とのとののブログ

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古代史,遺跡,SF,イスラム,男声合唱などの話題を備忘録かねて書いていきます。
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  国内で歌われた男声合唱の黒人霊歌について,1960年までをグラフ化する。参考としたのは,東西四大学の部史(関学,慶應,同志社,早稲田)と西南学院グリークラブ,その他にいくつか。

 数え方は,例によって,その年に歌われた回数ではなく,その年に歌われた黒人霊歌のレパートリー数。例えば同じ曲を3回演奏した場合は,1曲と数えている。時間感覚をみるため,ここまで述べた米国や日本の主な出来事を加えた。もちろん全ての演奏曲を掴まえてはいないが,傾向は示せているはず。

 

 

 世界初の黒人霊歌集が出版された45年後,日本でも楽譜が紹介され,大正期には黒人トリオの演奏を聴くことができた。しかし,戦前は演奏記録は殆ど見当たらず,むしろ米国との関係が怪しくなってから関西学院や西南学院のキリスト教系の大学で歌われ始めた。戦後は合唱団員数の増加と相まって,急速に歌われるようになった。

 

 気になるのが,戦後の急拡大に東京コラリアーズが果たした役割。先ほどの図に東京コラリアーズのデータを加え,日本の部分だけを拡大する。プロット基準は同じ。1953-1954年も黒人霊歌のステージはあるが曲目()が不明なので,プロットしない。しかし,おそらく10曲程度と考えられる。

 この図から,東京コラリアーズよりも関西学院や早稲田大学がリードしている。これは福永自身が「関学の「桃太郎」「かかし」,松浦周吉が指揮する黒人霊歌の魅力」を語っていることからも妥当だと思う。ただし,東京コラリアーズはプロ合唱団として労音等で同じ演目を何日もステージに欠けているので,演奏回数としては他を圧倒しており,東京コラリアーズにより黒人霊歌の生演奏を聴いた人が最も多いはず。

 

 では戦後に黒人霊歌が多く歌われ始めた理由はなんだろうか。単純には,戦後に米国の文化が解禁され,チャンバラ映画など伝統的日本映画はGHQの規制で作成できず,価値観がコペルニクス転回し,米国の文化や音楽が最高(かっこいい)となったからと推測できる。しかし,それで良いのだろうか?

 例えば,日本以外の国でも,戦後に黒人霊歌が合唱団のレパートリーとして急速に歌われだのだろうか? 根拠はないのだけれど,ドイツやイタリアやフランスの合唱団が黒人霊歌を主要なレパートリーにしてたとは思いにくい。もちろん,海外の合唱団の演奏会では,日本のように「組曲」や「テーマ」で仕切られたステージ構成ではないため,歌ったとしても曲数が少ないのだけれど。

 

 「戦後の急拡大」といえば,合唱史的には大学男声合唱団員数の急拡大。比較グラフにしてみた。この2つになにか相関があるのだろうか。

 

 そこで文科省の資料「学校基本調査」を用い,戦後の男子大学生の人数データを集めた。戦前については「学生百年史」の資料編から,第11表「大学(旧制)」の学部学生数を用いた。ここには女子学生が含まれているはずだが,戦後と異なり分離できないので,このまま用いた。このグラフに,以前独自に算出した「男声合唱団人員数の平均値」の推移を重ねた。

 

 大学生の人数について,昭和元年頃の約3万人から単調に増え,昭和19年には約8万人と2 倍以上に増えている。その間に人口は約6,000万人から7,400万人へと約1.2倍に増えているが,大学生の増加率は人口増加率の2倍あり,単純に人口増が要因とは言えない。正直言って,日米戦争中も増え続けていたのは意外な結果だった。就学期間が短縮された昭和16年(1941年)に少し落ち込むものの,それまでおよそ5万人だったものが1.5倍になっている*

* 参考図に男子大学生が男子人口に占める割合を示した。昭和16年(1941年年)-昭和21年(1946年)は,総人口のみ示され男女別は不明。戦前は,おそらく男子人数は戦死者数を読む手がかりとなるため,軍秘とされ公開されなかったのだろう。なので総人口の増加比率で男子も増えたとしてプロットした。

 昭和15年(1940)まで大学生が占める割合は0.14%程度だが,推定ではあるが昭和18-19年は0.2%へと増加している。

 

 理由の分析は手に余るが,徴兵逃れのため大学進学者が増えたのかもしれない。昭和18年(1943年)10月には「在学徴集延期臨時特例」が公布され,理科系と教員養成系を除く文科系の高等教育諸学校在学生の徴兵延期措置が廃止され,いわゆる学徒出陣が行われた*。それにもかかわらず,昭和19年に大学生の数は増加した。

 

 戦後は学制改革の時期は戦前と大きく変わらないが,昭和24年(1949年)からは爆発的に増えている。「学制百年史」では,学制改革で制度が「単線化」され上級学校進学に制度上の課題がなくなったこと,経済の復興と再建が進んだこと,我が国に伝統的な「学歴尊重の傾向がある」ことを上げている。

 もう少し具体的には,大学の数が増えたこと。国立大学は 昭和24年に68校が設立され(帝国大学の改変を含む),私立大学は昭和23年に11校だったものが2年後の昭和25年には105校に増えている(「学数・学生数の推移【2022年度版】」によるhttps://talent-ize.com/education/university-student-transition/)

 

 「年次統計」のリンク先によると,当時の国立大学授業料は現在の価値に換算して8万円程度(2024年は60万円),私立大学文系は20万程度,理科系で50万円程度と比較的負担が少なかった(https://nenji-toukei.com/n/kiji/10037など)

* 学徒出陣は,一般に戦力不足を補うための東条内閣の「暴挙」と捉えられているが,一説には,国民の間で「大学生が徴兵されないのは不公平」の声が強くなったかららしい。当時の大学生は富裕階級しか進むことができず,実質的に徴兵猶予は「富裕層優遇処置」だったかららしい。記事末で補足する。

 

 さて,この図で男声合唱団の団員数を比べると,戦後は男子大学生数の増加に比例して増えている。これと比べると,戦前は団員数は少ないものの,団員数の大学生数の比は戦後より多大きい(男声合唱団の平均団員数を男子学生数で割ったものが大きい)。グラフににすると,戦前は概ね6だが,戦後は2程度。なお,合唱団団員数は平均なので,この値は割合(パーセント)ではなく,指標という意味。

 

 強引に解釈すると,戦前は合唱は「エリートが楽しむもの」だったのに対し,戦後は団員数が増加し「大衆化」したと言えるのだろう。

 想像をたくましくすると,戦前の国立大学授業料は,下記によると昭和5-10年は120円*。当時の1円はおよそ2,000-3,000円に相当するらしいので,現在なら24-36万円。一方,当時の給与所得者の平均が712円とされているので,およそ17%に相当する。現在の平均年収は458万円(2022年)とされているので,この基準では78万円。現在は54万円ほどだから,1.5倍高かったことになる。

 荒っぽく比較すると,国立(帝立)大学授業料は,戦前の78万円から戦後は8万円と1/10になった。これが「大学教育の大衆化」となった。

 

https://yuuponshow-price.com/m-t-s-educational-institution/#gsc.tab=0

https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm

 

 あらっぽい仮説「エリートの合唱から大衆の合唱へ」を立てたわけだが,これがなぜ「黒人霊歌の普及」と関係するのか奇妙に思われたかもしれない。

 2023年度下期のNHKの朝ドラ「ブギウギ」は,笠置シズ子を軸に戦前の音楽シーンを描き出したわけだが,想像以上に洋楽(ジャズ)が歌われ聴かれ,楽しまれていることに驚いた。昭和10年代には,洋楽のジャズ・ファンは黒人好き・黒人嫌いに分かれ,各々の音楽の魅力を「熱く」語っていた。当時の音楽表現で使われた「ホット」とは,「黒人的」という意味を持っていた。

 輪島祐介さんの著書「昭和ブギウギ」に引用された話では,笠置が「どんな歌がお好き?」と尋ねられ,「大体スロウな物が好きだんね。ブルース,スロウ・トロットなど。だけどニグロ的なホットな物も好きだっせ」と答えている。

 同時に,西洋近代音楽の技法で日本語が歌われたジャズもあり,服部良一は「道頓堀ジャズ」と名付けた。ドラマでも取り上げられた「ラッパと娘」の歌詞は「バドジズデシドダー」。こういった曲がヒットし,戦後は「東京ブギウギ」など「エイト・ビート」の曲も大ヒットし(エイト・ビートは和製英語),リズミカルな旋律に乗った歌が大衆に親しまれた。今では「童謡」だと思われている(私も思っていた),「山寺の和尚さん」は服部良一がコロンビア移籍後に初めて放った「道頓堀ジャズ」のヒット曲。この曲はコロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズという武蔵野音楽学校卒業生による「男声四重唱団」を交え中野忠晴が歌っている。一番はともかく,それ以降は言葉遊びも交えた「大人の唄」。

* 例えば下記で聴ける。https://www.youtube.com/watch?v=zoy4g579Na4

 

 詳しいことは輪島さんの本や同じ著者の「踊る昭和歌謡」,更に詳しくは輪島さんの師匠である細川周平さんの「近代日本の音楽百年 第4巻『ジャズの時代』」を参照ください。

 

 エリートたちが正当なクラッシックな合唱(もちろんそれだけではなかったが)を楽しんだ戦前から,戦争で中断したけれども,ジャズに親しんだ大衆が合唱に参画することで,リズムに乗った黒人霊歌などをレパートリーとして取り入れることに抵抗がなくなくったのではと考える。

 

 「大衆化」という言い方をしたけれど,決してネガティブな意味で使っているのではない。合唱の幅を広げ,輸入された西洋音楽を自らの血肉とし始めるきっかけとなったと,肯定的に捉えている

 

 この後は,独特の哀愁を帯びたロシア民謡も労音の演奏会を通じて大人気となり,東京コラリアーズの演奏曲目は黒人霊歌など英米曲からロシア民謡が中心になっていく。ダーク・ダックスが人気となったのも,彼らの卓越した技術でジャズコーラスもロシア民謡も完璧に歌いこなしたことにある。

 

 ちなみに,彼らが現役自体には楽界の重鎮たちは「(ロシア)民謡の合唱など合唱ではない」というスタンスだった。これを「エリートたちの合唱感」と言う。輪島の表現を借りれば「当時のエリート音楽家や評論家は『西洋音楽』の『正しい』紹介や啓蒙に汲々としていた」わけで,「正しい理解」は必要だけれど,それに縛られてしまったら発展はない。

 このテーマは面白いと思うけれど,黒人霊歌の範囲で考えるのではなく,他のレパートリーの変遷も含め見ていく必要がある。ゆえに,舌足らずではあるけれど,今回はこれで終わりとする。

 

(国内編 終わり)

 

【補足 学徒出陣について】

本文で述べたように,「学徒出陣を促したのは,大学生等の徴兵猶予は富裕層を優遇しており,民衆から上がった『不公平』の声」という意見がある。

 

 実際,帝国大学の授業料は現在の基準で1.5倍高く,下宿代等の仕送りを含めると平均的な収入の人では手が出ない。現金収入が少ない小作農等の子弟は全く無理。奨学金制度も整っていない(限られてはいるが,県人会等の支援はあったらしい)

 実際,日米開戦後に大学生の数は昭和15年は5万人だったのに昭和19年は7万9千人と1.5倍に増えており,徴兵回避の可能性は高い。しかし,参考図に示したように,男子大学生の割合は男子人口の0.2%程度でしかない。子供や高齢者を除いた徴兵可能人口を半分としても,0.4%程度。徴兵対象としてマスが小さい。

 一方,徴兵された男子数は何人かと言うと,およそ700万人とされる。昭和15年の男子数が約3,500万人なので20%,同様に徴兵可能人口を半分とすると壮年男子の40%が徴兵されたことになる。いかに男子の0.2%しかいなくても,目立つことは確かで,「富裕層優遇反対」の声は納得できる。現在でも,同じ声が(当時以上に)起こるだろう。

 

 学徒出陣で何人徴兵されたかは,資料が廃棄され正確なことは分からないが,検索結果からすると6-10万人と思われる。大学生の数を徴兵人口の0.4%とすると,ランダムに平等に選んだら700万人の0.4%として2万8千人。人口比の約2-3倍の確率で徴兵されており,「富裕層優遇」とは逆になっている。

 それでも,大学生の徴兵が始まった昭和16年から20年の間に,6-10万人が徴兵されても,大学生の数は増えた。先が読める人間にとっては,戦争は長くは続かない(続けられない)ことは自明なので,少しでも徴兵されない方向で子弟を保護したのだろう。

 なお,「当時の内閣に責任はなかった」と言ってるのではないことにご注意ください。

(補足 終わり)