グリークラブアルバムの研究 新(30) Dixie | とのとののブログ

とのとののブログ

古代史,遺跡,SF,イスラム,男声合唱などの話題を備忘録かねて書いていきます。
男声合唱についてはホームページもあります。
メール頂く場合は,こちらにお願いします。
昔音源@gmail.com
(mukashiongenにしてください)
https://male-chorus-history.amebaownd.com/

グリークラブアルバムの研究 新(30) Dixie

アメリカ民謡

編曲 福永陽一郎

 

 「アメリカ民謡」とされているが,作曲家Daniel Decatur Emmettが所属していたブライアントズ・ミンストレルズ*のために作った曲で,1859 4 4 日にニューヨーク市のメカニクス ホールで初演されたとされる。作曲自体は1943年だという説もある。

* いわゆるミンストレル・ショーを演じるグループ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC

 

 英語版Wikipediaによると*,彼の生前から他の人が「自分の作品だ」と主張していた。Emmett(エメット)の死から4年後の1908年までに、37人もの人々がこの曲を自分のものだと主張した」という。それだけ人気があったと。

 混乱した理由の一つが,彼自身が作曲したときのことを「数分で」「一晩で」「数日かけて」と異なって記しているため。

* https://en.wikipedia.org/wiki/Dixie_(song)

 

 また,そもそも「Dixieとはなにか?」についても諸説ある。日本語版Wikipediaによると*,南部全体や,特にニューオリンズなどルイジアナ州の一部を指すとされる。

* https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%BC

 

 下記の伝記では,Dixieは「メイソン=ディクソン線」を策定した技師にちなむのではなく,北部で奴隷を使っていた男の名前だとしている。

On Manhattan Island, a man by the name of Dixie once kept slaves until forced by the hostile sentiment of the North to move South. The slaves were not happy in their new home and frequently expressed a longing for Dixie Land, the name of the old plantation.

 意訳「マンハッタン島で,かつてディキシーという名の男が奴隷を使っていたが,(そのことについての)北部の敵対的な感情の圧力に負け,南部に引っ越した。連れて行かれた奴隷たちは新天地での生活に満足できず,旧農園の名前であるディキシー・ランドへの憧れをたびたび口にしていた」

 伝記はInternet Archivesにあり*1904年に出版された「Daniel Decatur Emmett, author of "Dixie"(Charles Burleigh Galbreath)

 これによると,作曲は「一晩中想を練ったがうまくいかず,早朝にバイオリンを持ち作曲を始めたところ,その日は雨がふる寒い憂鬱な日で,南部に旅行したときのことを思い出し,『I wish I was in Dixie land』と繰り返した」と記されている。

 作曲は一晩(実質的には数分から数時間)でできあがっている。また,このときに既にDixie landの語を使っており,それは南部の思い出とリンクしている。伝記ではこのあと,妻にメロディーを聴かせ賛成してもらい,作詩にかかる(つまりメロ先)。「タイトルはまだ付けてないんだ」と妻に言うと,「もうDixie landて言ってるじゃない。タイトルはそれにしなさい」と返された。有能なパートナーだ。

 つまりDixie Landとは,なんらかの「あこがれの地」を意味する言葉らしい。

* https://archive.org/details/danieldecaturemm00galb/page/14/mode/2up 

 

 この歌Dixie('s Land)は,南北戦争の時に南軍の非公式国歌として扱われたことで,広く知られるようになった。リンカーン大統領もこの曲が好きだったという。ディキシーランドジャズにも影響を与えたとされるなど,エピソードがたくさんある。英語版Wikipediaに豊富な情報がある。

 

 英語版で面白いのは,The song was traditionally played at a tempo slower than the one usually played today(この曲は伝統的にこんにち演奏されるものよりも遅いテンポで演奏されていました)。ここに貼られているリンク(Modern Recording of "Dixie")と,古い演奏の例として下記リンク先の1916年に録音された演奏を比べると,確かに現代のものはテンポが速い。

https://www.youtube.com/watch?v=ff58W_m2ipk

 

 一方,グリークラブアルバム(赤本とCLASSIC)Dixieは,これらと比べ遥かにスローテンポ。楽譜にはMolto lento (極めて遅く)と指示されている。そのあとの「in 8」は「8つ振り」という意味で,楽譜上は4拍子だけど倍のカウントで指揮者が振る場合の指示。ともかく「ゆっくりと」演奏する曲になっている。聴き比べたら,もはや別の曲。

 福永はLP「グリークラブアルバム(II)」の解説に,「アメリカの南北戦争当時の南軍の軍歌であった。しかし,その歌詞の内容は郷愁をうたったものであり,南部が敗戦したあと,ここでのようなスローテンポでうたわれることもすくなくない」と記している。さて,どうなんだろうか。

 

 できるだけ古く信用できる楽譜を調べたが,初期の(もしかしたら最初の)手書き譜のコピーはあるが*,出版譜はなかなか適当なものがない。人気があったためか,早くも1861年に無許可で楽譜が出版されたのだが(ただし歌詞は変えられた)

 英語版Wikipediaによると「1860 6 21 日にニューヨークのファース・ポンド社から『ディキシー』(『ディキシーの国にいたらいいのに』というタイトルで)を出版したが,オリジナルの原稿は紛失。現存するコピーは1890 年代以降,エメットの引退中に作成された」ということらしい。

 

 いくつかあるが,ここでは1916年出版のNational Songsに収録された楽譜を掲載する。ソロとコーラス部から成るのがミンストレル・ショーの形らしい。一番がソロ,ニ番がコーラスとして記述されている(グリークラブアルバムで言えば「Then I wish I was in Dixie・・」以降)

 伝記には1860年のステージを描いた絵があり,顔を黒塗りした4人のメンバーが描かれている。 Emmettと書かれた人物はバイオリンを演奏している。その当時の歌詞は黒人の発音を模したもので,1916年の楽譜冒頭はI wish I was in de land ob cotton. Old times dar am not forgottenとなっている。

 

 戦前の日本でも合唱曲の楽譜を入手できた。東京音楽書院が1936(昭和11)に出した「独唱曲と合唱曲 101名歌集」に「Dixie's Land」として収録されている。この曲集は副題にあるように,1915年頃にThe Cable Companyが出版した「The One Hundred and One Best Songs for Home and School (and Meeting)」に日本語訳詞をつけたもの。日本でこの曲が歌われたのかどうかはわからない。

 

 以上2つの楽譜は,4分の2拍子でテンポよく演奏されていた。その解釈と演奏を根本的に変えたのが,ノーマン・ルボフ合唱団。1960年に出版された混声六部合唱譜で「Rubato – Slowly and Reverently (自由な速さで -ゆっくりとていねいに)」と指示している。そして4分の4拍子と,原曲の2拍子系よりゆったりとしたテンポ設定になっている。歌詞も「黒人系の発音表記」ではなくなっている。

 

 この演奏はLPに吹き込まれ,遅くとも昭和33(1958)には日本でも聴くことができ,北村協一が「ディキシーもノーマン・ルボフが演奏すると,こんな感じになるのか」と驚いている*。つまり,北村は速いテンポのディキシーを知っていた。

 日本でどのようにディキシーが知られたのかは定かではない。戦後にディキシーランド・ジャズが入ってきたときに,この曲も知られたのだろうか。合唱でいえば,ロバート・ショウもこの曲(テンポが速い版)LPに吹き込んでいるが,調べた限り1964年のことで,ノーマン・ルボフ合唱団より遅い。

* 北村協一 合唱界vol2.no.9  世界の合唱団紹介3 ノーマン・ルボフ合唱団

 

 おそらく,北村がノーマン・ルボフ版のDixieを男声合唱で提案することを提案したのではないか。もちろん福永もノーマン・ルボフ合唱団のことは知っていて*,同じLPを聴き,同じ考えを持っていたかも知れない。東京コラリアーズで演奏したかどうかは不明。調査した中には,この曲の演奏記録はない。

* 「法政大学アカデミー合唱団30年記念誌 陽ちゃんと歩んだ30年」によると,1972527日の同合唱団のスプリングコンサートではLUBOFF ALBUMと題したノーマン・ルボフの編曲を集めたステージがあり,福永はこの合唱団について詳細な解説を書いており,1950年代に出たLPについて言及している。このステージではDixieも歌われている。

 この合唱団は男声合唱のレコーディングと楽譜も出しているが多くはなく,現時点では5曲がカタログに載っている。そこにはDixieはない。私の知る範囲で,1967116日の日本女子大学桜楓会合唱団・ワグネルOB合唱団合同演奏会で,北村協一指揮のワグネルOB合唱団が「ノーマン・ルボフ合唱曲集」を歌っている。曲目は不明。

 

 ノーマン・ルボフ合唱団の楽譜は1960年に出版された。グリークラブアルバムには1964年の第4刷から「Be Still, My Soul」と差し替え掲載された。編曲はおそらく,楽譜には基づかず,LPから譜面起こししたと思われる。もともと混声六部で男声は四部だから,男声に編曲しやすかったかもしれない。2分の4拍子で「8つ振り指定」と,さらにゆったり歌う指示になっている。

 音域のためか,音はノーマン・ルボフから半音上げられ,また最初の「Look away!」のように女声の高音部を活かした箇所は「加線上の音は全てFalsettoでうたわれるべきこと」と指示があり,混声トーンの再現を試みている。

 

以上