グリークラブアルバムの研究 31 Until The Dawn (あしたまで) | とのとののブログ

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グリークラブアルバムの研究 31 Until The Dawn (あしたまで)

パークス作曲

 

 確証はないが,グリークラブアルバム(赤本)の中で最も愛唱されなかった曲のような気がする。福永は「とにかく50年ほど前に日本に輸入されたパークスの男声合唱曲集は当時を風靡しました」と書いているが,グリークラブアルバムの初版が1959年のことだから,「当時を風靡」したのは,およそ1910(明治43)頃のことになる。

 

 作曲者のパークスとは,James Asher Parks(1863-1945)のこと。戦前のアメリカ音楽家年鑑によると,1863522日にペンシルバニア州で生まれ,シカゴ音楽大学に進み,木材加工会社勤務を経て,声楽の教師や音楽スタジオの経営を行う。1896年にJ.A.Parks社を創設,オーナー社長としてたくさんのシート楽譜や90冊以上の楽譜を出版した。これらは多くの合唱団やプロのカルテットでも歌われたらしい。レコードにもなり,また,多くの曲が外国語に翻訳されている。第一次世界大戦中は軍隊の歌のリーダーが使用する曲を書き,前線で歌われた。1938522日に75歳の誕生日を迎え,自作曲をニューヨーク男声合唱団が演奏する特別ラジオ番組が放送された。

 

 

 戦前に人気があったことは確かだが,そのような合唱曲作曲家の多くは,その後しだいに作品が歌われなくなった。パークスも例外ではなく,検索すると今では当時の中古楽譜しかみつからない。しかし,シート楽譜や男声カルテット用の曲集が見つかる。当時はJ.A.Parks社以外にOliver Ditson社,Schirmer社,Theo出版などがたくさんのシート楽譜を出版しており,戦後に福永陽一郎が渡米した際も同様だった*

*この点は拙稿「グリークラブアルバムの研究 総論」や,福永が「合唱界」(vol1. no.3) に寄稿した「アメリカ合唱界かけある記」が詳しい。

 

 

 これらの楽譜は日本にも輸入され,大学男声合唱団が活動し始めた明治30年頃にはチラホラと名前がみえ,三木楽器店等で入手できた。例えば,明治40(1907)に慶應ワグネルが演奏した「ザ・ラボード・ウォッチ」という二部合唱曲は,T.Williamsが作曲した「The Larboard Watch」のこと。W. H. Paling & Coの出版楽譜で,この会社はオーストラリアに移住したオランダ生まれのWilliam Henry Paling (1825-1895)1860年頃に始めた。

 この曲はのちに関西学院グリークラブや大阪外国語大学グリークラブも歌っており,日本で入手しやすかったらしい。larboardは船の左舷を意味するので,「左舷側の当直」という意味*

* 対して右舷側の当直はstarboard watchと言う。

 

 さて,日本で「当時を風靡」したとされるパークス,彼の曲を最初に歌ったのは関西学院グリークラブで,大正8(1919)Until the Dawnを歌っている*。その後パークスの曲として大正12(1923)Love's old sweet Story,大正14(1925)にはPraying for youを歌っている。昭和元年(1926)にはUntil the Dawnを「夜明けまで」として再演した。

* 関西学院は戦後になり林英太郎の詩でG.Parks作曲として「月の夜」を歌っている。昭和24年の50周年記念演奏会で歌われたもので,「80年史」によると「大正8年の思い出の曲」となっている。この年に歌われた曲で該当しそうなものはUntil the Dawnしかないため,G.ParksJ.Parksのミスプリであろう。

 グリークラブアルバムの注釈には,「『月の夜』として出版された」とあるが,このタイトルと訳詞での出版は確認できていない。

 

 

 「あしたまで」は,東京リーダーターフェルフェラインが昭和6(1931)に開催した「第3回公演会(男声合唱の夕べ)」で山口隆俊がUntil the Dawnに訳詞をつけ演奏したもの。昭和8年にはこの曲を「自由曲(選択曲)」として当時の合唱コンクールに出場した。また,山口が指揮した東京労輔合唱団(東京市労務者輔導学友会)で使用された昭和7年発行の楽譜にも収録されているが,演奏されたかは不明。昭和9(1936)には同志社グリークラブが「あしたまで」として歌っている。

 東京リーダーターフェルフェラインは,この他にもパークスの曲をたくさん歌っており,山口の訳詞で「つばめ」,東辰三(あずまたつみ,作詞家で同団の団員)の訳詞で「漁夫の歌」「南の故里」がある。いづれも原曲は不明。編曲物では,フォスター作曲「Old Black Joe」,Balfe作曲「鼻の下御用心(原題はTrust Her Not)(二重唱)を歌っている。

 

 それ以外のパークスの男声合唱曲としては,昭和10(1935)にオリオンコールが「ネリーはレディーであった」を歌っている。また,秋山日出男編「男声合唱曲集5」に池田功の訳詞で「たそがれの追想」が収録されている。

 

 戦後は「夜明けまで」「あしたまで」として関西学院や同志社が演奏しているが,昭和30(1955)に同志社グリークラブがカルテットでパークス編曲の「おじいさんの古時計」を歌ったのを最後に,彼の曲(編曲含む)の演奏記録は見当たらない。

 

以上