今日、自分はもう暫くは考えたくもない瞬間を作った。


作ったってか、起こしてしまったというか、まあ、おれの人生にはよくあるあの"あちゃーやったやったどーするよこれ目も当たらんねー"ってやつ。


まあ別にそんな大した事じゃないんけど、ただ今この瞬間はそれを面と向かって思い出したくないので引っ越したての部屋のベッドで横になりながら思考の整理をするためにこの記事を書き始めた。


この記事を書くこと自体は不思議とその出来事を直接ほじくり返すことと違って少しズレた視点でいられる。そんな動転寸前の揺れる感情を持ってしまった時に一般的にはどう捉えていこうか、という角度から文字を起こしているので、その詳細には一切触れず"そう言った類の事全般"に対しての思考を巡らせていく。


イライラ棒みたいな、スレスレをなんか誤魔化して進んでね?みたいな、知らんけど


関西人じゃないけど


あ、じゃ"知らないけど"か


知らないけど



話を戻して


その説明をするのにわかりやすい例えを自分の人生から二つ


このブログでも他のシリーズではお馴染みなんだけど、自分はその昔だいぶ長い間精神的な病に生活を縛られていた


まあそんな言い方するとまるで自分のその病に意思があっておれを縛ってたみたいに聞こえるな、それは少し変だ、違う、それも含めて全ては自分の一部で自分自身だった


で、そん時は社会生活を自立して行うことは出来なかった、中学生活開始と同時くらいにどんどん悪くなって、高校辞めて、大学も当然のように進学出来なくて、フリーターとしてバイトすることも出来なかったし、ただ毎日散歩と睡眠を繰り返して一月に2回くらい精神科に薬を貰いに行く日々、時々母親がついてきてくれた


そんな日々に対して自分はどんな心境でいたかというと、"いつの日か良くなって他の人と同じように勉強したり働いたりしたいなぁ、でも全然良くならないからもうこのままダメなのかなぁ" とか考えてた


辛いは辛いんだけど、瞬時的に急激にかかるストレスと違って、ずっとしっかり慢性的な不安は続くけどもう無理!みたいなパンクするような負荷ではなかった


静かに"早く良くなりたいなぁ"って思ってた





二つ目の例えはその後27にして人生で初めて出来た彼女と別れた時


あれは今考えても恐ろしい、瞬時的ストレスで言うなら人生のトップ3には間違えなく入るくらい自分のメンタルは大変なことになった笑


今考えると笑って話せるんだけどさ、当時の自分からしたらもう最大の苦難だったと言うか


夢でうなされたりもう会えないって思って起きた瞬間泣いちゃったりさ


そんなん笑うわ笑笑


おれってこんなことになるんだ...って思ったし人生で初めての本格的な恋愛の洗礼を大雨のように浴びた


でも今考えると全然大したことはなかった


もちろんその状況下の自分はヘロヘロでさ、せっかく入りたかった会社に数ヶ月のアプローチを経て入社も決まったって言うのに、本来なら対人恐怖症で人と自然に会話できなかった自分が会社員になれるなんて飛んで喜んでもよかった事なはずだったのに


別れたゴチャゴチャと入社の連絡がちょうど重なって少しも嬉しくなかった


不思議だね、喜ぶはずのことに喜ばなくて、全然予期してなかった一瞬の恋愛に全部持っていかれるなんて(2年引きずった2年、抜け出し始めてからようやく全部が回り始めた)


その二つの事例で、心の負担はどっちの方が大きかったか?なんて聞かれたら問答無用で後者、あんな瞬間はもう二度と経験したくない


でも質問がじゃあもう一度同じことが起こるとして起こってほしくないのは?に変わったならもう言うまでもないけど前者だ


13歳で発症してから、復活のきっかけとなったアルバイトを始める24までのあの11年間はもう必要ない


それを克服した上でじゃあ今はどう生きるの?ってところで今は色々やってみてるんだから


心にかかる負担は薄ら静かにでも重く続いてた、かたやあの失恋は恐ろしい


でももう一回失恋するよ、ってそう言われたら嬉しいな


また誰かを好きになって、そんで別れて


次はどんなことになるのかはわからないけど笑笑、でも全然大したことないと言うか、むしろ喜ばしいことというか


心にのしかかる瞬間的なダメージと実際の出来事の重さは必ずしも比例しないのかもしれない


その出来事の本質はなんだろうか、もちろん実際にこの世には深刻なことってのが存在して、それにダメージを負っている場合もあるし、そうでない場合もある


大体のことはかすり傷みたいなことをよく言うけど、もちろん人生でこれから時々は深刻なケースにも出会っていくだろうけど、でも今僕たちの目の前にあるそれは本当にそんなダメージを負うほどの事なんだろうか


今おれの目の前にある、あなたの目の前にあるそれ、


もし僕らに辛い夜があったなら、その時はよく寝てください


朝になると意外とスッキリしてるし、その後俺たちはまた始めていけるんで


まあ結局自分の思考の整理なんだけどさ


にしてもバナナヨーグルト美味えなぁ


完。










自分は何か物事を分かりやすく説明しようとする時にまずはその冒頭で"そんなの当たり前過ぎてわざわざ口にしなくてもみんな知ってるよ"と思われるレベルのことをあえて言葉にして言うことが説明をわかりやすく浸透させるための大事な要素であると思っている。


それが理解を深める、伝わりやすくなるブースター的なものだとすら思っているし、今回も例に漏れずまずはそんな当たり前から。


自分以外の人間はみんな他の人たちだ。


みなさんご存知の通り。


自分、一人称という視点を常に持ちながら物事を考え始めると例えばこの世の全ての人間をジャンル分けしようとするとそこではまず最初に自分かそれ以外か。という線引きに出会うと思う。


いくら家族や親友であってもその観点から考え始めると自分側に含めることはできない。例えばあなたの大嫌いなあいつとあなたの最愛のその人は同じジャンルに括られてしまうということだ。


冷静に考えると少し不思議な感覚に陥るかもしれないけれど、それほど自分というかけがえのない存在を超えるものはない。


その事実は母親が我が子を思う強い愛情ともまた違った抗いようのない事実で、親子ってむしろ他人だからこそ愛おしいという感情にも繋がっていると思う。


愛情が強いからってそれを超えるわけではない、存在の大きさが自分という人間を超える事にならないって事だ。


全ての存在が見ているその景色はまさに今あなたの眼球から見えている景色であり、テレビゲームのように少し後ろからそのキャラクターを操作している視点ではない。


同世代にしか伝わらない例えをするけれど、僕らは64 の 007 ゴールデンアイの視点でしか生活をすることができないわけで。


スイッチを押してキャラクターを入れ替えられるわけでもない、一度生まれてしまえば自分としてしか生きていくことができないということ。


ではそんな事実を踏まえた上で僕たちが日常生活で良く出会う他人の意見というものについて考えみよう。


自分は人の意見を聞いた時にその場ではその通りだと受け取ることもあるし、そうでない場合もある。


ただその後でゆっくり時間をかけてその意見の有効性や正当性について、私情をできる限り排除する事を念頭に置きながら客観視してそれが本当に自分に当てはまるのかどうかを考えてみることがある。


そうして導き出される自分の答えはほとんどの場合にこうだ。


それらの意見は必ず二つ、もしくはそれ以上の側面を有していて、一側面だけで捉えるとその答えは有効的、もしくは有効的ではない。のYesかNoの2択になりがちだが、それを色んな視点から解体する事によって複数の答えに辿り着く。


その答えの中から自分という人間に最もフィットするであろう答えをピックアップしてその答えを有効的なものとして自分専用のカスタマイズされたものとして消化してしまうのだ。ここでなに言ってるか訳わからんくなってくる人もいると思うので分かりやすい例えを。


例えばあなたの新しく知り合ったお友達がかなり気が合って話していて楽しいのに圧倒的なマイノリティな側面を一つ持っていたとする。


そうだな、例えばお友達は今までにスマートフォンを所持したことがないとしよう。


現代社会においてそれは圧倒的少数派に分けられるはず。


でもいないことはない。


でも多くの人はそのお友達にこう言う、もしくは思うだろう。


"え、スマホ持った方が良いのに"


"かなりの変わり者な人かも"


"ちょっとそれは理解できないな"


"逆にすごいな"


などなど。


もちろんその時点でそれはその人に悪い印象をもたらすものではないし、そこで友達辞めようとも思わないだろう。


なぜならその事実とそこはダイレクトに結びつかないからだ。


ただ上記で挙げたような例が頭に思い浮かぶ人は多いと思うし、かくゆう自分もまずそんな事を思うはずだ。


では、なんでそう思うのだろうか。


その理由は明確で自分たちの視点からはスマホのない生活など考えられない、からである。


無意識に他人の選択を自分の目線にすげ替えている訳である。


もっと言うとその人がその選択をした理由、その人の人生経験、そして細かい感情や性格などを知るわけもないのに"それは良くない"とか感じてしまう訳である。


瞬時に。


でもその人の感性では多くの人がスマホによって得られる恩恵にさほどの幸せを感じないのかもしれない。


連絡は昔のスタイルの携帯電話でもできたりするし、最低限のライフラインに満足していてその他のスマホのデメリットの方が目につくのかもしれない。


あなたの推測が当たっていて、ただスマホというものを知らないだけの人かも知れない。


過去にSNSを含めた重度のスマホ依存症に悩んで自分の生活が破綻した経験があるかも知れない。


まあなんにせよ、だ。


スマホを持つことで逆にストレスに繋がって良くない。などそんなことは考えるはずもない何故なら圧倒的少数派に分けられるその感性に僕らが共感など出来るはずはないのだから。


ただどんな人でさえ、その人の無数の側面、要素の中に少数派に分けられるものが一つもない。ってことはないと思っている。


その事実を踏まえた上で、大多数の当たり前が自分にとっても当たり前に正しく有効的であると聞こえてしまう、錯覚してしまう最も大きな要因はまさに上記で述べた理由が全てであると思う。


言われた本人も自分の感性や性格、人生経験などをいちいち思い返してそれを客観的な意識と共にじっくりと分析し直すなんて変わり者はなかなかいないとは思っている。


ただ、自分のマイノリティな側面に対してのその意見が自分にとってそのままの形で有能的かどうかは、実は多くの人に当てはまると言う理由だけでは全くもって根拠ならずその時点ではわからない。という方が答えに近いと思う。


何故なら自分という人間はその多くの他人の誰でもないのだから、世の中の人間を二つに分けた時に自分はたった一人だけ"自分"という選択肢に分けられ、後の他人は数十億人全員が同じ"他人"という選択肢に分けられる。


自分の場合、自己認識ではどれだけマイノリティな事実や考えを持っていても、それから少しADHDの気質があって他の多くの人より一見圧倒的に劣っている要素を持ち合わせていたとしても全く自己嫌悪に陥らず自分にないものを持つ他人を凄いとリスペクトし続けられているのはまさにこの思考ではないかと思う。


助けられていることがある。


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どんなにあなたが尊敬している人物ですらあなたの感性や性格を経験したことがないのだ。


この人の意見は凄い、この人の行動は凄い、とか思っていても全く同じようにならないのはなぜだろうか。


ただもらった意見を解体した上で自分という人間に合うかどうかを当てはめてみて、それでも有効的とした場合にはもうその時には既に他人の意見というより自分の意見となっているんだと思う。


走った方がいいよ。を細かく解体した上でそのまま受け取るのか、走る頻度をアレンジして受け取るのか、歩くにして受け取るのか、はたまたそれをありがたい意見として気持ちだけで受け取るのかは考えれば絶対に細分化されているはずである。


言われて落ち込むような他人の意見に対しては一旦私情を抜きに客観視をし、そのありがたい意見の自分に対する正当性と有効性を考えてみると、自分によりフィットする答えやヒントが見つかるかもしれないと、そう信じて自分という人間が本来求めるものに活用していくことがいいのかも知らない。


まあなにが言いたかったかっていうとさ、自分たちの少数派な事実や考え方に対して大多数に当てはまるような意見やアドバイス貰った時ってのはさ、"やっぱそうだよなぁ..."とか肩を落とす前にもう一回しっかり"自分"という人間を踏まえて客観視してみるのが良いかも知れない。


なーんてね。


毎日明日が楽しみだ。


ひよこひよこ。














3月17日の金曜日、この街へ来てから5日目、街を移動する度にもはや恒例となった仕事探しに励みながらも今日は昼間にエネルギーを集中させて使ったので夜は充電あと少しと言ったところ、ただそれはあくまで勉強や仕事探しのような事務作業に勤しむエネルギーのことを言っているわけであって体を動かしたい気分なので後で少しランニングと縄跳びを考えている。今は昼間の気分転換になればと思考の整理も兼ねてこの記事を書いている。

 

この作業が事務作業にあたるのか、というと全くそんなことはない。まあだからこそやっているわけなんだけど。やらねば!の仕事探しや気合十分に習得しようとする言語学習と違って何か差し迫ったものがあるわけでもなく、自由気ままに好きなこと書くだけ書いたら気分スッキリするから心も体も一度リセットするために好きでまた夜遅くまでやってるマクドナルドへ。

 

 

ケアンズとは何もかもが違う非対称の大都市、シドニー。

 

ここへ来るまでは自分のビザを1年間の滞在から2年間の滞在に伸ばすためそのルールである僻地での88日間労働を目的に田舎町ケアンズという場所にいた。

 

何にもないど田舎というわけでもなく観光で成り立つ小さな南国リゾートケアンズ。買い物のできない、そして文化的な観光のできない自然観光一択バージョンの極小ハワイとでも思っていたんだけどそこまで付け加えるならもはやハワイではないな、うん、全然違う。






まあ要は気候が南国でバナナとかの栽培でも有名だったり。でも都会的な生活を楽しみたい自分からすると2〜3日もいればもういいやって感じで、でもまあよくもそんな風に感じているところに5ヶ月半も滞在したと。ここへ来てから自分を褒めてやりたい気分になった。

 

今まさにこの記事を書いている場所シドニーの夜は楽しい、ケアンズではこんな風に作業で滞在できるお店のほとんどは昼の2時には閉店、外でしか作業したくない自分は街に一軒だけ24hで営業しているマックにほぼ毎日通って色々と計画したことをしていた。

 

東京で暮らしている時も夜にフラフラと街へ繰り出してはいろんなところに滞在して好きなことする自由な生活を送っていたので毎日同じ場所での作業は正直かなりきつかったんだけどでも一軒あっただけでもマシだったって考え方もできるし、まあいいんだ終わったことだ。

 

街を歩くとすぐに気づくことがあった。

 

運よくシドニーでもかなりの中心エリアに位置する部屋に住むことになったのでその中心エリアに限った話なんだけれど、その割合の半分、もしくは半分以上がアジア人だ。

 

自分を含めたアジア中の国々からの移民をまとめたその人たちの割合がかなり多い、ここは誰の国かと意識では忘れてしまうほどに移民だらけだ。

 


ケアンズよりは確実に多いはずの日本人も全く多く感じないのはアジアの他の国々からの人種が雑多に多すぎて街を歩いていても目立たないからだろうか。

 

まあ交通量とかまさに大都市、歩いてるだけで全然楽しいところ。

 

街の中心にはもうすぐに海へ到達する大きな川が流れていてオシャレな港町のようで日本で例えるなら横浜、高層マンションが立ち並んでいたりもするのでお台場を始めとする東京ベイエリアな景色も、繁華街からオペラハウスの方へ足を運ぼうとするとその間に街の景色がガラッと変わって突然高層ビルのひしめく丸の内のようなビジネスエリアに入る、そこを抜けてオペラハウスの方へ出ると再び横浜、そんな風にまあ例えるならここが近いかな、みたいな景色も一部はあるんだけれど逆にそこはさすが海外で全くもって日本の街では形容しきれない場所もたくさんある。





繁華街は特に日本の町では形容できないほど違う、街の中には所々に歴史を感じるどデカい煉瓦造りのオシャレな建築が点在する、その中身はそれぞれでもちろん教会、そして大学、ブランドストアひしめくショッピングモール、政府機関、そして住宅とさまざまで敷地も馬鹿でかくまるで広い公園のような感覚だ、そこには確かにヨーロッパ由来の国ならではの景色があってそれこそ日本で言うところの街中に神社や寺が普通の顔して点在するその海外バージョンなんだと思う。









繁華街の中心地にはチャイナタウン、タイタウン、中心を少し外れても感じるは中国系の人たちの店、文化、人々の根付き具合がここでは他のアジア人より頭一つ飛び抜けていんじゃないかってくらいその影響が街の至る所に現れている。

 

おそらく調べればすぐにこのシドニーにおける中国文化の歴史が出てくるはず、いや何かしっかりと歴史的な経緯なしにこうはならないだろうから。

 

だからさっきも言ったようにまるでどの民族の土地であったかはもう意識にはない、そもそもこの国を作り上げたヨーロッパ由来の白人ですら数百年の歴史を遡れば移民であるわけだし、そう考えるともはや歩いている人のほとんどはこの国に先祖を持たない。

 

だからアウェイ感0、それは受け入れられているホーム感でもないけどみんながみんなそれぞれの目的を持って飛行機乗ってここへやってきているってこと。

 

ケアンズではたくさん見かけた原住民族アボリジニ系の人たちはめっきり見なくなった。

 

彼らのことに関しては別の記事でもあげてしっかりと言及したいと思っている。こんな生活水準が高いとされる都市に行けば一瞬で見かけなくなるこんな現状について。

 

ネオンに誘われて路地に入り込めばすぐに煉瓦造りの素敵なレストラン街が姿を表したりアジアの店がひしめく星空フードコートももうその全てが最高で、これからしばらくここで生活できることを楽しみにしながらとりあえず今はマックでこの記事を書いた。

 

この後は家へ帰って軽いランニングへ出かけるとする、明日はまた仕事探しの続きと言語習得を含む作業も再開、仕事が決まってしばらくすればまたその収入を元にいろんな選択肢も広がるためその後でたくさんに人たちにも出会いたいと、そう願いながらこの記事を締めようと思おう。

 

バイバイ。

 

一気に書いて出しただけなので校正してない、要するに誤字脱字はなかなか酷いと思う。

 

完。












お金を生み出す、もしくは稼ぐ上で僕らの得意とすることや才能のその見つけ方を偉人の言葉やストーリー、そして著者の経験と視点から分かりやすくまとめている一冊。


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著者を知っていたわけではないけれど本屋で手に取ってパラパラとめくった時に面白そうという感情で惹かれたのとすぐに読み切れるボリューム感だったのでその場で購入。


ただどこの本屋であったかは何故か全然覚えていなくて、考えられるとしたら59000円のワンルーム時代に帰り道よく寄ってた東武練馬のイオンの本屋か馬場の芳林堂、池袋のジュンク堂か池袋ルミネの上もあり得るな、いやこれじゃ絞ってる意味ないか、自分の行動範囲だった本屋並べてるだけだ。


ただ何故か購入動機だけを切り取って記憶している。


この本の最も大きな特徴としてあげられるのがまず、誰でもサクサクと読みやすいように書かれている。もっと言うと読んでる間ずっと退屈しないためのシンプルな仕掛けが施されているだ。


誰が読んでもすぐに理解できて読みやすいことは間違えない(その理由は後述で説明させてもらう)。そこから更にその読者をこの一冊から大きく何かを受け取る、またはこの一冊に大きく共鳴するに絞り込むならば、それは目標やゴール、夢を長いスパンで掲げつつもまだ未完成な状態でいる人たちではないかと思う。


何か今より成し遂げたいと思っていることを人生という長いスパンで捉え、そしてこれから叶えていきたい、自分の才能を使って仕事がしたい、そもそも自分の才能とは何か、とそう強く考えていてまだそれが完成形ではない人たち。


本屋でこの本をパラパラとめくった時に惹かれたってことは自分もそんなことを思って過ごしていたんだと思う。


さて、小言はこれくらいにして本題へ。


著者の本田健さんという人、本人についての簡単なプロフィールが本にも載っているわけだけど代表作はユダヤ人の大富豪の教えと言う本、有名なんだろうか聞いたことある。


本作同様いわゆる自己啓発本を書いてきた人で作家としてはそれなりに知名度のある人なのかもしれない(自己啓発という言葉実は好きではないんだけどジャンルを説明する上で必要なので使っています)


そして自己啓発本で大事になってくるのは中身も勿論なんだけれどそれより誰がそれを書いているのか、要するにその大事な教訓とも言えるその持論を誰が伝えてきてるのか。がかなり大事である。細かくいうなら誰が書いたかで内容の響き方が変わってくる。


例えばもし小説であればその作家がどこの誰でこれまでに何をしてきた人かどうかは関係ない、もし内容が最高に面白ければそれだけで成立する。それは映画でも漫画でも音楽でもそうで、いわゆる自己を表現するクリエイティブなアート作品と言うのはその作品自体に力があればそれだけで全てを黙らせることができると言う最高にイカしたカッコいいものである。


ただこの手ジャンルはそうはいかない、まあ分かりやすく言うとイチローが書いたものは飛ぶように売れると思う。


著者に実績があって、尚且つそれが世に知られていて初めて説得力を持つジャンル。


もしあなたがそんなメッセージの詰まった本を手渡されたとして、著書が知らない人では表紙の段階で興味を持つのはほぼ不可能ではないだろうか。


ではなぜ自分は著者を全く知らずにその本を手に取ってめくった時に惹かれたのか。理由は単純で、この本はタイトルの通り偉人や有名人の言葉を引用しながらそれをかなりの頻度で一冊の中に効果的に散りばめているからだ。




そして当然偉人のセリフをただ太字で書いてその横でその意味を説明をして、なんていうよくSNSにありがちな再生数稼ぎショート動画の類とは違ってあくまで引用しつつ本自体はこの人の言葉で書かれているわけである。


本を読ませるための入り口を作る手法としてはかなりうまい言うか、お、なんだなんだと興味を惹かせて手に取らせるあたりは一本取られたというか。しかもその有名な言葉の数をタイトルで49と言い切っているところもまた一つ読みやすいポイントで49のパートから成り立っていることが手に取って開くとすぐわかるようになっている。


34ページ先の次の言葉の人物は誰だろう、と常に次の言葉を楽しみにしながら読める。だから読んでいる時に退屈せず、そして気づけば著者誰だなんて気にすることなく読んでいるわけである。(ショートコントとかフリップネタ面白い芸人のネタって見ながらもっと次欲しくなるじゃないですか、あれです)


それで実際に書いてある内容も当然しっかりしているわけだからこの手のジャンルの目的であるモチベーションの向上が達成されるわけである。


どんなベストセラーでも知らない著者の自己啓発本のイメージってやつはメソッドが具体的で且つ長い、要するに自分にとってはとても退屈なものでそんなもの読むくらいならYoutubeでニュースでも流してた方がよっぽど有意義だったりする。


具体的な内容をもう一度簡潔に説明すると、お金を生み出す、もしくは稼ぐ上での僕達の得意とすることや才能のその見つけ方を偉人の言葉やストーリー、そして著者の経験と視点から分かりやすくまとめている一冊である。


あなた自身のその素晴らしい、そしてまだ完全には発掘し切っていない才能を有効的に人生に昇華させる一つのヒントとしてはおすすめな良書。


ばいばい