発句(俳句)においても、あまり漢語を多用しないほうがよいのではないか。
やはり、もとは和歌や連歌がその源流にある。
和語のほうが、句走りはよくなる。
※
我 の み か 朝 が ほ 咲 い て 帰 る も の 凡 人
高 き 屋 の ふ と こ ろ 軒 や 藤 の 花 同
発句(俳句)においても、あまり漢語を多用しないほうがよいのではないか。
やはり、もとは和歌や連歌がその源流にある。
和語のほうが、句走りはよくなる。
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我 の み か 朝 が ほ 咲 い て 帰 る も の 凡 人
高 き 屋 の ふ と こ ろ 軒 や 藤 の 花 同
和歌の調べというものは「優美」さに、発句の調べとは「侘び」や「寂び」によく付かれるのでは無いだろうか。
発句は若さを嫌う老人趣味でよい。
あ は れ さ や 若 き も 老 い も 秋 の 風 凡 人
菊 鶏 頭 切 り 尽 く し け り 御 命 講 芭 蕉
※
『御命講』は陰暦十月十三日の日蓮忌の法会のことでありまして、芭蕉は門人尚白への書簡で、「五十年来、人の見出でぬ季節、愚老が口にかかり、もし上人真霊あらば我が名を知れ、とぞ笑ひ候」とみえるようですから、『御命講』という初冬の季詞は芭蕉の発掘ということなのでしょう。
さらに『去来抄』には、『竹植う』という季詞も芭蕉が最初らしい。陰暦五月十三日に竹を植えると「つき」がよいという、中国の俗説のようです。
上の一句は、新しい季ことばというのもさることながら、佳い句ですね。単に事実をいうたまでですが。
こういうのが「発句」というものに似合わしい。
俳句とは芭蕉によって縄張りせられ、芭蕉、蕪村、子規によって耕転せられたところの我文芸の一領土であります。
(高浜虚子 『俳句とはどんなものか』)
※ この見方が、今の俳諧史の主流だと思われますが、私には、ごくおおまかに、
〇松尾芭蕉ー天保三大家
〇与謝蕪村ー正岡子規
という二つの系統 だと思うております。
寝 覚 め れ ば は づ き 晴 れ と よ す だ れ ご し 凡 人
応 〃 と い へ ど た ゝ く や 雪 の か ど 去 来
丈草曰、この句不易にして流行のたゞ中を得たり。
支考曰、いかにしてやすき筋よりは入らるゝや。
正秀曰、たゞ先師の聞き給はざるを恨むるのみ。
曲翠曰、句の善悪をいはず。当時作せん人を覚えず。
其角曰、眞の雪の門なり。
許六曰、もつとも好句なり。いまだ十分ならず。
露川曰、五文字、妙なり。
去来曰、人々の評、またおの/\その位より出づ。この句は、先師遷化の冬の句
なり。そのころ同門の人々も難しと思へり。今は自他ともにこの場にと
ゞまらず。
(『去来抄』)
※ 一句、「おうおう、今開けるぞ」と応えているが、客は慌ただしく戸を叩いている、そんな雪の門で、雪降る夜の侘しい風情がある佳句といえるでしょうね。
これらの評のうち、許六のみが、まだ十分な表現とはいえない、というておるようですが、許六という門人は、詳しくてハッキリとした表現を好む人なのでしょうね。今でいう印象明瞭というヤツです。
許六は芭蕉の最晩年に入門したばかりの人のようです。
訛 り 聞 く 人 千 鳥 足 や 来 る 時 雨 凡 人
万葉系の歌人と古今系のそれとは、たとい和歌に知悉していなくとも、一目、一首を見れば、直ぐに峻別できます。
万葉を重んじる歌人は、散文のようで、自らの心情を、そのまま素朴率直に詠んでいるような感じです。ちょっとゴツゴツ、ゴチャゴチャしている。今人のほとんどは、これに属するでしょう。
一方、古今はというと、やはりなだらかな調べで、軽快な感じです。あまり感情を露わにしないものだから、たしかに感動は薄い。ただ品があってきれいです。
読めば、誰でも見分けが付くものです。
福井柴田神社にて。むかし、この地に柴田勝家
が大天守ありける。
い か め し や も の ゝ ふ 惜 し む 雲 の み ね
・・・・・僕らの努力で、現代日本語から採集して歌言葉を豊富にしてゆくことこそ、現代短歌が真に現代短歌たるために必要なのだと思う。が、一方、僕らが普通、それによって表象したりしゃべったりしている日本語が、そのまま歌言葉たりうるとする誤解ほど、歌を枯らすものはないのであって、俗流大衆路線派は、日常語の平明直截性をよろこんでとり入れたがるが、その種の言葉は、意外に無力化するのだ。それは、散文が培い育てた散文語であるからだろうか。
岡井(※岡井 隆 1928-2020年 前衛歌人)は続けて、古風な言葉や構造を使うのは理にかなっていると論じている。これらは表現力を増す手段であり、歌作から簡単に追放はできない。
(ドナルド・キーン 『日本文学史 近代・現代篇 七』)
※ 伝統に刃向かった前衛歌人でさえ、こう言われております。
古語は簡潔で、美しく、調べがよくて、短詩形文学にはよく付くのです。
和歌に、たとえば「新車」だとか、「AI」だとか、「スマホ」だとか、私は願わしくない言葉だと思われます。
どこまでも古臭くてよい。
・・・・・もし、幕末に西欧との接触がなかったなら、和歌の風体はどのような展開をとげていたことだろう。歴史の中に仮定を持ち込むのは、せんないことではあるが、あえて仮定を用いれば、おそらくまた古今復帰の波が起こり、歌を再び伝統の道に引き戻そうとしたのではないかと思われるのである。あるいは、伝統の殻を破るに急なあまり、新時代の歌人たちが和歌から艶麗優雅の最後の衣をはぎとったであろうと想定するほうが、正しいかもしれないが。
(ドナルド‣キーン著 『日本文学史 近世篇三』)
※ その通りでありましょう。
小沢盧庵(※1723-1801年)は歌人として名高き方なれど、やはりわからずやの一人なり。彼のいふ言を聞けば、万葉『日本紀』の歌は、よきもあしきもをかしきもたはぶれもまめなるも一つかねにして、たとへば塵塚の塵の如し、さればその中には金玉もまじれり。貫之之古今独歩の才をもて『古今集』をえらびて、あしきをすてよきをあつめて歌の規範となれり。古今をもて古を照らして、これに似たるをよしとし、似ざるをあしと知りまた後世今までを照し、似、似ざるをもてよしあしを知るべし。
(正 岡子規 『歌 話』)
※ 私は大略盧庵の考で正しいと思う。
盧庵や香川景樹(1768-1843年)は『万葉集』ではなくて、貫之の『古今集』を本としたけれども、歌は優美さを損なわず、極めて駄作が少ない。
維新前の徳川後期は、和歌であれ、俳諧であれ、むかしの良き作を貴ぶ傾きが強い。
明治に入って、ほどなくこのような考は、子規ら近代人によって駆逐されてしまったのである。
歌を作るには新しき言葉を用うべからず、さりとて『古事記』万葉の如き余り古き言葉もよろしからず、趣向は新しきをいふべからず、珍しき物の名などを入るるはよろしからず、と教ふ。これ人に古歌を剽窃せよと教ふるなり。
(正岡子規 『歌 話』より)
※ 私は、古歌からよく学ぶべきであると思う。
子規の頭には「継承」という考が乏しい。