グリークラブアルバムの研究(28) いざ起て戦人よ | とのとののブログ

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グリークラブアルバムの研究(28) いざ起て戦人よ

 

                       作曲 グラナハム

                       作詩 藤井泰一郎

 

 順番を間違えていたので修正。Be Still my Soulよりこの曲が先。

 

 男声合唱を少しでも経験した人で,この曲を知らない人はいないだろう。多くの人が暗譜でうたえるはず。また,少なくとも昭和40年代は男子校用の音楽教科書にも四部合唱譜が載っていた。

 グリークラブアルバム(赤本)では,この曲とU Bojが最も愛唱されたのではないか。私も入部してすぐ練習した。勇ましいメロディーと「いくさびと」などの歌詞から,U Bojのような歌に思われるけど,以下示すようにゴスペル(福音唱歌)

 

 この曲の原曲や日本語訳の経緯の概要は,西南学院グリークラブOB会ホームページの下記リンク先「西南学院グリークラブと『いざ起て戦人よ』」と,レポート「西南学院グリークラブと『いざ起て,戦人よ』」のpdfに詳しくまとめられている*。戦前から英語で歌われ,グリークラブ出身で戦争中に同学院の英文学教授だった藤井泰一郎が巧みに日本語に訳した。

* http://seinanglee-oba.sakura.ne.jp/contents/topics/topics20100417.htm

 

 以下,原曲についての若干の補足と,日本で歌われるようになった経緯を考える。

 この曲については,西南学院グリークラブ100年史「百年の歩み」に内海敬三さんが書かれた「いざ起て いくさびとよ」を参考にし,多数引用させていただきました。

 また,6年近く前にある方に詳細に教えていただき,報告書も拝受した。今回,連絡を取ろうとしたが取れない。高齢の方で,また,闘病中とのことだったので,亡くなられたのかもしれない。お名前を公開することもできないので,A氏とさせて頂き,適宜分かる形で引用させていただきました。

 

原曲について

 西南学院のリンク先にあるように,この歌は「17世紀ドイツ人ファルクナー( Justus Falckner)とネアンダー( Joachim Neander)*が作った讃美歌」が元になっている。

* 旧人として有名なネアンデルタール人の名は,ドイツの「ネアンデル・タール()」で化石が発見されたことに由来する。ネアンデルは,17世紀後半の詩人で作曲家だったヨアヒム・ネアンダーにちなむ。カルヴァン派だった彼の信仰は,この渓谷の自然からインスピレーションを得たもので,その後の芸術達にも愛され観光資源となった。19世紀に谷の一つがネアンデルヘーレとされたが大規模採石のため崩れ,今は別の谷がネアンデルタール()と呼ばれている。

 レベッカ・ウラッグ・サイクスの著書「ネアンデルタール」によると,ヨアヒムの姓は本来ノイマン(Neumann)で,彼の祖父が当時流行していた古風な名前ネアンダー(Neander)に改名した。どちらも「新しい人」という意味。つまり「新しい人」の谷で,初めて別種の人類(化石)が発見されたことになり,ある意味予言的。

 

 Justus Falckner(1672-1723)が作詞した「Auf, ihr Christen, Christi Glieder (直訳 キリストの仲間であるキリスト教徒のみなさん,起きてください)」により,Joachim Neander(1650-1680)が讃美歌「Unser Herrscher (直訳 私達の支配者)」を作曲した。

 Falckner の詩をイギリス人Emma Frances Shuttleworth Bevan(1827-1909)が英訳し,「Rise, Ye Chilren of Salvation (直訳 立ち上がれ,救いの子らよ)」とした。彼女は1858年に自分の翻訳を集めた書物「Songs of Eternal Life (直訳 永遠の生命の歌)」を出版しているので,この詩もおそらくこの本に収められた。

 

 19世紀のアメリカでは,福音伝道師(Evangelist)と呼ばれる人たちが各地を巡回し,会場に多くの人々を集めキリスト教を広める活動をしていた。集会では福音伝道師が二人一組で,自分達が作詩・作曲した讃美歌を歌い伝道の効果を高めていた。

 「いざ起て戦人よ」を作曲したジェームズ・マクグラナハンJames McGranahan (1840-1907)も 福音伝道師の一人で,1876-87年にかけDaniel Webster Whittle (1840-1901)と伝道した。

 WhittleBevanの詩「Rise, Ye Chilren of Salvation」の後半を書き換え,「Song of the Soldier」として McGranahanに提供した。Gospelとして演奏効果がある形に変えたのだろうか。歌詞の著作権は1882 年に登録されている。なお,多くの楽譜に「Arr. from Falkner, 1723, by E.N 」とあるE.NEl Nathanで,Whittleのペンネーム。

 

 まず「Rise, Ye Chilren of Salvation 」と「Song of the Soldier」の2曲を比べる。

Song of the Soldier」がいつ作曲されたのか分からないが,ここに引用したのは1910年に出た「Alexander's Gospel Songs No. 2」に収録されたもの。この曲の出版年として見つけた中で最古*。引用した楽譜は混声合唱用らしい。

* 1910年はMcGranahanが亡くなった3年後。彼が生前に出したGospel集はInternet Archiveで検索するとたくさん出てくるので,1882年以降のもっと古い楽譜があるかもしれない。後述するが,著作権は1910年にAlexanderに移されており,男声版は彼が1912年に編曲したと記されている。しかし,引用した楽譜には編曲の記述がない。ベース音形からすると,この混声版はMcGranahanオリジナルかもしれない。

 

 A氏の報告書によると,男声合唱版「Song of the Soldier」は,少なくとも次の2つに収録されている。

(1) The Gospel Male Choir and The Gospel Male Choir No.2

Combined (1911) by James McGranahan Published by The John Church Company, Cincinnati, New York, Chicago
 

(2) Alexander’s Male Choir, The International Association Quartette*

Book Edited by Charles Alexander (1912) Fleming H. Revell Company, New York, Chicago, Toronto

 

 (2)は下記から参照できる。(1)No.1Internet Archiveで参照できる。しかし,「Song of the Soldier」が収録されているNo.2は,ネット上に見当たらない。

* https://hymnary.org/hymn/AMC1912/81

 

 出版から100年以上経つので,小さく全楽譜を掲載する。

(1)McGranahan死後の出版だが,本人の編集なので,この楽譜がオリジナルと考えられる。

(2)1912年にCharles McCallon Alexanderが編曲した版。1907年にJames McGranahanが亡くなった後,奥さんのAddie McGranahanが著作権を所有したが,1910年にAlexanderに譲渡している*

* 彼の伝記と死後の話は下記リンク先の書物「James McGranahan」で読めるけど未読。興味ある人は読んで教えてください。

 https://archive.org/details/jamesmcgranahanb00pitt

 

 少しややこしいので,以後の言及も含め,関連する出来事を簡単な年表にまとめた。

 Charles McCallon Alexander (1867-1920)はゴスペル歌手として活動し,伝道師John Wilbur Chapmanと組み「チャップマン-アレキサンダー」として活動した*1909年に来日し,神戸,京都,横浜,東京で伝道活動している。関西学院や同志社と交流したのは確実だろう。

 英語版Wikipediaによると,1910年末までに伝道界での支持を失った。A氏の報告書によると,その後「大規模な合唱団を組織して指揮を行い,成功していた。生涯,Gospel Song の作詞や作曲は行わなかったが,D. B. Towner (1850 -1919) などと組んで多くの Gospel Song 集を編集した」とされている。

* アレキサンダーとチャップマンの名前を冠した曲集もいくつかあり,関西学院グリークラブ40年史によると大正3(1914)の演奏曲目は「リバイバル唱歌のアレキサンダーチャップマン氏の本より」だった。80年史では,演奏曲目はCharles Hutchison Gabriel作曲の「O That Will Be Glory」と示された。1909年に神戸を訪問したとき関西学院グリークラブが入手した楽譜からの選曲と思われる。
 アレキサンダー&チャップマンの曲集には,彼ら以外の作曲家の曲も多数含まれており,McGranahanの曲も見つかる。「勝手にコピーして歌うな」という趣旨のことも書いてあり,曲を使う許可を得て載せている。それらの曲集中に「Song of Soldier」が載ってい可能性はあるが,後述のようにその可能性は低いと思う。

 

 McGranahanのオリジナル(と思われる)と,編曲版の冒頭部を比べ,異なる部分を赤で示す。

オリジナルはセカンドテノールをリードテノールとして扱っているフシがある。編曲版では通常の男声合唱的に扱われている。

 また,オリジナルのタイトルは「Song of the Soldier」だが編曲版では「The Song of the Soldier」と冒頭にTheがついている。歌詞は同じ。

 

日本での広がり

 

 日本最古の演奏は,大正9(1920 ) 5 29 日に神戸の YMCA で関西学院グリークラブによる「The Song of the Soldiers」の演奏と考えられる。冒頭に「The」があることから,1912年の編曲版と考えられるが,Soldiersと複数形で記載されている。

 

 戦前に,関西学院グリークラブは「兵士の歌」として,同志社グリークラブは昭和4(1929)4月の沖縄演奏旅行で「兵士の合唱」として,何度か演奏している。

 戦前はグノーの「兵士の合唱」もよく歌われたが,同志社は「マクグラナハン作曲」と記しているため,この曲で間違いない。楽譜はどちらか分からない*。英語ではなく,今は伝わっていない日本語訳で歌われた可能性もある。

* 昭和2(1927)頃から西南学院グリークラブを指揮した内海孝夫は同志社グリークラブ出身で,1912年出版の Alexander’s Male Choirを所有していた。同志社グリークラブはこちらの楽譜だった可能性が高い。

 

 西南学院グリークラブでも当然歌われていた。西南学院グリークラブ100年史「百年の歩み」によると,「The Song of the Soldier」は昭和10(1935)615日の「戦前第2回定期演奏会」で歌われている。タイトルから1912年のAlexander編曲版と思われる。

 日本語に訳された「いざ起て戦人よ」は,「百年の歩み」所収の内海敬三氏「いざ起て いくさびとよ」によると,昭和151031日に大博劇場で開催された「紀元二千六百年を讃える会」が最初の演奏。内海氏は,翻訳はこの祝典での演奏のために行われたのではと推測されている。楽譜の詳細については後述。

 

 戦後になり,昭和22(1947)関西学院が「The Song of the Soldiers」を何度か歌った。

 興味深いのは,昭和24(1949)1211日に神戸大学グリークラブが第2回定期演奏会で「Song of Soldier」を歌っていること。グノーの「兵士の合唱」は英語では戦前からSoldier's Chorusと呼ばれていたので,おそらくMcGranahanの曲。

 冒頭に「The」がなく,タイトルとしては1911年のオリジナルが想起される。このクラブの創立は「神戸大学グリークラブが神戸高商合唱団として誕生したのは,その(注 学校創立の)数年後1906(明治39)年頃だと伝えられています」とあるため,1911年出版の楽譜を持っていた可能性は十分ある。

 これまでこの曲を歌ったのは,その起源からキリスト教系の学校に限られていたが,初めて非キリスト教系の学校が歌ったことになる。

 

 では,日本語訳版はどのように広がったか。

 まず,この歌と歌詞は西南学院グリークラブの関係者が出征する際に歌われ,戦前に博多周辺の男声合唱団に伝わった可能性はある。

 

 関東では,「早稲田大学グリークラブ100年史」に昭和25年の愛唱曲として「いざ起て戦人よ」が載っている。早稲田大学と西南学院の交流は見つけられない。最もありそうなのは,関西学院を通じての伝搬。

 昭和2575日,西南学院グリークラブと関西学院グリークラブは博多でジョイントリサイタルを開いている。A氏のレポートによると,この演奏会の「終演後,「いざ起て」を一緒に歌う」とあり,西南学院から関西学院へ日本語歌詞が伝わったらしい。

 その4ヶ月後,昭和25(1950)1124日に関西学院と早稲田大学は「第1回合同演奏会」を開いている。この場で(打ち上げ等で)関西学院が歌い,早稲田に楽譜が渡ったのではないか。現時点でこれ以外の可能性は考えられない。

 

 この2つの演奏会は曲目が伝えられているが,どちらにも「いざ起て戦人よ」は載っていない。どうやら終演後の席で愛唱曲として歌われたらしい。

 

 次にこの曲が演奏されたのは,昭和28(1953)92日に開催された第2回東西四大学合唱演奏会。この日の合同合唱で,これも古くから歌われる合唱曲「のぞみの島」などとともに,「いざ起て戦さびと」が福永陽一郎の指揮で歌われた(東西四大学でも当時は愛唱曲的な曲目も多く歌われた)

 福永は昭和15年から21年頃まで,14歳から20歳にかけて福岡に住み西南学院に在籍*,高等部グリークラブの定期演奏会にピアノ独奏で賛助しウェーバーの「舞踏への誘い」を弾いたり,中等部のグリークラブを立ち上げたりしている。「いざ起て戦人よ」を知っていた可能性もある。

* 西南学院グリークラブの名簿によると,福永は昭和283月の卒業とされている。確かに「演奏ひとすじの道」にも,昭和254月に「西南学院神学部に編入 グリークラブに籍をおく」とある。しかし,翌年の2月には再び上京。昭和27年には東京コラリアーズを設立している。

 

 出版された日本語訳の楽譜は,昭和34年のグリークラブアルバムが最初になるわけだが,これまで述べた米国の楽譜と一部異なる。

 最終部分を比較する。最上段は1911年のMcGranahanのオリジナル,次段が1912年のAlexander編曲版,三段目は2010年の関西学院グリークラブの曲集「OLD KWANSEI third edition」,最後がグリークラブアルバム(赤本)。グリークラブアルバムと異なる箇所を赤で示した。

 Alexander編曲版では,オリジナルで「トップ対下3声」の部分を「テナー系対ベース系」の構成とし,最後はオリジナルのままセカンドテノールに最高音Dを歌わせ華を持たせている。

 関西学院版は,当初からの伝承版か定かではないが*Alexander編曲版とほぼ同じ。アクセント記号がなくなり,最後から2小節目のベースをオクターブ下のFに移しているが,Alexander編曲版の他の箇所でこのパターンが多く使われているため,それにあわせたものか。

* 「グリークラブアルバム CLASSIC」の解説で,広瀬康夫さんは「”Song of the Soldier”として1911年に出版された」とオリジナルについて言及されている。しかし,楽譜は明らかに1912年のAlexander編曲版による。

 

 グリークラブアルバム版は,ほぼAlexander編曲版だが,終わりに向けセカンドテノールのEsFに下げ,最後の音もDからFに下げ,トップを旋律にしている。そして最終音でバリトンをFからDに下げ和声を合わせている。

 この編曲は,西南学院グリークラブ100周年誌「百年の歩み」によると,「西南で伝統的に歌ってきた」もので,大正8(1919)の同グリークラブ創立時に指導に当たったミス・フルジュムに由来するのではとされている。つまり,グリークラブアルバムに掲載されているのは,「西南学院グリークラブ伝承版」だということ。

 

 では誰がこの編曲を行ったのか。Alexanderの編曲は明治45年または大正元年の1912年に出版され,彼が著作権を持っている。大正8(1919)までに米国で他の人に編曲を許したり,別の編曲を作った可能性は低い。おそらく,西南学院グリークラブが編曲したのではないか。

 なお,西南学院グリークラブの記録で,戦前はタイトルを「戦人よ」「いくさびとよ」等と記している。確かに英文タイトルの直訳は「兵士の歌」だからそうなる。誰がタイトルに「いざ起て」を付けたのか分からないが,元々はネアンダーの曲「Rise, Ye Chilren of Salvation (直訳 立ち上がれ、救いの子らよ)」だったので,原曲を訳したタイトルになっている。設立の経緯を熟知する者による命名なのか,または,冒頭の歌詞をそのままタイトルに持ってきたことによる偶然か。

 

 昭和28年の第2回東西四大学の合同演奏でも,おそらくこの「西南学院グリークラブ伝承版」が日本語歌詞とともに歌われた。タイトルは「いざ起て戦さびと」とほぼ現在のタイトルになっている*

 これを契機に各大学グリークラブに広がった・・と書きたいところだけれど,第2回東西四大学は人があまり入らなかったらしいので,直接演奏を聴き感銘をうけた人は少ないはず。東西四大学の各々が愛唱曲として歌い,演奏旅行等で歌われ,昭和34年にはグリークラブアルバムが出版され,次第に各地で歌われるようになったのだろう。

* 昭和25年の早稲田大学グリークラブ愛唱曲「 いざ起て戦人よ 」については,部史編纂時に校正されている可能性があり,ここでは参考としない。

 

 データは出せないけれど,米国ではあまり歌われていないらしい。米国ではたくさんあるゴスペルの一つに過ぎないからか(米国の福音派は人口の25%程度らしい)

 日本でこれほど愛唱されるのは,藤井泰一郎が巧みな日本語に訳したからに他ならない。原詩のキリスト教の心を,知らないものにはそれと感じさせないように巧みにカモフラージュし,短い言葉で表した苦労はいかばかりだっただろう。最後に,原詩と機械翻訳,苦心の訳を比較して本稿を終わる。

 

以上