「男声合唱」か「男性合唱」か? | とのとののブログ

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「男声合唱」か「男性合唱」か?

 

 コロナ禍で人数が減った大学男声合唱団も,2022年の春はtwitterで拾うと「関学14名,同志社約30名,慶応10名以上」の新入部員がいたようで,ほっと一息つけそうな様子。

 しかし,中には人数が足りず女性の入部で維持しているところもあり,残念ながら出身グリークラブもそう。現役からの通信文には「うちは『男声』合唱団であり『男性』合唱団ではないから,女性が入部しても良い」と書かれていた。OBとしては無くならないことのほうが大事なので,それで良いと思ってる。日本語限定のシャレではあるけれど。

* 「お江戸コラリアーず」は以前は女性も歌っており,その時の団員資格は「男声合唱をすきな人」となっていたけど,現在は「40歳くらいまでの男性の方」とあり男性限定となっている。年齢制限で私も参加できない。

 

 そもそも論で言うと,明治以来male chorusMännerchorは男声合唱と訳されているが大正の終わり頃に山口隆俊が指摘したように直訳は「男性合唱」。それがなぜ男声合唱とされたのか? は調べてみる価値がある。もちろんMen's chorusという言い方もあり,直訳すれば男合唱なのだけれど,ここでは「男声」と「男性」を調べていく。

 「なぜ男声合唱と訳されたのか」という問は「男性という訳語があったにもかかわらず」という前提を含んでいる*。まずは「男性」「男声」の訳語がどう成立したかをフラットに眺めていく。

* 「昔は適切な訳語がなかったから仕方がないけど,今は『男性』という訳語があるのだから,『男性合唱』に訳し直すべき」という意味もありうる。この主張の可否を論ずるつもりはないので,訳語の設立過程をみていく。

 

 ドイツ語は手にあまるので,英語について調べていく。英語のmaleは単なる「男」より,生物的な性別として「男」を意味することばのようで,パスポートの性別欄で英語表記male/femaleが使われる。

 The Britanica Dictionaryによると,名詞としてのmalea man or a boyの意とされるが,「今はこの意味は,科学または技術用語として使われる」とあり,一般的な使い方ではないらしい。

 一方,形容詞としてmale「子供や卵を生むことができない性の」や,「少年や成人男子の特性としての」があり,例としてmale voiceが上げられている。このmalemasculineと同じ意味」とされているが,masculineは「男らしい」「男()の」の意味で,性(セックス)よりも「性質」によった使い方になっている。

 注目は3つ目の意味having members who are all boys or men(すべての構成員が少年または成人男子の)で,用例としてa male choirが上げられている。

 なお,maleは人間だけでなく,動物や植物にも使う。その点では「男性」「男性の」より,「雄」「雄の」という訳が対応として正確だろう。しかし,「雄声」とか「雄声合唱」は,なんだか野蛮な印象を受ける。「男」から文化を剥ぎ取った訳語の印象で,音楽に関する言葉に使うときは,もう少し「文化の香り」を漂わせた訳が好ましいと思う。

* ここで述べたのと同じ体系でfemaleも記述されている。

 

 以上を頭に入れ,これは男声合唱史のブログなので,まず「男声」について調べる

 

 西洋音楽用語は,既存の日本語を流用したり新語創出するなど,苦心の上で翻訳された江戸末期1840年頃,蘭学者の宇田川榕菴(うだがわ ようあん)音程に相当するオランダ語intervalを邦楽の「律」と訳した例があ。邦楽は中国の音楽理論を元に,1オクターブを12に分け各々に音名を付け十二律としているので,律は半音を意味し,うまく対応する。邦楽は平均律ではないので正確な対応ではないけれど

 面白い例として,学校で音楽教育が始まり10年ほど経った頃,ある筝曲家児童の歌唱を聴き,教室では西洋音階で歌うものの「一旦これを各自の気儘に放任する時は必ず第五律(引用注 :ミ 以下同様)は第四律(ミ♭)となり,八律(ソ)も十律(ラ)も十二律(シ)もまま一律(半音)下がる」と短調化していることを聞き取り,律を用いて表現してい*

* この項では以下を参考にした。http://www.lib.geidai.ac.jp/g-selects/tsukahara-select.pdf

筝曲家のエピソードは細川周平著「近代日本の音楽百年 黒船から終戦まで」第三部第一章「唱歌」191ページから

 

 「音程」という訳語は,その40年ほど後の1880年頃,英語のintervalから瀧村小太郎(1839-1912)が造ったとされる。実は現在使われる音楽用語の多くは,瀧村訳に基づいてい

 瀧村は幕臣で奥右筆(老中に付属して,法令・判例の調査や幕府文書の起草にあたった。現在の政策秘書のような役らしい)という地位にあった人で,語学や音楽に堪能。琴や笛だけでなくフルートも演奏する才人で,英国のチャンバース百科事典などを元に「西洋音楽小解」という音楽書の原稿を作成した設置されたばかりの音楽取調掛が彼のその他の音楽訳書原稿買い上げ,アメリカに留学経験がある音楽教育者の神津専三郎(1852-1897)が中心となって校閲,基本的な音楽訳語をまとめた*

 文部省はこの訳語を元に,音楽教師の育成のため明治16年から「楽典」「楽典初歩」「楽典教科書」出版た。

* 瀧村の訳は音楽取調掛の校正より意味が深く,例えば「長調」「短調」を「太旋法」「少旋法」と訳しているが,訳語としてこちらのほうが正確だとする意見もあ

 瀧村については論文がいくつも見つかるが,作曲家の上田真樹さんは博士論文「明治初期における西洋音楽用語の創成-瀧村小太郎と音楽取調掛」で,東京芸大から日本初の「ソルフェージュ博士」を授与された。

 

 このように訳語が作られる中,「合唱」もこの頃作られたと思われ。明治17911東京日日新聞に「コーラスある歌の正則は衆人合唱の為なれば」と記述されている。また,明治18720日の「音楽取調所 第1回卒業演奏会」のプログラムには「埴生の宿 四部合唱」と書かれており,この頃に合唱という言葉が専門家の間では使われ始めたらしい。

 

 では「男声」「女声」はどうか?

 「女声」は,1879年に出版されたL. O. Emerson著「Emerson's vocal method for soprano and mezzo-soprano」を,明治16年(1883年)に瀧村が訳した「愛米児孫唱歌声法」という和装の手稿本で用いたのが最初のようだ*

* 岩﨑洋一児童発声の研究(III)」 福岡教育大学学術情報リポジトリ

https://fukuoka-edu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1448&item_no=1&page_id=13&block_id=21

 

 声区(register)の説明で「中音区」と「フヲールセット」について,「二語同義なり,フヲールセットは女声の模範音区なり」と訳してい女声」の箇所は原著で「female voice瀧村は脚注も見逃さず本文に入れ込み訳してい。「Emerson's vocal method」には低声Emerson's vocal method for Contralto, Baritone, and Bassもあり男声含まれているが,訳されたかどうかわからない

 「愛米児孫」と表記されたLuther Orlando Emerson(1820-1915)は,いくつかの教会で聖歌隊を指導した人で,楽典と練習曲が一緒になった教本を何種類も出しており,インターネット上にスキャンされた教本がたくさんアップロードされている。その一つが「Emerson's New Male Quartets」で,グリークラブアルバム(赤本)の「水夫のセレナード」「Annie Laurie」の出典。当時は彼の曲集や音楽書がたくさん輸入されたのだろう

 

 「男声」の初出は,日本初の音楽専門雑誌「音楽雑誌」の明治23年創刊号の記事「美音(よきこえ)になる秘伝」だろう*

*美音とかいて「よきこえ(良き声)」と読ませているのは興味深い。このような漢字とルビ(読み方)については,「多田武彦のミスマッチについて」でいくつか事例をみたけれど,新しい知見が得られたので,これも別に書くことにする。

 

「欧人の唱歌法は男女の性を分かちて音域の程度(きまり)を定め唱う故に,聴人さえ楽々と愉快に聞得るか如し。之に比すれば吾邦の唱歌法は一種又異なる処ありて,其派其人に依りて男声を以て女性の高くピンとした意気な声に擬せんとするが如く,又女声を以て男性の低くノッペリした,否,牛吠(うしほえ)たる声を真似するが如きは,実に聞くさへ頭の髄が苦しき感(おもい)を覚ゆるなり」

 西洋の歌い方では男女の声域の差に応じて声を出すのに対し,邦楽は性差を考えないので男声で女性のような高音を発したり,女声で男性のような低音を真似て出すのは奇妙で聞くに堪えないと*

 この一文は「男声」「男性」「女声」「女性」を使い分けてい。著者は明らかに西洋の声楽に通じた人で,専門家は明治20年頃には訳語として「男声」「女声」を使い始めたらしいこのあと「美音(よきこえ)になる秘伝とは・・只充分に口を開くことの一点(ひとつ)にあるのみ」と記している。

 

* 西洋音楽になれた我々には何が書いてあるのかよくわからないが,間宮芳生の下記文章が伝統的な日本人の声(音の高さ)について説明している(著書「野のうた氷の音楽」(青土社)所収の「視点」の「声」)

「成人の男女がいっしょに歌をうたおうとすると,男は女より一オクターヴ低い声で歌うのが通例だ。当たり前すぎてあらためて言う必要もないくらいの事と思うかもしれない。ところが日本の民謡や民俗芸能のうたの多く(むしろ大多数)は男女同じピッチで歌う。つまり女は低い地声で,男はかん高いハイテノールの声域ということになる。こうした場合男女の声帯の生理から言って,当然『無理なく』ではなくて,互いに歩み寄り,主に男のほうが歩み寄っているわけだ。といっても無理をしている意識はあまりないはずだけど。(中略)そして互いに相手の声域でうたうとき,男のうたが女っぽくなるのではなく,むしろ,オクターヴ違いの時以上に,女のうた,男のうたであることが一層くっきりする」

 現代では中学生以降だと男女のユニゾンはオクターヴ違いで歌われているけど,それは意識されていない。同じ音(ピッチ)だと思っている人も少なくない。もしかすると合唱人の方が,テノールは女性と同じト音譜表で書いてあるので,誤解している人が多いかもしれない(きちんとした楽譜では,テノールパートはト音記号の下に”8”と書かれていて,8va bassa (表記より1オクターブ低い音を演奏する)と示されているけど,そうでないものが多い)

8va bassaが書いてある譜例。とある混声合唱組曲の冒頭。

 むしろ明治以前の人はピッチを聞き分け意識し,同じピッチで歌うため男性は高音で,女性は低音で歌っており,それが民謡等に残っていると。ある意味で江戸期以前の日本人はピッチを正しく捉えていたわけで,男女が同じピッチで歌うことを自分たちの歌とした。逆に言うと,ハーモニーが育まれなかった理由の一つかもしれない。

 

 一般的になるのはもう少しあと。明治205月の新聞記事では「紳士三十名程にて四部合唱」とあが,明治3812月には「男声四部合唱」と「男声」が記されてい。また,明治40年代の雑誌「音楽界」には,明治452月号にマルシュナーのStändchenが「男声四部合唱曲 『さよ歌』」として掲載された*また,慶応ワグネル65年史で,初めて「男声四部合唱」と表記されたのは明治43年の第15回演奏会から。

*前年12月にクロッスの「墳墓の寂寞 (Grabes Ruhe)」が掲載されたが,こちらは「男性四部合唱」表記だった。マルシュナーのStändchen,「さよ(小夜)については下記参照。

https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12260452743.html

 

 女声合唱は,明治24年の新聞記事で東京音楽学校の女子生徒たちの合唱は「婦人三部合唱」とされていが,明治35年には「女声合唱」となってい。近藤朔風の訳詞で有名な「女声唱歌」は明治43年に出版された。

 

 このことから,「男声」「女声」が一般的になるのは明治40年頃からといえ。合唱がある程度市民権を得て,「混声」「男声」「女声」の違いが意識されるようになったらしい。やはり明治40年代から使われ始めたらしい

 まとめると,男声・女声の訳語は明治10年代に作られ,明治20年代には専門家が使い始め,明治40年代には一般的になった。

 

 つぎに男性はどうか。調査の範囲がひろく難しいが,飛田良文著「明治生まれの日本語」(角川ソフィア文庫)によると,明治6年の独和辞典にEr : 彼 (男性一格の代名詞なり)」と記載され。名詞に性別がある外国語は表記が必要なので,早い段階で使用されたらしい見つけた限りで初出。

 また,小学館の「日本国語大辞典」には初期の例として明治10年に書かれた「博物学階梯」「心蕊は花の女性,髭蕊は花の男性」とある例が載っている。雌しべと雄しべが女性と男性で説明されたわけで,専門分野では明治5-10年頃に使用例があ

 

 一方,明治21年出版の英和辞書「ウエブスター」では,maleの訳は「男の,牡の」であり,また明治22-24年に出た日本語辞書「言海」に「男性」の項目はない明治20年でも,「男性」「女性」は一般的には使われなかったらしい

 「言海」で「男性」に近いのは「牡(を)」で,「動物の子を生ずる性を具(そな)えるもの」「人のヲ(牡)をヲトコ。男子」とあ。「男(ヲトコ)」をひくと第一義は「若く盛りなる男(を)。オトメに対す」とあり,第二義に「後に,老幼を言わず,泛(ひろ)く,男(を)。おのこ。女(をみな)と対す」とあり,昔は動物に準じ人間でも生殖能力あるものを「おとこ」としたが,今は(明治20年頃は)生殖能力に限定せず広く使われるようになったとあ。(引用ではカタカナとひらがなを入れ替えた)

 

 「ふりがな文庫」を検索すると,明治39年の島崎藤村の「破戒」に,「其の粗野な沈欝な容貌が平素(いつも)よりも一層(もっと)男性(をとこ)らしく見える」とあり,読みは「をとこ」だが男性の意味で使われてい

 

 十分ではないけれどまとめると,「男性」は明治10年頃に専門家が使い始め,明治40年頃には一般的になり始めた。つまり「男声」とほぼ同じような経緯で普及していったらしい。

 

 明治10年頃の瀧村や音楽取調掛は一部に使われていた「male=男性」の訳語は認識しておらず,ウエブスターに「male=」とあるように,male voiceをそのまま「男声」と訳したのだろう下手に訳語を承知して,「男性声」や「声」と訳すより,良い訳語になったと思

 18世紀以前のヨーロッパカトリック圏では,教会で女性が歌うことは禁止され,合唱の「高い声」は変声前の少年やカウンターテノールによる「男性合唱」だったため,「男性合唱」が当たり前の表現だった。

 

 明治期に訳語の普及が一律ではなかったため「男声合唱」訳され,結果として150年経った21世紀初頭,一部男声合唱団存亡の危機を救ってくれている。

以上