「『戦争』が生んだ絵、奪った絵」を読んだ! | とんとん・にっき

「『戦争』が生んだ絵、奪った絵」を読んだ!



「『戦争』が生んだ絵、奪った絵」を読みました。僕が無言館のことを知ったのは、だいぶ前のことですが、たしかNHKのドキュメンタリー番組だったように記憶しています。また、日曜美術館でも何回か取り上げられたように思います。民放では「報道ステーション」でも取り上げていました。そして窪島誠一郎の「無言館ノオト――戦没画学生へのレクイエム」(集英社新書:2001年7月22日第1刷発行)を読むことになったわけです。読んだのは2003年頃でしたが、もう、それを読んでからは、いつか必ず「無言館」を訪ねてみたい、と思うようになり、それが実現したのが2年前の秋、11月のことでした。窪島誠一郎には著作がいくつもあり「『明大前』物語」や「私の『母子像』」を読みました。

「『戦争』が生んだ絵、奪った絵」、本の帯には「『戦争』がおこらなければ、本書の画家・画学生たちは、青春の夢のまま描き続けていたのだ。彼らの内なる叫びを風化させないために」とあります。本のカバー裏には、以下のようにあります。

「戦争」を生き抜いた画家は、今度は戦争体験と戦わなければならなかった。戦争の激浪に拉致された画学生、画家たちは、沈黙を強いられることとなった。青春の夢・希望を奪われたjことでは、両者は同じ、犠牲者だった。彼らの叫びを、20世紀のこと、昭和の世のこととせず、耳を傾けよう!


1997年、長野県上田市塩田平に建つ、コンクリート打ち放しの平屋建て、建坪120坪の、十字架形をした戦没画学生慰霊美術館「無言館」が開設します。日中戦争、太平洋戦争で、卒業後、もしくは学業半ばで、戦地に駆り出され戦死した画学生の、遺作や遺品が約300点、展示してあります。建設のきっかけは、窪島誠一郎と野見山暁治との出会いでした。2人は「戦死した仲間たちの絵」の話に共感し、全国の戦没画学生の遺族を訪問し、遺作や遺品を蒐集しました。


開館したときの館蔵品は画学生は17名、遺作数が80点ほどでしたが、それがこの10数年で108名、600点のコレクションを擁するまでになったという。逆に、開設当初は年間10万人誓い来館者がありましたが、数年前から徐々に減少傾向をみせはじめ、近年は最繁盛期の半分ぐらいに落ち込んでいます。戦後65年の歳月や厳し、今や「無言館」は確実に風化、いや孤島化の曲がり角を迎えていると、窪島誠一郎は嘆いています。


やはり野見山暁治の書いた「香月泰男・アトリエの中のシベリア」が心に沁みて感動的です。「シベリヤ・シリーズ」は抽象画ですが、どの作品も戦争の無意味さが描かれていて、それがよく伝わってくるから不思議です。絵の持つ力でしょう。香月泰男は戦死したわけではなく、62歳まで生き続けます。死ぬまでシベリヤを描き続けていた、描き続けることで生きていられたと、野見山は言う。


第1部 「戦争」が生んだ絵

     香月泰男・アトリエの中のシベリア 野見山暁治

     浜田知明・戦争体験の無残な感覚のイメージ化 橋秀文

     高山良策・「弾雨下にスケッチ 高山君絵筆の奉仕」

     山下菊二・「おちこぼれ兵士の戦線スケッチ」

     靉光・「わしにゃあ戦争画は描けん」

         ―そう言って画家は戦場へ行った

第2部 「戦争」が奪った絵

第1章 戦没が学生と遺作を守った遺族たち

     日高安典・種子島に生まれ、ルソンに散る

     太田章・友禅職人だった父の希望の星

     高橋英吉・戦地から還った絶作《不動明王像》

     前田美千雄・歴戦のはざま、永遠の蜜月

     原田新と久保克彦・瀬戸内少年コンビの絵と恋と戦争と

第2章 戦没画学生列伝

     花と散った日本画科の俊英2人 浜田清治・金子孝信

     消えた画学生 千葉四郎・清水正道

     この妻、この子を遺して

     中村萬平・椎野修・市瀬文夫・佐久間修・吉田二三男

     そして学徒出陣 桑原喜八郎・伊澤洋・芳賀準録

     8月15日を過ぎても

     関口清・大貝彌太郎・白澤龍生・益田卯咲

     未完の夢、未完の青春

     岡田弘文・興梠武・近藤隆定・伊勢正三

     大谷元・伊澤良雄・高橋助幹・大江正美

第3章 「無言館」の13年

     眠れる「絵の骨」のこと 窪島誠一郎


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