東西四大学合唱演奏会の発足(9) 補足 戦後の東西交流 全日本合唱連盟について | とのとののブログ

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東西四大学合唱演奏会の発足(9) 補足 戦後の東西交流 全日本合唱連盟について(2)

 

 名称はともかく,昭和21年の発足時から「全日本」と日本中をカバーすることを目標とし,昭和231123日に4地域の参加で始めた「全日本合唱コンクール」は,14年かけて昭和371123日の第15回大会で9地域が参加,名実ともに「全日本」となった。当初は開催を東京と大阪でほぼ持ち回りだったが,昭和28年の第6回は仙台で開催され,以後は原則として持ち回りの開催となった。

 

 最大のネックが「交通費や宿泊費」であり,そのため一団体あたりの参加者を50名に制限し,費用を補助した*。合唱連盟だけでは無理な話で,「合唱の友」には朝日新聞社から「相当の援助をしていただける」と記されている。もしかすると労働省からも補助が出たかもしれない。東西四大学の大学間で交流が始まった際も,その会が1124日頃に設定されていたのは,この「旅費の補助」があったからこそ。

* 昭和421118日発行の「全日本合唱連盟20年史」に掲載されている,昭和4058日に制定された「全日本合唱コンクール基本規約」では,「全日本コンクールでは50名以内」とされ,また「経費は参加団体の負担とする。ただし全日本コンクールに参加するときは経費の一部を主催者側が補助する」とあり,少なくとも一部はこの頃まで補助されていた。「30年史」には昭和52年の春に承認された「全日本合唱コンクール全国大会開催基準要項」が掲載されているが(一部分は「検討中」とされている),参加人数と経費補助は記述がなく,この間のどこかで撤廃されている。手元にある昭和47年の第25回大会高校の部のLPの収録団体では人数が62名-91名で,その時点で少なくとも人数制限は撤廃されている。

 

 では,戦前のローカルに開催されていた合唱コンクールが,「国民音楽協会と競演合唱祭が全日本的に拡大され」(全日本合唱連盟20年史)たのはなぜか? もちろん,移動の時間と費用が大変なことは当然だけれど,これは実は戦前と戦後(当時)で大きく違わない。これは最後に補足として記述する。

 

 大きく2つの理由があると考えている。

 ひとつ目は,戦争中の「挙国一致」体制の中で,国民に「全日本」という意識が徹底されたたのではないか。大正15年に本放送が開始されたラジオは,今で言うインターネットのような役割を果たした。政府がラジオ聴取を推奨したこともあり,昭和6年の満洲事変後はラジオ台数が急増,全国民が同時に情報を得られるようになった。

昭和15年には大政翼賛会が発足,傘下に大日本産業報国会,農業報国連盟などを設け,国内の一元化が進んだ。音楽については日本音楽文化協会が設立された。

 

 そして二つ目に,音楽が統制に活用されたことも戦後につながる点で重要だと思う。「合唱連盟20年史」に山本金雄*

「この時代はすべてが戦意昂揚のの名のもとに行われ,国民皆唱が叫ばれ,家庭に職場に,老若男女を問わず,軍歌をうたうことが強調され,歌うことが如何に必要欠くべからざるものであるかということが,軍部は勿論一般の国民一人一人の頭に染み込んでいった。このことは戦後の合唱界に大きなプラスの面として残されていったわけである」

と記している。

* 1920年生まれ? 指揮者,千葉大学教育学部音楽科,日本の合唱曲や合唱史に詳しい。

「合唱連盟20年史」執筆時は,全日本合唱連盟の常任理事だった。

(2022/6/9追記)

 雑誌「合唱界」vol.4-no.10(昭和35)で磯部俶は「十分間インタビュー」で山本金雄を取り上げた。

「山本君は中学時代からの知り合いだからである。(今回は山本金雄氏に会ってくださいと電話してきた編集部も,まさか知るまい)旧姓の都立一中で私が五年の時,彼は確か三年生だったように思う。それから上野(今の芸大)を経て,現在は東京放送合唱団の重鎮として歌ったり,また指揮をしたりで活躍中だ。指揮は齋藤秀雄氏の下で数年も勉強した経歴を持つ」

磯部は大正6(1917)生まれなので,山本は大正8(1919)生まれらしい。磯部も東京放送合唱団で歌ったので,そちらでも仲間だった。

 

 戦時中の音楽の活用については,すでに絶対音感について取り上げたけれど,たくさんの優れた研究と書物があるので記述は省略する。一例を以下に記す。

 

●戸ノ下達也著「音楽を動員せよ ―統制と娯楽の十五年戦争」

「近代日本の歩みとともに大衆化した音楽は、十五年戦争期にどのように「戦争の手段」として活用され、人々に愛され親しまれたのか」Amazonに引用された「Bookデータベース」から。

 

●上田誠二著「音楽はいかに現代社会をデザインしたか」

大正から戦前の昭和にかけて,日本社会の秩序意識や社会意識が,音楽の視点から読み解く。戦前の絶対音感教育についてはこの本も参考にした。

 合唱に関しては,昭和21828日の文部省通達で「絶対音感による固定ド唱法が停止され,相対音感による移動ド唱法が再開された」ことにより,音楽教育は「絶対音感という能力主義的な”自律美”の獲得を第一義とした戦中の音楽教育から,一九三〇年代的な”調和美”重視の音楽教育へ復帰したのである」が興味深い項目。

 

●辻田真佐憲著「日本の軍歌」幻冬舎新書

軍歌というと現代ではイメージが悪いけど,当時は「民衆の歓迎するエンターテインメント」だった。特に面白いのは第五章。大本営海軍報道部の大佐が講演会「戦争と音楽」で,「音楽は軍需品なり」と口走り,音楽業界もそれに乗って総力戦体制に組み込まれていく。

 

●渡辺裕著「歌う国民」

唱歌,校歌,県歌,社歌,労働歌やうたごえ運動など。日本人の共同体形成に関わった歌について。エピソードが豊富で読みやすい。大正末期から昭和初期にかけ,校歌や社歌の制定がブームになったことは興味深い。北原白秋・山田耕筰の黄金コンビによる曲もたくさんあり,彼らは「校歌や社歌を『国民歌謡』,つまり国家体制や国民としての自覚に結びついた曲の中でも,その枢要なものと捉えていた」らしい。

 

●河西秀哉著「うたごえの戦後史」

昭和初期に大衆社会化が進んだことで福利厚生の一環として職場合唱団が組織されるようになった。昭和151123日には大日本産業報国会が設立され,労働組合を一元管理し総力体制に組み込むんた。 日中戦争が続く中,人々の統制への不満に対策するため職場合唱などを通じ,労働者の娯楽や文化を全体主義的に再編した。

 このような厚生運動のなか,産業報国会の音楽部門の担当者として指導的立場にあったのが清水脩だった。

 

 今では男声合唱組曲「月光とピエロ」等の作曲家だと思われている清水脩は,「うたごえの戦後史」に記されているように,戦前から戦後をつなぐキーパーソンだった。戦前は作曲家というより,音楽評論家や指揮者としての活動が目立ち,職場合唱団を指揮し大会で優勝したり,合唱指導に関する本を執筆した*。「産業報国会の音楽部門の担当者」でもあったため,おそらく内務省にコネクションがあっただろう。

* 信時潔と山田耕筰に代表されるように,戦前の国家との関わりと戦後の振る舞いの関係について様々な議論があるが,ここでは立ち入らない。清水が戦前に書いた本を読むと,導入等に国家との関わりは記されているが,中身は技術的なことや合唱団運営の実務に関することがほとんど。

 

 目的を一旦カッコに入れると,戦後の国民にとって「歌うことが如何に必要欠くべからざるものであるか」の認識があり,挙国一致体制の中で「全日本」意識が確立したことが,戦後の活発な東西交流につながった。そこで重要な役割を果たしたのが日本合唱連盟(全日本合唱連盟)であり,全日本合唱コンクールである。

 

 実は「全日本」的な取り組みは,戦前は吹奏楽が先行していた。昭和14(1939)に大日本吹奏楽連盟を発足させ,昭和15-17年に第1~第3回の「全日本吹奏楽コンクール」を開催している。会場は大阪,名古屋,福岡だった*。 

全日本吹奏楽連盟のホームページ http://www.ajba.or.jp/company.html

* 戦後の「再結成」は昭和291114日で全日本合唱連盟より8年遅く,第4回のコンクールは昭和31129日と同じく8年遅い。体一つで演奏できる合唱と異なり,吹奏楽はたくさんの楽器を揃えなければならない点で,ハンディがあった。

 

 吹奏楽はよく知らないので,戸ノ下達也編著「<戦後>の音楽文化」の「全日本吹奏楽連盟」の項を参照する。

「全日本吹奏楽連盟の歴史は,一九三九年に大日本吹奏楽連盟として結成されたことにさかのぼる。それ以前には,関東,関西,東海地域に吹奏楽連盟があり,三十七年十一月に三つの連盟代表者が集まり協議を重ねたが,結成には二年の歳月を要した。その目的は,全日本吹奏楽コンクールとそれに伴う講習会を全国展開することだった。その影響により,それまで連盟がなかった地域にも吹奏楽連盟が相次いで発足することになる」

 実に興味深い。「結成には二年の歳月を要した」とあるが,この間どんな議論が行われたのだろう。そして,吹奏楽連盟の設立過程は,全日本合唱連盟のものと全く同じ。まず関東,関西,東海などに合唱連盟を発足させ,全日本組織を作り,その他の地域に連盟を立ち上げていく。コンクールと講習会を主な取り組みとする点も同じ。

 全日本合唱連盟は,戦前の大日本吹奏楽連盟の設立過程を忠実にトレースし設立されたことががはっきりわかる。成功体験があるのだから,それを応用し進められたのだろう。

 

 この点について,雑誌「合唱サークル」の記事「連載 日本の合唱百年史」の第4(vol.2-bo.10)で,野呂信二郎*が語っている。

 戦前の大日本吹奏楽連盟は「朝日新聞の影にかくれて日管(注 日本管楽器株式会社)の大村兼次さんや,当時,日管に関係しておられた目黒三策さんたちの非常な後援があったことを忘れることはできません」とあり,日本管楽器株式会社がバックアップしていた。目黒三策は音楽之友社の「事実上の実力者だった」。日管のバックアップは,吹奏楽が盛んになれば楽器が売れるのだから,Win-Winの関係だった。

 合唱については,戦前はそのような動きがなかったのか,後援してくれる会社がなかったのか,結果的に全国的な連盟は発足しなかった。

* 野呂信二郎(1909-1987)は,朝日新聞学生部を経て音楽評論家になった人。全国高等学校野球大会の大会歌「栄冠は君に輝く」の作曲を古関裕而に依頼に行ったことが有名。

 

 終戦後直ちに,オリオンコールのメンバーで「合唱の鬼」と言われた吉田永靖が野呂に「合唱コンクールを復活させたい」と話し,野呂は目黒三策に(戦前の)吹奏楽連盟は日管楽器の力で確立しました。新聞社が起案して,天下りに組織を作ることは感心しないので,基盤を作ってくれる人がほしい。それには音楽之友社のあなたに力になっていただく以外に方法はありません」と説得した。野呂はすでに,合唱コンクールは戦前のような地区別ではなく,戦前の吹奏楽のように全日本大会とすべきで,そのためには「全日本合唱連盟」が必要だと考えていたらしい。

 当時,大阪は東京より音楽が盛んだったため,野呂と目黒が相談した大阪朝日新聞本社の企画部長だった逸見俊は即座に賛成し,合唱連盟発足の準備を始めることになった。大阪で大体の案が決まり,その時たまたま大阪にいた九州吹奏楽連盟理事長の山内常光が九州合唱連盟(朝日新聞の西部本社があったので,西部合唱連盟とされた)の立ち上げに動いた。山内は元陸軍戸山学校軍楽隊長で, 本来は吹奏楽の人だった。

 関東でも連盟を立ち上げることになり会合が開かれたが,目黒は出席せず,代わりに音楽之友社に勤めていた清水脩が派遣された。戦前の「産業報国会の音楽部門の担当者」だった清水が,たまたまか意図的か分からないけど出席したことで,組織づくりが具体的に進み始めた。関東合唱連盟は木下保を理事長として発足したが,日本合唱連盟とともに実務は常任理事だった清水がこなしていったらしい。

 

 こうして昭和21211日に発足した日本合唱連盟だが,最初の2年は目立った仕事はしていない。「合唱の友」によると,日本合唱連盟編纂の楽譜を9曲出版したとある。

そして食糧事情等が改善された昭和231123日に,創立以来の念願だった全日本合唱コンクールを開催した。

 主催者としての労働省は,戦前の内務省にコネがあった清水が話をつけたのではないか。まだまだ,戦前の「職場の福利厚生」的な認識が高かった。平成13(2001)に労働省は厚生省と統合され厚生労働省となったが,後援は平成24(2012)の第65回まで続いた。65回までは「大学・職場・一般部門」に分かれていたが,第66回から編成区分が「大学ユース合唱の部・室内合唱の部・同声合唱の部・混声合唱の部」と変わり,職場部門がなくなったためだろう。

 

 日本合唱連盟の発足について,山口隆俊は「日本合唱連盟結成については終戦前に澤崎定之教授を中心に,ドイツの合唱連盟規則の研究,組織のあり方の比較研究に当たったり,自費で地方に旅に出てその結成をすすめたりして,今日の土台の棄て石役をやった」としている(「合唱界」vol.2-no.6)。これがどう影響したのかしなかったのか,分からない。

 

(補足)

 交流の最大のネックが距離と費用なのはいうでもない。

戦前は特急「つばめ」が東京-大阪間を8時間20分で走った。復活したのは昭和25(1950)のことで,8時間で走っている。時間的には戦前と戦後は同等。

 料金は,「公共料金の推移 https://coin-walk.site/J068.htm」で,東京-大阪間を一番安い三等車でみると,乗車料金は昭和56.06円,昭和15年は6.35円なので殆ど変わらず6円程度。特急「燕」の特急料金は三等で2円程度。つまり戦前は片道8円程度の料金だった。

 戦後はインフレが激しいが,三等車乗車料金は昭和254月で620円,昭和2611月で770円。特急料金は400円から500円へ値上がり。合わせておよそ1,200円というところ。

 企業物価指数*で換算すると,戦前の代表として昭和15年は1.641,昭和26年は342.5なので物価はおよそ210倍。なので,戦前の8円は昭和26年のおよそ1,670円に相当し,旅費は戦前の3/4程度に軽減されたことになる。しかし,劇的に安くなったわけでもない。

 東西四大学の加盟校は,移動は夜行列車で12時間程度かけていたようで,費用はもっと安かっただろう。

* 企業物価指数等については下記参照。https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/

 

(以上)

 

あとがき

東西四大学の発端をまとめるつもりが,想定外の長編になってしまった。疑問に思ったことを調べていくと,こうなってしまう。「東京コラリアーズ縁起」の最初の一節を紹介したのは2020年12月30日のことで,2年以上経ってまだ第二節を紹介していない。。「グリークラブアルバムの研究」も「日本曲編」が終わったところで中断しているので,そろそろ両方の続きを書かないといけない。しかし,あと2つほど書いておきたいことがあるので,再開までしばらくかかりそう。。