黒 み て た か き 樫 の 木 の 森          素 牛

  月 花 に 小 さ き 門 を 出 ツ 入 ツ          芭 蕉

 

『去来抄』に、素牛の前句に連衆がつけあぐんでると、芭蕉がこのように付けて感心をした、とあります。

 

付句は、月・花の句を必ず出さなければならないところで、

 

森のたくさんの背の高い樫の木のため、それは大屋敷の中か、寺院か、神宮か知らないが、月や花を観賞するのを遮ってしまうので、人は態々裏の小門を幾度も出て眺めている、と芭蕉が付けたものです。

 

皆、これには感嘆をしたというのですね。前句をよく引き継いでいる。

 

おそらく今の連句作者というものは、『森』ということばのみを捉えて、例えば何とかという動物が啼いていて、天には望月が出ている、などと付けるのでしょう。この程度ならば、実に連句は簡単です。面白くもない。

 

つまり、いかに前句全体をよく受けるかでしょう。

 

 

土芳の『三冊子』にみる芭蕉のことばに、

 

 学ぶことは常にあり。席に臨んで文台と我と間に髪を入れず、思ふこと速や

 かに言ひ出でて、ここに至りて迷ふ念なし。文台引き下ろせばすなはち反古

 なり。

 

お仕舞いの『文台引き下ろせばすなわち反古なり』とは、連句一巻を終えれば、それは紙屑同前になる、という意ですが、芭蕉の本意は何でしょうか?

 

「上手く巻けても、それに大いに満足をして、いつまでも愛着を持ってはいけない。常に新しみを求めて前進せよ」と、私は看取しております。

 

たしか蕉翁のことばに、「昨日の自分に飽く」というのがあったはずです。

 

芭蕉研究家の皆さん、こういう意ですよ。

 

 

・・・・・連句は子規のいうとおり機知の文学である。文学を「感情」の表現とする子規は、作者個人のうちに発する感情を純粋に表現できるのは前句を顧慮しないですむ発句だけだとして、近代化の対象をここにしぼったのである。しかし、知的に洗練された〈ことば〉のセンスを容認しない文学観というのは、あまりに素朴すぎた。すべての芸術が本来的にもつ〈あそび〉の要素を締め出したところに、近代文学の不幸が始まったといえないこともない。・・・・・

 

                    (『連句への招待』 乾裕幸・白石悌三)

 

 

※ 時代というものでしょうか?

 

今の私から見れば、子規の考はちょっと理解できない。

 

「俳諧」を生真面目な文学にしたかったのであろうか?

「写生文」という、今は聞かない名称は、明治期に子規らが唱えた文章表現でして、ここで幾度も申しましたような俳句の表現に写生という技法を用いたのと同じく、それを応用して散文にも及ぼそうとしたのです。

 

主観を排して、客観的事実のみを忠実に叙する。丸で事件の記事のような感じを覚えますが、ごく近世まではこのような考は無かった。散文でも自己の主観を重んじて、余韻余情のあるよう、曖昧に筆を滑らせてゆく。でありますから、解釈も容易に定まらない作物も少なくありません。

 

ただ詩歌などに明瞭な表現を求めるというのも珍奇なものであるとも思われます。

 

子規は新聞社にも勤めていたようですから、子規は気質的に、文学者というよりも、今でいう「ジャーナリスト」というほうがビタリと来る。日清戦争のときは、従軍記者として大陸にも渡ったそうです。

 

まあ、しかし、文学は作者の「主観」こそが面白い。読者はこれを味わおうとするもので、この「写生文」という呼称は文学として定着しませんでしたが。

 

虚子が自ら「写生文」とみた、自著『柿二つ』の冒頭部分を挙げておきます。子規の日常の苦闘振りを知る上でも良いものでしょう。

 

 

 「斯うやっていると小さい一本の筆が重くなる。筆が重くなるというよりも腕が重くなるのである。痩せた自分の腕が重くなるのである。そういう時には投げるように畳の上に其筆を持った右の手を落す。と同時に又草稿を持った左の手をも蒲団の上に落す。

 草稿というのは新聞の文苑に出す俳句の投書である。少し怠っていると、来るに従って投げ込んで置く一つの投書函が忽ち一杯になる。其が一杯になると、恰も桶にたまった一杯の水が添水を動かすように、此病主人を動かして其選抜に取りかからしめるのである。・・・・・」

 

                        (高浜虚子著 『柿二つ』より)

 

 

「野心!」

彼は二言目には斯う言った。名誉心といっても済む事を彼は特に世間で賤しみ用いる「野心」という言葉を好んで使用した。

 

                      (高浜虚子著 『柿二つ』三十五頁)

 

「まあ其位に出来りゃええさ。どうせ俗受を主とする性質のものだから文学的に価値のある句は出来るわけがないさ。諸君は文学的俳句は上手だけれども、そういう俗受けの句になると私には及ばんようだ。例の、君が代も二百十日は荒れにけり。の類さ、おや! あれをお前お知りんのか。日清戦争前に伊藤内閣の為め続け様に発行停止を食って一箇月目に漸く解停された時、二百十日という題で古人の句などを引用した俳文を書いて、其結末に君が代も二百十日は荒れにけり、という句をくっつけて置いたのさ。ところが其が大受で、我等仲間の俳句が俗世間に認められたのは其からだと言ってもええのさ。詰りお前等にはそういう俗方面に対する手腕が欠けて居る。それは一つは政治や社会の事情に疎いのにも由るのさ。いくら文学者でも社会的に活動しようとするには、どうしてもそういう一面を有していなけれや駄目じゃ。」

 彼はそういう方面にも自信を持っていた。彼の野心は独り文壇に創作や評論を提供するというに止まらず、広く之を社会的の一大勢力とするに在った。・・・・・

 

                          (  同  五十一頁 )

 

「余は俗世間に向って求めたところが自己の情慾を満たす事が出来ないから矢張天然界に向って求めようとする。こちらから情を以て向うと今迄は無心のようであった天然界が俄に活動しはじめて、総ての物が情を以て周囲から余に話しかける。即ち総てのものに霊があって、それが皆自分一人に向って来る。即ち余が中心に立って居て周囲を支配しているように思う。」

 彼は自分が中心に立つ事でなければ何事に対しても興味を見出すことが出来なかった。彼はナポレオンでも豊太閤でも耶蘇でも日蓮でも皆彼のような人間であったろうと考えたことがあった。周囲を支配するという事の為めには如何なる苦痛でも耐え忍ぶだけの力を持っていた。が、彼の身心が疲労して来るに従って流石に人間を小煩さいと感ずることが多くなって来た。彼は動もすると、極めて柔順で少しも彼の意に逆らわぬ天然界の王者となることを喜んだ。・・・・・

 

                         (  同  百五十五頁 )

 

                   ※

 

虚子の『柿二つ』は、私小説(写生文)です。

 

子規は、二十代の頃、結核性脊髄炎と診断され、殆ど寝たきりにあって、三十五で亡くなりました。

 

彼は東大出身(正確には中退)にあって、明治期の典型的な若者らしく、自らの立身出世を渇望しましたが、この重病そのものがそれを著しく妨害したのです。

 

察するに、惨めでもあったろう、悔しくもあったろう、健康な者が羨ましくもあったろう。

 

彼は俳諧の近代化を唱道して、欧米詩に恥じない「俳句」という名称にした。その一方で、自ら文学界の覇者となることを強く願望したのであります。

 

その一つの目標として、突として当年の月並宗匠に言い掛かりをし、松尾芭蕉らを罵倒したのです。

 

 

 

 

   菜 の 花 や 月 は 東 に 日 は 西 に         (※蕪 村)

 

 これも明るい近代的の俳句であり、万葉集あたりの歌を聯想される。万葉の歌に「東野に陽炎の立つ見えて顧みすれば月傾きぬ」というのがある。

 

                (萩原朔太郎著 『郷愁の詩人 与謝蕪村』より)

 

                    ※

 

文中『東野に』の万葉歌は、人麻呂の一首です。蕪村といえば、先ずこの一句を想起することでしょう。異国的の明るい感じでありまして、「わび・さび」色の芭蕉などは作らないでしょう。同じ閑寂趣味という事は取れますが・・・・・。

 

しかし、先ず百年ほど前の蕉風とは異質の句作をしながら、「芭蕉に還れ」とか、「自らの遺骨は芭蕉塚の隣に埋めてほしい」とかいうた蕪村という人は実に不可解です。

 

正に「芭蕉に還ろう」としたのは、正岡子規ら根岸派が「月並」と貶した、天保の三大家たる梅室、鳳朗、蒼虬たちです。

 

 

  亀 の 甲 烹(に)ら る ゝ 時 は 声 も せ ず     乙 州

 

此の句、露伴などは、「意が分らん。自分は零点だ。しかし芭蕉は買っている。何の出典やら。」(『露伴の俳話』)と、云われておりましたが、亀は泥亀、「すっぽん」のことでしょう。もはや観念して、鍋の中で頭や足などを引っ込めている。その姿が可笑しいのでしょう。つまりは「滑稽」です。

 

露伴には鋭い指摘もあって、私などは憧れの一人物でありますが、やはり近代人なのでしょう。

 

  松 茸 や 知 ら ぬ 木  の 葉  の へ ば り 付 く  芭 蕉

 

採ったばかりの松茸に鼻先をくっ付けて離さないように、何の木の葉か、又へばり付いている、という滑稽でしょう。

 

俳諧は「滑稽」、近現代に確立した芭蕉像は、著しく歪んでおります。

                 女 倶 し て 内 裏 拝 ま む 朧 月         (蕪  村)

 

 春宵の悩ましく、艶かしい朧月夜の情感が、主観の心象においてよく表現されている。「春宵怨」とも言うべき、こうしたエロチカㇽ・センチメントを歌うことで、芭蕉は全く無為であり、末流俳句は卑俗な厭味に低落している。独り蕪村がこの点で独歩であり、多くの秀でた句を書いているのは、彼の気質が若々しく、枯淡や洒脱を本領とする一般俳人の中にあって、範疇を逸する青春性を持っていたのと、かつ卑俗に堕さない精神のロマネスクとを品性に支持していたためである。・・・・・

 

                (萩原朔太郎著 『郷愁の詩人 与謝蕪村』より)

 

                     ※

 

芭蕉をはじめとする江戸初期の俳諧で、先ずこのような情感の発句は見付けられません。

 

或る種の古典に見られるような、艶めかしい物語りの一場面のようであります。上手いけれども、逃避や遊びの要素が強くて、否、多少の軽浮ささえ覚えます。

 

蕪村は蕉風の「わび・さび」を継承しなかった。芭蕉らのように、人間生活における悲哀と滑稽とを兼ね備えた句に届いていない。

 

江戸期において、蕪村らの評価は低かったようです。急騰したのは明治に這入ってのことです。

 

 

・・・・・蕪村を誤った罪は、思うに彼の最初の発見者である子規、及びその門下生なる根岸派一派の俳人にある。子規一派の俳人たちは、詩からすべての主観とヴィジョンを排斥し、自然をその「あるがままの印象」で、単に平面的にスケッチすることを能事とする。いわゆる「写生主義」を唱えたのである。(この写生主義が、後年日本特殊の自然主義文学の先駆をした。今日でもなお、アララギ派の歌人がこの美学を伝承しているのは、人の知る通りである。) こうした文学論が如何に浅薄皮相であり、特に詩に関して邪説であるかは、ここで論ずべき限りではないが、とにかくにも子規一派は、この文学的イデオロギーによって蕪村を批判し、かつそれによって鑑賞したため、自然蕪村の本質が、彼らのいわゆる写生主義の規範的俳人と目されたのである。・・・・・

 

                (萩原朔太郎著 『郷愁の詩人 与謝蕪村』より)

 

                   ※

 

子規一派は、蕪村のみならず、俳諧そのものを誤って捉えた、というのが私の考察です。主観性の濃い芭蕉や去来の句〃の大半を駄句と極めた。又凡兆を客観主義の御本尊として崇めた。

 

一目、多くは客観的に見えて、言外に作者の明らかな主観や詠嘆が隠れているものです。それを寡言にして読み手に窺知するところを欲する。

 

また、「写生主義」の反動として、西洋への憧憬のような、現代思想を盛り込んだような、主観の横溢した俳句も少なからず顕現しましたが、これらは古句と比較して異質というばかりでなく、句姿も不格好で綺麗でなく、可成劣っているものでしょう。

・・・・・しかし夏の湿気がなく、家屋の構造がちがってる外国人にとって、こうした俳句は全然無意味であり、何のために、どうしてどこに「詩」があるのか、それさえ理解できないであろう。日本の茶道の基本趣味やが、すべて苔やさびやの風情を愛し、湿気によって生ずる特殊な雅趣を、生活の中にまで浸潤させて芸術しているのは、人のよく知る通りであるけれども、一般に日本人の文学や情操で、多少とも湿気の影響を受けてないものは殆どない。(すべての日本的な物は梅雨臭いのである) 特に就中、自然と人生を一元的に見て、季節を詩の主題とする俳句の如き文学では、この影響が著しい。日本の気候の特殊な触感を考えないで、俳句の趣味を理解することは不可能である。かの湿気が全くなく、常に明るく乾燥した空気の中で、石と金属とで出来た家に住んでる西洋人らに、日本の俳句が理解されないのは当然であり、気象学的にも決定された宿命である。

 

                (『郷愁の詩人 与謝蕪村』 萩原朔太郎著より)

 

 

※ わずか十七文字の文学は、日本独特の詩歌であって、西洋詩を模倣しても、連綿とした伝統にそぐわない。

 

また、「滑稽」を主体とする詩というのも、きわめて独歩的です。