発句は季ことばが必須だからというて、描写や写生に拘泥することもない。

 

先ず自ずから思うた事、感じた事を素直に吐くべき。

 

稚拙に見えても気持ちの入ったいい一句。

 

俳諧寺小林一茶を見よ。

 

 

   酒 吞 め ば 己 が 影 ま で 月 の 友          凡 人

 

   朽 ち な が ら 骨 見 る 梅 の 莟 か な        同

 

   な つ か し き 音 や と た ん を 玉 霰        同

・・・・・この作品(※正岡子規の書いた小説『月の都』のこと)は、露伴の文体と同時に能の文体の影響を多く受けている。その文章は不必要な暗示や型通りの美しい影像に溢れていて、あまりにも器用過ぎるという印象を読者に与えがちである。しかし子規は、露伴の作品にも比すべき傑作を書いたと思っていたようであった。子規は、露伴に原稿を見せることにした。この大作家の称賛と推薦によって、小説家として世に出ることを子規は期待したのであった。露伴は子規と同い年で、似たような士族階級の背景を持っていたが、子規は露伴のことを崇敬すべき先輩と考えていた。すでに露伴は成功作を二つ書いていて、このことが二人を分け隔てていた。しかし子規は、なんとしても露伴に自分の作品を認めてもらいたかった。

 子規は露伴のところに原稿を持参し、『風流佛』から多くを「盗んだ」ことで、作者の許可を得なければならないと思ったと述べた。そして露伴に、作品を読んで批評して欲しいと頼んだ。露伴は客がいると言って、その場で原稿を読まなかった。二日後、使いの者に原稿に一書を添えて返却させた。露伴はほとんど批判的な言葉を書いていないが、それが子規が期待していた称賛の言葉ではないことは明らかだった。子規は、打ち砕かれた。子規は二度とふたたび『風流佛』のような文体で小説を書こうとしなかった。同年五月四日、子規は高浜虚子に書いている。「僕ハ小説家トナルヲ欲セズ詩人トナランコトヲ欲ス」。・・・・・

 

                   (ドナルド・キーン著 『正岡子規』より)

 

                   ※

 

明治二十五年の出来事で、このとき子規は二十代半ばでありました。それまでも発句や連俳にも親炙していたようですが、この露伴との一件があって、以降「写生句」を推進して、また旧派の俳諧を「月並」というて痛罵し、また芭蕉を低く見て「蕪村」を称揚したようです。さらに和歌に於ては大歌人紀貫之を下らぬ歌詠みと極め付けたのは伝える通りです。

 

小説がダメなら、次の挑戦は短詩の方面で・・・・・、という何かあまり感心のできないような印象も与えますね。

 

子規はよく「野心」という言葉を吐いていたとも聞こえます。

 

   正 月 も 十 日 過 ぐ れ ば 冬 一 日        凡 人

 

   茶 を 啜 る 僧 う る は し や 朝 涼 し         仝

 

 

 子規は「俳句問答」の中で月並俳句の特徴を次のように挙げている。

①感情に訴えずに知識に訴えようとするもの ②陳腐を好み、新奇を嫌うもの ③言語の懈弛(たるみ)を好み、緊密さを嫌う傾向 ④(俳句界の)系統、流派に光栄ありと自信するものー

 俳句を作る態度や姿勢、さらに俳人としてのあり方にも触れている。純粋に俳句の出来、不出来だけを語ったものではないことは明らかである。

 子規の死後、子規派の雑誌「ホトトギス」の紙上では内藤鳴雪、高浜虚子、吉野左衛門らによって「月並研究」が行われていた。それらによると、月並調の俳句には次のような特徴があるという。

 ①駄じゃれ ②穿ち ③謎 ④理知的 ⑤教訓的 ⑥厭味 ⑦小悧巧 ⑧風流

 ぶる ⑨小主観 ⑩擬人法等 (明治書院「俳諧大辞典」による)

 

                (『子規は何を葬ったか』 今泉恂之介著より)

 

                    ※

 

慥かに蕉門もたとえば、当年他流にみる、

 

   花 ち り て 二 日 を ら れ ぬ 野 山 哉

 

という句などを尤も嫌う処だと、『去来抄』に云われております。風流もそんな大袈裟なものでもないよ、と云いたいのでしょう。

 

そういう嫌厭はあることはありますが、子規一門の挙げた月並句の特徴、これらを全否定すれば、のちに果して何が残存するのか?という疑問も生じますね。

 

かく特質を持てるより「俳諧の発句」として成立するのではないか?つまり面白くなるのではないでしょうかねぇ。

 

 

   枯 草 に 劣 る 車 や 今 朝 の 雪          凡 人

 

   花 札 に 桜 は 只 の 木 陰 哉               同

 

   

   「猿蓑者芭蕉翁『滑稽』之首響也」

 

とは、俳諧の古今集と名高き『猿蓑』の跋にみる門人丈艸のことばであります。

 

「滑稽」というても、漫才やコントの笑いとは相違して、天然・人事の自ずから滲み出るような可笑しみです。

 

いっそうの事、近現代俳句と称するものは、芭蕉の文学とは全然関係がない、と云うてはどうか?

 

もはや芭蕉を語るのもよしたほうがいい。

 

  話 し 込 む 無 沙 汰 な る ら ん 年 の 市       凡 人

 

  雪 見 す る 北 國 そ だ ち を か し け れ                   仝

 

  發 句 に も 推 し つ 敲 き つ 年 忘 れ         仝

 

  と り つ か ぬ 草 刈 り 山 羊 や 日 の 暑 さ        仝

 

 

・・・・・評論家は議論の立てようを誇っているようなもので、理論のための理論という弊害があるのでしょうね。『去来抄』位の程度ー芭蕉、去来等の『猿蓑』の句に対する意見が書いてあるが、あの程度のものが先ずいいような感じのする。・・・・・

 

                          (『俳 談』 高浜虚子著)

 

※ 子規一門は先ず『去来抄』に書いてあるとおりに句作しておりません。よく読み込んでもいない。何故このような事を云われるのか?

 

芭蕉らはあまりにも高い完成境に到ったために、以後どうしてもそれ以上の俳諧の出ることが出来ないばかりです。

 

故にまずは『去来抄』の書かれたとおりに実践する外ない。それほど完全なものです。

 

      う た が ふ な 雪 國 と て も 梅 の 花       凡 人

  春 雪 の し ば ら く 降 る や 海 の 上       普 羅

 

(略)「春雪」の句もそうです。春の雪がしばらく海の上に降って居た、というので、作者が春の雪に同情して、事実そのものに興味を持って作った句です。これらの句は芭蕉や蕪村の句に比べると、句を作るときの態度が違うのです。これが大変な相違になって、明治大正の俳句の一特色を形作りつつあるのではないかと考えます。

こういう風の句は芭蕉や蕪村の句に比べて、果たして立派なものであるかということになりますと、俄かに断言することはできません。併しながら芭蕉や蕪村が句を作る時には、今日の如く事実の側に重きを置いて作るということは、殆ど想像もつかぬことだったろうと思う。極端に云えば、桃の葉が机の上に一片落ちている、ということでも今日は俳句になる。こういうことは芭蕉や蕪村は全然予期しなかったかも知れないのです。して見れば今日の写生句というものが出来て、元禄、天明以外に一開拓を試みたということは、何等かの価値が存在することは慥かです。価値問題は姑く措き、芭蕉の如き俳句、蕪村の如き俳句、而して今日の如き俳句、というものを並べ見て、それが違った種類のものであることは、明らかに云えると思います。(略)

そういう句(※芭蕉や蕪村の句)があると同時に、一方に純写生句(※今日の句)があるということを力強く思うのです。我等は古人の見出さなかったかかる境地を見出して、その方に邁進しつつあるのは力強いことだと考えるのであります。・・・・・

 

                      (『芭 蕉』高浜虚子 中公文庫)

 

                    ※

 

「春の雪」は消えやすいもので、牡丹雪が海の上にまで落て一層はかなく思うという心でしょうか?それともただありのままの天然を叙したのみなのか?

 

前者の意なら、「春の雪なほあはれなる海の上」と私ならばこう詠みますね。

 

しかしまあ、一読して私が感じるのは、昔の句よりも自分たちの句の方が劣っていると暗に云われたのち、けれども「純写生句」という新しい表現法の開拓を誇りとしてよいのだと云われるのでしょう。

 

「事実や実体験のみをそのまま作為なしに描写する」。この考は大正昭和を経て今でも根強いが、果たしてこれで詩という文芸に至当だろうか?ということです。

 

これなら誰でも簡単に参入できて、自家の勢力は大いに拡張できるでしょう。もはや参加者の詩的素質が在るか否かは随分希薄です。まさしく「大衆化」の一言に尽きます。

 

これはもう終わりにして欲しい、というのが私の率直な意見です。

 

 

   白 つ ゝ じ 思 ひ も か け ず 雪 の 暮        凡 人

 

 

 

 

 

 

 

 

俳諧之連歌の「発句集」というものはありますが、連歌の「発句集」というものはありません。俳諧の発句、現に「俳句」と呼称しておりますが、連歌の発句も十七文字定型と四時を顕す季詞を含んでおります。まあ、こちらのほうが濫觴ですが。

 

見られないのはどうしてかというと、それだけを鑑賞しても全く詰らないからです。それで長短の附句をしながら五十韻も百韻も連ねていく、あるいは三十一文字を用いた和歌を単独で詠んだほうがいいという事になります。連歌というのは上の句と下の句各々別の人が出しているというだけで、その詩情というのは和歌と同一です。もちろん漢語や俗語も用いられない。

 

俳諧は漢語俗語を使用することを厭わないと同時に、俳意確かに作しなければならない、所謂「俳味」という特異な詩心でありまして、これを有するが故に、附句を必須としない発句単独でも十分鑑賞に堪え得るという道理だと思います。ざっくばらんに申しますと面白可笑しい。加えて私は単に漢語俗語を使っただけでは俳諧とは云えぬものと思います。

 

詞を自由に斡旋しながら「俳味」という詩魂に乏しい、ただ器用というばかりの、生真面目且つは気障なる句々の山、これが「現代俳句」という詰らない文芸です。

 

      隣有り

   夕 立 の 降 り て 又 止 む 鼾(いびき)哉       凡 人

 

 

 

 

ある人曰く、俳諧の正味は俳諧連歌に在り。発句は則ちその一小部分のみ。故に芭蕉を論ずるは発句に於てせずして、連俳に於てせざるべからず。芭蕉もまた、自らの発句を以て誇らず、連俳を以て誇りにし非ずやと。

 

答へて曰く、発句は文学なり、連俳は文学に非ず、故に論ぜざるのみ。連俳もとより文学の分子を有せざるに非ざるといへども、文学以外の分子をも併有するなり。而してその文学の分子のみを論ぜんには、発句を以て足れりとなす。

 

ある人また曰く、文学以外の分子とは何ぞや。

 

答へて曰く、連俳に貴ぶ所は「変化」なり。「変化」は則ち文学以外の分子なり。けだしこの変化なる者は、終始一貫せざる秩序と統一との間に変化する者に非ずして、全く前後相串聯せざる、急遽條忽の変化なればなり。例へば「歌仙行は三十六首の俳諧歌を並べたると異ならずして、ただ両首の間に同一の上半句もしくは下半句を有するのみ。

 

ある人また曰く、意義一貫せざる三十六首の俳諧歌を並べたるにせよ、その変化は即ち造化の変化と同じく、茫然漠然たる間に、多少の趣味を有するに非ずやと。

 

答へて曰く、然り。然れども此如き変化は、普通の和歌または俳句を三十六首列記せると同じ。特に連俳の上に限れるに非ず。即ち上半または下半を共有するは連俳の特質にして、感情よりも智識に属する者多し。芭蕉は発句よりも連俳に長じたる事真実なりといへども、これ偶芭蕉に智識多き事を証するのみ。その門人中、発句は芭蕉に勝れて連俳は遠く之に及ばざる者多きも、即ちその文学的感情に於て芭蕉より発達したるも、智識的変化に於て芭蕉に劣りたるが為なり。

 

                       (正岡子規著 『芭蕉雑談』より)

 

※ たいへん有名な子規の「連句否定論」の処です。

 

連句は隣合う句同士が一場面を形成するのみで、其他の句々とは意味上に於て関連性がまったく無くて、結局終始一貫した筋というものが無い。三十六首は絶えず「変化」して已まない、これが「連句」の特質で、小説などとは大いに異なる。この「変化」を貴ぶのみ。

 

殊に「連句」として長短三十六首を連ねるのも、発句の部分のみ三十六首を並べるのも趣味に於て大差なく、態々「連句」に仕立てる必然も無い。発句だけで十分足れり。また連句は前後の句と付かなければならないという拘束がある故に、その技術は個人の素直な感情よりも、上手く附けるという機智を多く必要とする。

 

また乱暴な考えというのが、わたくしの真率な感想です。

 

「変化」を主とする事、または智識に頼るということが非文学的、と云うのはどのような意か?

 

ただこれだけは申して置きましょう。子規の奨励した印象鮮明の、複雑且つ繊細な客観的描写を志向した作を以てすれば、「連句」というものはたいへん詰まらないものになるでしょう。

 

子規の望んだ句作法は連句では使えない、面白くなくなってしまう。子規その人はこのことに気が付いていたと思います。

 

子規の唱道した俳句の表現は、古人ならば不堪とみるでしょう。蕪村系統の俳諧の傍流です。

 

     一 二 本 竿 竹 足 せ る 藤 の 花         凡 人

 

 

『蕪村集中講義』とか『几董句集』とか『太祇句集』とかいうのは明治三十二、三年の頃出しました。

『几董句集』とか『太祇句集』とかいうのは、もと木版本がありました。それを分類翻刻したのです。

写生ということも天明の俳句に教わったところがありますよ。

天明時代のいい句を読むのはいいですね。

「霧の中大きな町に出でにけり」これなんか今の俳句みたいだね。また[三浦]樗良の句なんか平凡なようで趣の深い句がある。

 

            (高浜虚子著 岩波文庫『俳 談』 天明時代の句より)

 

※ ご存知の方も少なくないかと思われますが、高浜虚子は子規の最有力の門人で、大正昭和を代表する俳人です。「大虚子」と呼ばれたほど、先ず近現代俳句の第一人者であります。

 

蕪村の天明期俳諧は近代俳句の原点とも云われておりますが、「霧の中」の一句など、私に云わせれば酷い平凡句にしか過ぎません。

 

なぜこの類いの作が佳句で趣が深いのか?私にはその滋味が知られませぬ。

 

何か背景に大きな考があるのでしょうか。「平淡の極み」であるとか・・・・・。