和歌の歴史書などをみると、鎌倉時代初期に成立した『新古今和歌集』の後は、前代の模倣にとどまって、新味もなく、迫力の欠乏したものになった。

 

終に、室町時代の中頃には新興の連歌、そして俳諧にその地位を譲ってしまった、などとあります。つまり和歌は衰退をしてしまったのだと。

 

こういうのは今の人の見方ですね。後代のものほど新しいと考えてしまう。

 

実際は歌詠みの人口は減っても、相変わらず「和歌」というものは日本の詩歌の中核であって、よく詠まれ尊ばれていたのだと思います。

 

連歌も俳諧も、その基は「和歌」です。

君がため 手力つかれ 織りたる衣ぞ 

            いかなる色に 摺りてばよけむ   (万葉集・巻七)

 

信濃路は 今の墾道 刈株に 

            足踏ましなむ 沓(くつ)はけわが夫 (同・巻十四)

 

稲つけば かかるあが手を 今宵もか

            殿の吾子が 取りて嘆かむ        (同・巻十四)

 

 

※ これらは庶民の素朴な「恋の歌」の類いでしょう。何やら現代の歌謡曲の詞にもありそうですね。

三首目などは『あゝ野麦峠』という映画によく似たシーンがみられました。

 石麻呂に われもの申す 夏痩に 

            よしといふものぞ 鰻(うなぎ)取り食(め)せ

 

 痩す痩すも 生けらばあらむを はたやはた

               鰻を取ると 川に流るな

 

※ この二首も大伴家持の歌です。

 

夏痩せには鰻を食うのが良いぞ、と忠告をして、次は益々痩せても命あるだけマシだ、痩せ細った体で鰻を取ろうとして、うっかり川に流されるなよ、などとからかい、それまでの万葉集的重々しさや深刻さがみられません。

 

即興的に軽くて、ユーモアというものがあります。

 

家持は万葉集の最有力撰者でありますが、万葉集の晩期は家持の歌ばかりが独占をしております。

 

このため後期は「家持私集」などと揶揄されておりますが、既に家持の頃はそれまでの万葉集的世界にすっかり飽き飽きもしていたほどでしょうね。

 

 

春の野に 霞たなびき うら悲し 

            この夕かげに うぐひす鳴くも

 

わが宿の いささ群竹 吹く風の 

            音のかそけき この夕かも

 

うらうらに 照れる春日に ひばりあがり 

            心悲しも ひとりし思へば

 

※ この三首は、『万葉集』の最晩期の大伴家持が作者であります。

 

もはやこの時期になると、それまでこの和歌集の顕著な特質である素朴・雄大・直線的・明朗・男性的といった傾向はあまり見られません。

 

国家の、時代の雰囲気が変わりつつあったのでしょう。

 

歌より孤独な境地のうちに、女性的・繊細さなどが看取できて、こういう感性は特殊な人しか持ち合わせていないものであろう。

 

上流階級から庶民に至るまで、大いに泣いて、またときには笑って、全国民的に詠まれてきたこれまでの歌とは大きな差異が存します。

 

和歌作りの「文人」化です。

 

この流れは貴族的特権である『古今集』へ繋がって行くものです。

 

 

「猿を聞く人捨て子に秋の風いかに」という芭蕉の破調の一句があります。

 

伝統的な唐詩の天地においては、冬枯れの時候、猿のなく声が悲痛を極めているところに哀切を覚えるという想がよく使用されます。

 

芭蕉の云いたいことは、「猿のなく声などよりも、折節秋の風の吹く中、捨て子の泣き声はどう聞く?こちらのほうがもっと悲しいぞ。」と、伝統的詩人に問いかけているのです。

 

こういうのが芭蕉の云う「新しみ」ということです。

 

今人のような「へんてこ」な「新味」ではありませぬ。

 一 二 本 白 髪 抜 い て も 暮 の 秋    凡 人

 

※ これまでに得た自作句も、直したり、破り捨てたりをしなければと考えつつ、ついほったらかしになっていることをいつも悔いております。

或る学生の登山パーティが、山中でテントを拵えて居ると、突然、熊が襲来したそうで、リュックを奪った。学生らは勇敢にもリュックを取り戻したらしい。

 

すると、熊は次の日も、又次の日も、その又次の日も、やって来たようで、ために幾人かが帰らぬ人になったそうである。

 

これを聞いたとき、何故このようにしつこいのだろうと訝ると、当初リュックを奪った瞬間、既に自身の所有物と見做してしまうそうである。

 

それを取り返したとき、自らの所有物を奪われた、と激怒してしまう心理になるそうです。

 

熊は猟銃で射られたそうです。

 

 

 

 

     30 谷 川 岳(一九六三米)

 

 これほど有名になった山もあるまい。しかもそれが「魔の山」という刻印によってである。いま手許に正確な調査はないが、今日までに谷川岳で遭難死亡した人は二百数十人に及ぶという。そしてなおそのあとを絶たない。この不幸な数字は世界のどの山にも類がない。私の年少のある山好きの友人は、母から登山の許しは受けたが、谷川岳は除外、という条件づきだったそうである。

 

 それほど怖れられているにも拘らず、山開きの日は数百人がおしかけて、行列登山をしているさまが新聞の写真で報じられる。東京から近く、二千米に近い高度を持ち、しかも標高のわりに岩根こごしい高山的風貌をそなえているからであろうが、やはり人気の大きな理由は、谷川岳という評判にあるのだろう。これほどしばしば人の耳を打つ山の名は少ない。絶えず何かの事件を犯している。

 

 こんな谷川岳が有名になったのも昭和六年〈一九三一年〉上越線が開通して以来のことである。それまでは一部の山好きの人の間にしかこの山は知られていなかった。大正九年〈一九二〇年〉七月、日本山岳会の藤島敏男と森喬の二氏が土樽から登られた時はひどいヤブ山で、その茂みの中に辛うじて通じている切明を辿って頂上に立ったという。

 

 もちろんそれ以前にも土地の人は登っていたので、藤島さんたちがオキノ耳の上に着いた時、岩陰に小祠があり、中に青銅の古鏡が三面祀ってあった。祠には富士権現(富士浅間大明神)を勧請してあったので、この峰は谷川冨士と呼ばれていた。

 

 〈中略〉

 

 土合から清水峠に向って、谷川連峰の腹を縫って断続した道が見える。これが清水越えの旧道で、明治十八年〈一八八五年〉四か年の歳月と当時の三十五万円の巨費をかけて、平均三間幅の道路が完成されたのだが、僅か二年使用しただけで、雪害のため廃道になってしまった。現在はその下に、湯桧曾川に沿って小径がついている。

 

 この小径を私は数回通ったが、これほどすばらしい景観に恵まれた道も数少なかろう。マチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢等、凄い岩壁をつきあたりに持った沢を、一つ一つのぞいて行くのである。こんな手近に、こんなみごとな岩壁がある以上、岩登りの好きな連中がここに集まるのも無理はない。そして谷川岳の遭難の大半はこの岩壁であった。・・・・

 

          (深田久弥著 『日本百名山』新潮文庫 昭和五十三年初版)

 

※ 遭難で帰らぬ人となった登山者は八百人を超えて、世界一危険な山として「ギネス」にも載っているらしい。ただ初心でも安全なルートもあるそうです。

  近代明治以来、日本ほど登山人口の多い国も希薄であるようです。何故このようなブームが発生したのでしょうか?
 

 

 

・・・彼(※松永貞徳。芭蕉の登場より五十年前の俳諧師、歌人。)の信念によると、和歌の価値とは、これまで先人に詠まれたところのない新しい感覚を詠んだりすることにあるのではなかった。

 

むしろ二条流の歌道において「歌病」とされているおびただしいタブーを犯さず、伝統に忠実であることのほうが重要であった。

 

彼自身、無数のタブーに縛られながら作歌することを、いささかの苦痛とも考えていなかった。・・・

 

            (ドナルド・キーン著 『日本文学史 近世篇一』より)

 

※ 簡単に申しますが、貞徳のような考も決して悪くない。典型的な古典主義者で、こういう人を「名人」ともいうであろう。事実、当時は半世紀にわたって、日本文学を代表する人物の一人であった。

「古人の跡をもとめず古人のもとめたるところをもとめよ」とは、許六離別詞にみゆる芭蕉の言葉で、専門家の間では殊に有名です。

 

「新しみは俳諧の花」というても、芭蕉の表現こそは当時斬新であったろうが、彼の精神には新しいものは何もなく、むしろ古い思想に属するというた人もおります。

 

一六八〇年ころ(三六歳頃)より、芭蕉は突然世俗での成功を捨てて、清貧の境に甘んじることにした。

 

これは伝統詩人たる大切な要素の一つです。また中世の思想を重んじ初めました。

 

「枯れ枝に烏のとまりけり秋の暮 芭 蕉」という寂しい一句は、その宣言だと思われます。