大澤真幸の「夢よりも深い覚醒へ―3・11後の哲学」を読んだ! | とんとん・にっき

大澤真幸の「夢よりも深い覚醒へ―3・11後の哲学」を読んだ!

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大澤真幸の「夢よりも深い覚醒へ―3・11後の哲学」(岩波新書:2012年3月6日第1刷発行)を読みました。アマゾンで購入したのは外岡秀俊の「3・11複合被災」(岩波新書:2012年3月6日第1刷発行)と同時でしたが、こちらを読むのが遅くなってしまいました。大澤真幸という人はどんな人なのか、僕はまったく知りませんでしたが、「不可能性の時代」(岩波新書:2008年)という書名は知っていましたが、僕は読んでいません。著書は数多くあるようですが、2007年に「ナショナリズムの由来」(5000円もする!)で毎日出版文化賞を受賞しています。


著書は読んでみないとわかりませんが、共著者の顔ぶれを見ると、香山リカ、吉見俊哉、金子勝、東浩紀、佐伯啓思、北田暁大、橋爪大三郎、等々、おおよその立ち位置がわかります。大澤真幸の略歴を見ると、2007年に京都大学人間・環境学研究科同研究科教授に昇格後、なぜか2009年9月1日付で辞職、予定されていた後期授業は開講されなかった、とあります。


本の帯には、以下のようにあります。

「不可能性の時代」に起きた3・11の二つの惨事は、私たちに何を問うているのか。日本で、脱原発が一向に進まないのはなぜなのか。そもそもなぜこれほど多数の原発が日本列島において建設されてきたのか。圧倒的な破局をうちに秘めた社会を変えていくための方法とは? オリジナルな思考を続ける著者渾身の根源的な考察。


まず驚いたのは「夢よりも深い覚醒へ」というタイトルです。3・11以降、夥しい量の言説が生み出されてきた。言説の量は、われわれの衝撃の大きさに比例している。しかし、これらの言説は、3・11という悪夢に匹敵する深さをもっていたか、われわれが受けたショックを汲みつくした言説になっていたかと、大澤は自問します。「凡庸な解釈は、むしろ、真実を隠蔽する」として、幕となっている中途半端な解釈を突き破るような知的洞察が必要だ、という。そして次のように言う。「真実を覚知するためには、彼は覚醒しなくてはならないが、通常の覚醒とは反対方向への覚醒でなくてはならない。夢の奥に内在し、夢そのものの暗示を超える覚醒、夢よりもいっそう深い覚醒でなくてはならない」と。「夢よりも深い覚醒」は、大沢の社会学の師である見田宗介の言葉だという。


もう一つ驚いたのは、「いきなり結論」です。大澤は「本書ではあえて冒頭に結論を付しておく」として、以下のように言う。「日本は、全面的な脱原発を目標としなくてはならない」と。しかし「すべての原発を即刻停止して、直ちに廃炉の準備に取りかかるというやり方は、現実性に乏しい。原子炉ごとに閉鎖の年限を決定し、段階的に完全な脱原発を実現するのがよいだろう」と、ごく常識的な結論をまず提示します。「いずれ閉鎖する」という無期限や、「○○の条件が満たされたら閉鎖する」といった仮定を伴う期限は許されない、とします。さらに「軍事転用の可能性が最も高く、かつ桁外れの危険性をもつ核燃料サイクルに関しては、ただちに放棄されなくてはならない」と釘を刺します。


これを読んで思い出したのは、柄谷行人の言葉です。東日本大震災について最も早く出されたであろう本、内橋克人編「大震災のなかで 私たちは何をすべきか」(岩波新書:2011年6月21日第1刷発行)の中で、柄谷行人の言うことは、実に明快で分かり易い。どうすればよいのか、原発をすべて廃棄すること、それを市民の闘争によって実現すること。このことに、今日の日本の問題のすべてが集約される。われわれは原発を廃棄することの他に何も提案する必要はない。そして「地震がもたらしたのは、日本の破滅ではなく、新生である」と結んでいました。

「阪神・淡路大震災/オウム事件は、何かの終わりだった。しかしそれは終わらなかった。1995年の出来事は、終わりの過程の始まりでしかなかった。おそらく、東日本大震災と原発事故は、その終わり始めたものを本当に終わらせる出来事である」と、大澤は言う。また「世界の良心・世界の声として、核兵器のまったき被人間性を倦むことなく告白し続けた国が、なぜ同時に、極端な場合にはそれが核兵器とまったく同じ破壊力を持つと知りつつ、ほかならぬ原子力の開発をためらうことなく決断し得たのか」と、リスク社会論の提唱者、ウルリッヒ・ベックの福島の原発事故について論じた文章を提出します。


「だが、本書で私が探求したいことは、こうした結論を直接に正当化することではない。探求の主題は、こうした結論へと至る理路を支えている前提である」と、大澤は続けます。「3・11には、あるいは原発問題には、詩的真実のようなものがある。われわれが3・11の出来事に圧倒的な衝撃を受けたのは、詩的真実に触れるものが、津波にも、原発問題にもあったからである」として、フランスの哲学者アラン・バディウの二分法、「広義の)政治には“存在”と“出来事”の二側面がある」を提出し、「詩的真実」とはバディウの言う「出来事」のことである、としています。


3・11の大津波と原発事故を目の当たりにしたとき、われわれは、それまで可能だとしていたことが不可能であり、逆に不可能だとされていたことが可能であることについての直感を持ったのではないか。つまり、3・11の出来事には、可能性と不可能生を弁別する座標軸、われわれの日常の生が当たり前のように受け入れてしまっている土台そのものを揺り動かすものがあったのだ。・・・詩的真実は日常的現実と別の所にあるのではなく、日常的現実の中に、日常的現実を通じて現すのである。


そして「問題は真に困難なものに、不可能な選択に転換する」として、「ソフィーの選択」においてソフィーが強いられた選択を、例として取り上げます。ソフィーはどうすべきだったのか? 正解のない難問として。3・11が露呈させた原発の問題は、ソフィーの選択と似ているということ。いや、そうではない。それはソフィーの選択の真逆であり、その対極にあるが、それはソフィーの選択とほとんど等価な問題へと転換を遂げる。どうして、転換するかが重要である。そこに、原発の問題の難しさがある、と大澤は言う。 

ビールをノンアルコール・ビールと言いくるめ、ごまかしてきたことの結果は、3・11の事故のような圧倒的な例外状況の中でこそ露呈することを、「江夏の21球」を比喩的に取り上げて説明しているのも面白い。原発に即して言えば、「ぎりぎりの覚悟」は、結局は原発が原爆と本質的に同じものであること、原発をノンアルコール・ビールとして扱っている限りは、死活的な場面に立つ覚悟は生まれない。日本が取り得る決定は、結局、一つしかない。原発の全面的な放棄が、日本にとって、論理的に可能な唯一の結論である。仮に即座に放棄することが現実的ではないにせよ、明確な期限を決めて、漸次、原発を減らし、最終的にすべてを廃炉にしなくてはならない、として冒頭に述べた結論を、大澤は繰り返します。


著者紹介
大澤真幸(おおさわ・まさち)1958年長野県松本市に生まれる。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。個人思想誌『THINKING「O」』(左右社)主宰。専攻は、比較社会学・社会システム論。著書―『ナショナリズムの由来』(講談社、毎日出版文化賞受賞)、『〈世界史〉の哲学(古代篇、中世篇)』(講談社)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『社会は絶えず夢を見ている』(朝日出版社)、『増補 虚構の時代の果て』(ちくま学芸文庫)、『現代宗教意識論』(弘文堂)、『「正義」を考える』(NHK出版新書)、『ふしぎなキリスト教』(共著、講談社現代新書、新書大賞受賞)ほか多数。


目次
序 夢よりも深い覚醒へ
1 夢よりも深い覚醒へ
2 いきなり結論
3 反言語としての詩のように
4 不可能な選択
I 倫理の不安―9・11と3・11の教訓
1 二つの「11日」
2 理不尽な絶滅
3 道徳的な運
4 リスク社会におけるリスク
5 倫理の本源的な虚構性
6 報われぬ行為
II 原子力という神
1 1995年の反復としての2011年
2 人間の崇高性と不気味さ
3 原子力という神
4 原子力へのアイロニカルな没入
5 核には反対だが賛成だ
6 ノアの大洪水
III 未来の他者はどこにいる? ここに!
1 偽ソフィーの選択
2 正義論の無力
3 灰を被った預言者
4 未来の他者は〈ここ〉にいる
IV 神の国はあなたたちの中に
1 神の国はどこにある―いまだ/すでに
2 究極のノンアルコール・ビール
3 江夏豊のあの「一球」
4 苦難の神義論と禍の預言
5 メシアはすでにやって来た
V 階級(クラセ)の召命(クレーシス)
1 階級の由来
2 革命しないプロレタリアート―問題設定
3 階級とは何か
4 ヘーゲル的主体としての資本
5 発話内容と発話行為
6 社会運動の指導者
7 プロレタリアートのラディカルな普遍化
結 特異な社会契約
1 本論の回顧
2 社会契約の特異な方法
あとがき


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