の作品は、小説では直木賞を受賞した「雁の寺」を始め、「越前竹人形」、「はなれ瞽女おりん」、「五番町夕霧楼」、だいぶ後になってから伝記文学として「良寛」、「一休」を読みました。他に初期の自伝的なエッセイ「わが六道の闇夜」や、日本経済新聞に連載していた「私の履歴書」、朝日新聞に連載していたもの(題名は忘れたが「私版東京図絵」だったか?)、等々、読みました。いま、題名を観ると映画化された作品も多いし、またパルコ劇場で舞台化されていた「越前竹人形」他何本かは観に行きました。今でも覚えています。開演前に劇場のロビーで見かけた背は高くはないが恰幅のいい水上勉のことを・・・。
1961年(昭和36年)上期の第45回直木賞を受賞した「雁の寺」は、水上勉の声価を決定的なものにした重要な作品です。僕は父の本棚にあった「文藝春秋」で読んだ記憶があるのですが、直木賞だから「オール読物」だったのかもしれません。なにしろ僕がまだ中学生か、高校生だった頃のことです。水上の僧侶時代の経験を下敷きにした作品で、貧困家庭から出家した少年僧が、和尚の乱れた荒淫生活、階級重視、女性蔑視の日々を告発、やがて和尚を殺害するという筋立てです。
「父 水上勉」の第1章ともいうべき「虚(うそ)と実(ほんと)」には、以下のように書かれています。
わたしは戦時中に2歳と9日のときに父親と離別し、その後養父母のもとに実子として貰いうけられ育てられた子で、戦後30余年も経ってから父と再会したのである。すでに人気作家の頂点にあった父親と、一介の小さな画廊の経営者だったわたしの対面は、当時のマスコミに「奇跡の再会」とか「事実は小説より奇なり」などと取り上げられ、わたしが約20年間も親をさがしてあるいた「物語」は、NHKの連続ドラマにまでなった。再開時、父は58歳で、子どものわたしは35歳であった。
そういう自分が、実父である水上勉を書くにあたって肝に銘じたことはなにか。「人間、そうかんたんに自分の本当の姿がわかるものではない。自分のことがわからないくらいだから、他人のこととなれば尚更である」と言った父親の水上勉の言葉だという。父水上勉のことを、その人の真実などとても分からないだろうと思いながら、書き始めているのである、という。
とはいえ、エピソード満載のこのエッセイは、まったく飽きさせることがなく、最後まで面白可笑しく、時には涙しながら読ませる文章で埋め尽くされています。なんだんだ、この面白さは!事実は小説より奇なり、を突き抜けると、八方破れも面白さがあります。登場人物も一人一人が、本来なら深刻にならなければならない時でも、生き生きして楽天的です。1961年、直木賞受賞作「雁の寺」が文藝春秋から完工された翌月の9月、次女直子がうまれます。直子は先天性の脊椎破裂症をもった子でした。昭和38年2月に中央公論に発表した直訴文「拝啓池田総理大臣殿」が面白い。水上の郷里は若狭、そこにある福祉センターは原子力発電所建設の見返りに、莫大な助成金で建てたもの。水上が書いたエッセイは、あまりにも予言的で、示唆的だ窪島はいう。
もちろんこの本「父水上勉」の主人公は父・水上勉と、その子・窪島誠一郎です。よく似てるんだ、これが・・・。
ほぼ最終章に近い章に「ふたたび、血とは何か」がある。窪島は「父に負けないくらい、私も女好きのほうである」と告白しています。が、その他にも、「虚言癖」「放浪癖」「普請癖」「女好き」「血縁ギライ」、父から譲られた血は色々あるが、結局のところ、それらはすべて、私たち父子がもつのっぴきならない「孤独感」「独りぼっち感」から来ているように思われると、窪島は言う。それは要するに、自分以外の人間を信じることができず、常に人の心を疑い、人から与えられる愛情を秤にかけ、その結果、にっちもさっちもゆかない孤独の底に置かれてしまうという自業自得の症状だ、と分析しています。
最後に「母の自死」という章があるが、これは悲しい。「水上勉との間に私をもうけた生母の加瀬益子が、東京田無の自宅で首を吊って自殺したのは1999年6月11日のことである。・・・あと半月ほどで82歳になるところだった」。窪島が母の死を知ったのは、益子が死んで5年後の平成16年の5月上旬のことだったという。母の郷里は千葉県、益子の家では獲れなかったが、周りには落花生の生産農家が多く、収穫期になると送ってよこした。父がホテルでカンヅメになっていたとき、二人で皮を散らかしながら食べたという。病床の父には、母が自殺したことは知らせなかった。平成11年の6月に益子が死んだのを告げたときにも父は興味なさそうだったという。もう60年以上も前の戦争中のことだ。「落花生を送ってきた人なんだけど・・・」、臨終の夜、窪島が呼びかけても、高イビキの父は何も答えなかった。
窪島誠一郎:略歴
1941年東京生まれ。印刷工、酒場経営などを経て1964年、小劇場の草分け「キッド・アイラック・アート・ホール」を設立。
1979年、長野県上田市に夭折画家の素描を展示する「信濃デッサン館」を創設。
1997年、隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開設。
2005年、「無言館」の活動により第53回菊池寛賞受賞。
主な著書に「「無言館」ものがたり」(第46回産経児童出版文化賞)、「鼎と槐多」(第14回地方出版文化功労賞)、「無言館への旅」、「祖餐礼讃 私の『戦後』食卓日記」など。
[目次]
虚(うそ)と実(ほんと)
生家の風景
出家と還俗
寺の裏表(うらおもて)
放浪、発病
冬の光景
三枚の写真
結婚、応召
「八月十五日」
文学愛(いと)し
堕胎二夜
血とは何か
薄日の道
文壇漂流
今に見ていろ
「雁の寺」から
直子誕生
飢餓海峡
邂逅の時
成城、軽井沢
こわい父
「血縁」ギライ
京都、百万遍
一滴の里
女優泥棒
竹紙と骨壷
ふたたび、血とは何か
北御牧ぐらし
病床十尺
母の自死
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