俳諧で、代表的な「切字」は、や・かな・けりです。

 

一句のうちに、「何々や何々や」・「何々や何々かな」・「何々や何々けり」などと、先ず切字が二つ用いられることはありませんが、ごくごく稀に切字が二つ使われるものもあることはある。それは「や」と「けり」の併用の場合で、一方、「や」と「かな」が同時に置かれるものはちょっと見たことが無い。「切れ」が強すぎるのだろう。

 

たいへん有名な芭蕉の句で、

 

   古 池 や 蛙 飛 び 込 む 水 の 音       芭 蕉

 

の場合、「や」が切字であります。これ、別に初五を「古池に」としても差し支えない。しかし、助詞の「に」を用いれば、恐らく此句の評価はガタ落ちでしょう。散文のようになってしまう。「古い池がありました。そこに蛙が~」というよう、韻文として「や」とハッキリと切ったほうが余韻が出ていい。

 

また、

 

   綿 ふ く や 河 内 も 見 ゆ る 男 山        凡 兆

 

男山から遠望して、白い綿がはじけている地がよく見える。秋の澄み渡った景色ならではであって、あそこが河内の國である、という意でありますが、これも冠を「綿ふいて」としても差支えない。が、やっぱり「綿ふくや」と切字を据えたほうが断然よい句になる。

 

今人の中には、伝統的な切字である「や・かな・けり」を古臭いものとして退ける作者も少なくないそうですが、やはり用いたほうがいいと思う。

 

ただ芭蕉以前には、発句には必ず切字がなければならないという、やかましい時代もあったようですが、芭蕉はこれを否定した。たとい切字が無くとも、発句は僅か十七字、必然的に十七番目の文字で厭でも切れてしまう、というのがその理屈です。そうすると、いろは~の四十八文字、すべてが「切字」となり得る。

 

ここが芭蕉の偉いところです。規則に拘泥して、詩歌の生命たる自由な表現を妨げてはならないとみたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

   寒 月 の か け ら か じ る や 鬼 瓦

 

こういうのが芭蕉以前の「談林調」というもので、面白いといえば面白い。

 

「滑稽」が蕉門の『猿蓑』期になると、

 

   み み づ く は 眠 る 処 を さ さ れ け り        半 残

 

   魚 の か げ 鵜(う) の や る せ な き 氷 哉       探 丸

 

『みみづく(木兎)』という鳥類は、夜は獰猛に活動し、昼は抜け落ちたように眠るもの。哀れにもアッサリと刺されて落ちた。

 

探丸の句は、中七の一語『やるせなき』という主観的表現が面白い。

 

要するに、蕉門の「滑稽」は、作為を施さずに自然の可笑しみです。

 

 

 

 

 川柳は俳諧の滑稽なものであるーという定義は、それ自体正確なのだが、また同時に奇妙なものでもある。俳諧そのものが、はっきりと滑稽を自認していた詩であったのだし、芭蕉の手によって人間深奥の感情表現の媒体へと高められたのちになっても、なお、宝井其角などは、俳諧を滑稽表出のために用いつづけていたのである。其角と同じ蕉門の人、各務支考も、師の没後は、芭蕉がとなえた「軽み」を卑俗平明の意に解釈し、自派隆盛の具にしようと試みた。やがて、いわゆる田舎蕉門は、支考によって拡大解釈された「軽み」を追いながら、しだいに芭蕉とは似ても似つかぬ風調を採るようになり、俗語平話の結果をよしとする傾向を帯びていった。・・・・・

 

               (『日本文学史 近世篇三』 ドナルド・キーン著)

 

※ 「川柳」と「俳諧」は紙一重です。『誹風柳多留』を見ましたが、今の川柳よりずっと穏健な滑稽です。昔のは、どぎつくもない。

 

芭蕉は最後まで「滑稽」を忘却しておりません。これを止してしまえば、究極、連歌の発句との差異がまったく認められなくなる。洗練された雅語を用い、和歌に準じている連歌のほうが、今様の「俳句」よりウンと秀逸です。

 

   ほ ろ ほ ろ と 山 吹 散 る か 滝 の 音       芭 蕉

 

滝の落ちる爆音に圧されて山吹が散っているよう、なとどいうのも「滑稽」を容易に窺知できます。また絶唱と伝わる、

 

   旅 に 病 ん で 夢 は 枯 野 を か け 廻 る        同

 

も、『枯野』などという殺風景を『かけめぐる』とは、殊に面白い表現でしょう。

 

俳諧の根本底流は、常に「滑稽」です。

 

 

 

 

   砂 よ け や 蜑(あま)の か た へ の 冬 木 立        凡 兆

 

 「冬」の部所収。「砂よけ」は、海辺の村に見られるもので、強い北風にあおられた砂がとんでくるのを防ぐため、立木の幹などを利して筵を張ったものを言う。凡兆が加賀の出身であることを考えると、北陸の漁村などで見た経験を詠んだものかと思われる。「蜑」は漁夫であるが、ここでは人ではなく漁夫の家の意。「かたへ」はかたわら。

 この句については、⑴ 砂よけのしつらえがある漁夫の家があり、そのかたわらに冬木立がある、とする解と、⑵ 漁夫の家のかたわらに冬木立があり、それに砂よけの筵が張られてある、とする解の二説があるが、前者の場合には、砂よけのある蜑の家と冬木立の関係があいまいで、作者が何に興を感じてこのように叙したのかがわからない。・・・・・

       

                 (小室善弘著 『俳人凡兆の研究』より抜粋)

 

                    ※

 

漁家の傍らに枯木立があって、それを利用して「砂よけ」の筵が張られている、の意でしょう。その目撃に興有りと思うたのでしょう。

 

ところで、蕉門である凡兆の今に伝わる遺句は、わずか一四九句です。今の俳人ならば、これくらい数日もあれば作するのに十分でしょう。

 

つまり、古人は何か取柄がなければ、作句を試みなかったことの証明でしょう。それに比して、今人というものは、あたかも日毎の日記のように、何でもかんでも「俳句」に並べてしまう。これは「詩歌」などではありません。

・・・・・『俳諧三佳書』の序で見ると、日本派でいちはやく凡兆を称揚したのは、子規ではなく内藤鳴雪であった。鳴雪は『俳諧七部集』を研究中、自分の好む「純客観の句」に点をつけてみたら、それは『猿蓑』に一番多いことがわかり、なかでもその半分は凡兆の句であることに気づき、「純客観の本尊として凡兆を崇拝」するようになったのだという。「これに因って我々は凡兆の特色を知り得たるのみならず略純客観句の占領区域を知る事が出来た」と子規は言っている。日本派がめざす純客観句の具体的な手本として凡兆が発見された意義は小さくない。(略) ここでは、⑴実景の客観的な描き方、⑵趣向の取りかたや表現のうまさ、⑶意匠に細心であること、⑷取合わせが緊密であること、が賞せられている。・・・・・

 

                 (小室善弘著 『俳人凡兆の研究』より抜粋)

 

                   ※

 

   に は と り の 声 も 聞 こ ゆ る 山 桜         凡 兆

 

一目「純客観句」には相違ありませんが、このような山中に人家があるものか、という驚嘆とともに、浮世に染まぬ遁世者に対して、作者の憧憬の心が内に在るのでしょう。

 

   植 松 や そ の や ど り 木 の 山 つ つ じ         同

 

これも同様で、山の松木を庭などに移し替えようとしたら、『つつじ』という低木の根っこが松のそれに絡まり解けずに、そのまま持ち帰ってきた、というもので単なる「純客観句」とは言い難い。やはり平凡を嫌う「俳諧」なのである。

 

   す ず し さ や 朝 草 門 に 荷(にな)ひ 込 む     同

 

夏期に、牛馬の飼料か堆肥のため、まだ涼しい朝の間に草刈りをして運び込むのであるが、ご存知の通り、「短夜」でありますから、今の午前三時も半ばを過ぎれば、すっかり夜は明けているものであります。家中にたくさん積まれるまで、朝の間の涼しいうちに全て終わってしまう、そういう特別な時節に作者の驚く声も聞こえるようでしょう。

 

子規や鳴雪の云われるよう、凡兆という作家を「純客観句の達人」などという単純な評価でよいものか?というのが私の結論であります。

 

つまりその方が「近代」以降の基準に合致していたからです。

   時 雨(しぐ)る ゝ や 黒 木 つ む 屋 の 窓 あ か り          凡 兆

 

此一句などは難解ですね。未だ解に彷徨います。

 

『時雨(しぐれ)』は、冬期の一時雨。主に初冬の景物でしょう。『黒木』は火が付き易く、煙の少ない新型の燃料で、製造に手間がかかり、当年かなり高価なものだったようです。

 

『窓あかり』をめぐっては、屋内の景と、戸外から眺めた景と、二つあるようで、此句解も定まっていないようです。

 

私も試釈に過ぎませんが、これはやはり外から見た景色で、黒木で暖をとると、居室の窓のあかりが、随分「赤赤」として、黒木の使用を直ぐに知らるる。

まだ初冬のうちに、燃焼させているほどであるから、高品質たる黒木を沢山積み上げているのだな、と連想したものではないでしょうか?

 

よく分りません。

   炭 竃(すみがま)に 手 負 の 猪 の 倒 れ け り     凡 兆

 

この一句も誠の解釈というものが、先ず見付かりません。ごく凡句を覚えますが、直訳すると、

 

「炭竃の側に怪我を負うたイノシシが倒れているのを、偶然家人が見つけた」です。

 

この背景とは、「人里にやって来た猪を、弓矢か猟銃かで手負させながら、なお餌を求めて彷徨い、においの残る人家の炭竃の側で力尽きていた」です。

 

 

  手 習 ひ の 木 綿 も ほ し き 五 月 雨          ぼ ん と

    禅 寺 の 松 の 落 葉 や 神 無 月          凡 兆

 

「閑静極まりない禅寺の庭に、松の落葉が散ってしまっている。初冬の枯れた一情景をあらわした写生的な佳句。」

 

というのが、まずまず一般の解釈でしょう。『松の落葉』は通常夏季でありまして、『神無月』は旧暦の十月をいいます。

 

禅門というのは、ごく日常生活に就いても修行の一つと捉えておりまして、食事、清掃、入浴等々も大切な修行であると勤めているようです。

 

    庭 掃 い て 出 で ば や 寺 に 散 る 柳         芭 蕉

 

という一句も、紀行文である『奥の細道』などに見えまして、寺内は常に掃き清められているものです。

 

夏の間に枯落ちた松葉が、冬が訪れても、なお庭に散り敷かれているとは、禅門ではあり得ないという事でしょう。つまり、作者の見た禅寺は、既に「廃寺」だったのではないか?そう訝ったというのがその裏面に在る心であります。

 

冬枯れの気配をよく顕した「(客観)写生」などと単にみてはならない。古人は取柄無き客観の句など珍重しないものです。

 

 

  (秋風は)身にしみてあはれをそふるやうにもよむ也。    (初学和歌式)

 

俳諧も和歌の上のよみようをそのまま踏襲しております。

 

今人は、「秋風」をはじめ、秋冬の句をあまり好まない、また作しても、佳句がなかなか見付からないものと認められておりますね。

 

清新、明瞭で明るい感じの春夏の句を、よく好くようです。秋冬の句は、作するのに難しくて、出来されれば、間違いなく堪能の人でしょう。

 

            秋 風 や 藪 も 畠 も 不 破 の 関          芭 蕉

 

平安末期の「不破の関所」はまだ残存しておって荒れていたけれども、もはや芭蕉の頃はその跡形も無くて、「藪と畠」へと替わり、何やら無常を覚えたという、先ず名句のほうでしょうね。

 

また、

 

    芭 蕉 葉 は 何 に な れ と や 秋 の 風         路 通

 

芭蕉という樹木の葉は、ただでさえもろくて破れやすいのに、はげしく荒々しく秋風が吹いているという、こちらは浮世の非情ぶりを覚えますね。

 

昔の人の句は、しみじみと来るものです。

    春 雨 や 蜂 の 巣 つ た ふ 屋 根 の 漏 り       芭 蕉

 

「しめやかに降り続く春雨がいつのまにか屋根を漏って、軒下の鉢の巣に伝わり、そこからポトリ、ポトリと静かに滴り落ちている。」

 

                     (新潮日本古典集成 『芭蕉句集』)

 

『春雨』というのは、目にも耳にも肌にも知らないほど、細々と降るもの、こういうのが日本文学における昔からの感じ方です。無論、現にそうでない降りようもありますが、古典文学上ではそう決まっているものです。

 

ただ私の座右にある現代の季語帳には、そうは書いてありませんでした。

 

上記の芭蕉の一句は、「あれあれ、表ては雨が降っていたわい。」という意外性と、雨が『屋根から漏って蜂の巣』を伝っている事とが面白いもの、つまり俳諧性であります。

 

   春 雨 の あ が る や 軒 に な く 雀            羽 紅

 

という一句も又そうであります。

 

 

  歓 幾 何 花 な き 地 に も 花 見 酒      凡 人