30 谷 川 岳(一九六三米)
これほど有名になった山もあるまい。しかもそれが「魔の山」という刻印によってである。いま手許に正確な調査はないが、今日までに谷川岳で遭難死亡した人は二百数十人に及ぶという。そしてなおそのあとを絶たない。この不幸な数字は世界のどの山にも類がない。私の年少のある山好きの友人は、母から登山の許しは受けたが、谷川岳は除外、という条件づきだったそうである。
それほど怖れられているにも拘らず、山開きの日は数百人がおしかけて、行列登山をしているさまが新聞の写真で報じられる。東京から近く、二千米に近い高度を持ち、しかも標高のわりに岩根こごしい高山的風貌をそなえているからであろうが、やはり人気の大きな理由は、谷川岳という評判にあるのだろう。これほどしばしば人の耳を打つ山の名は少ない。絶えず何かの事件を犯している。
こんな谷川岳が有名になったのも昭和六年〈一九三一年〉上越線が開通して以来のことである。それまでは一部の山好きの人の間にしかこの山は知られていなかった。大正九年〈一九二〇年〉七月、日本山岳会の藤島敏男と森喬の二氏が土樽から登られた時はひどいヤブ山で、その茂みの中に辛うじて通じている切明を辿って頂上に立ったという。
もちろんそれ以前にも土地の人は登っていたので、藤島さんたちがオキノ耳の上に着いた時、岩陰に小祠があり、中に青銅の古鏡が三面祀ってあった。祠には富士権現(富士浅間大明神)を勧請してあったので、この峰は谷川冨士と呼ばれていた。
〈中略〉
土合から清水峠に向って、谷川連峰の腹を縫って断続した道が見える。これが清水越えの旧道で、明治十八年〈一八八五年〉四か年の歳月と当時の三十五万円の巨費をかけて、平均三間幅の道路が完成されたのだが、僅か二年使用しただけで、雪害のため廃道になってしまった。現在はその下に、湯桧曾川に沿って小径がついている。
この小径を私は数回通ったが、これほどすばらしい景観に恵まれた道も数少なかろう。マチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢等、凄い岩壁をつきあたりに持った沢を、一つ一つのぞいて行くのである。こんな手近に、こんなみごとな岩壁がある以上、岩登りの好きな連中がここに集まるのも無理はない。そして谷川岳の遭難の大半はこの岩壁であった。・・・・
(深田久弥著 『日本百名山』新潮文庫 昭和五十三年初版)
※ 遭難で帰らぬ人となった登山者は八百人を超えて、世界一危険な山として「ギネス」にも載っているらしい。ただ初心でも安全なルートもあるそうです。
近代明治以来、日本ほど登山人口の多い国も希薄であるようです。何故このようなブームが発生したのでしょうか?