東西四大学合唱演奏会の発足(8) 補足 戦後の東西交流 全日本合唱連盟について | とのとののブログ

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戦後の東西交流 全日本合唱連盟について

 

さて,戦前にも合唱団の交流はあったけれど,なぜ戦後に東西四大学など東西交流が盛んになったのだろう? 少し拡張すると,戦後に「全日本」的な取り組みが出てきた背景はなんだろうか?

 

 例えば,戦前の東京では,今の合唱コンクールにあたる「合唱音楽祭(競演合唱祭)」が国民音楽協会主催で開催された。どの地域の合唱団も参加でき,実際に昭和8年の第7回に関学が出場し,以後昭和10年の第9回まで3連覇の偉業を成し遂げた。しかし,これは例外的で,参加団体はほとんど関東の合唱団だった。

 関西でも何度かコンクールが開催されたが,参加は関西からしかなかった*。戦前は関東と関西はあまり交流がなく,各々独自の合唱文化を育んだ。

* 採点し順位を決めるコンクールはフランス式(コンクールはフランス語)で小松耕輔が東京で導入,ドイツで盛んだった合唱祭形式は長井斉らが関西に取り入れた。共に合唱技術の向上を目指し最適と思う方式を取り入れた。それが関係するのかはっきりしないけど,荒っぽく言うと東京では声を重視し,関西ではアンサンブルを重視する合唱が発達した。

 

 敗戦3ヶ月後の昭和2011月に西部合唱連盟が発足,昭和21211日に関東合唱連盟,同じ頃に関西合唱連盟,東海合唱連盟(中部合唱連盟の前身)が発足した。これらの連盟が集まり,直ちに日本合唱連盟を組織した。戦前にはなかった取り組みが敗戦後の半年で立ち上がった*。

 日本合唱連盟は実質的に全日本合唱連盟だが,発足日は昭和231123日とされている。後述するが,これはおそらく清水脩が作った「神話」。

* https://ameblo.jp/tonotono-57-oboegaki/entry-12343097719.html

 

 なぜならば,当時の合唱コンクールのプログラムや課題曲集や新聞記事をみると,ある時点で「組織名を変更」したのではなく,2つの名称が混在するうちにいつのまにか「全日本合唱連盟連盟」になった。「全」の有無は,関西合唱連盟の例に習い,複数の組織が集まって上位組織を作るときは「全」とされ,上位組織が一つあるとき,または,先行して存在するときは「全」はつけられないようだ。少し長くなるが,この間の事実関係を整理する。

 

 組織名について,全日本合唱連盟の音楽資料室に保管されている当時の資料をみていく。

 まず全日本合唱コンクールのパンフレット表紙をみると,主催は昭和23年の第1回と昭和24年の第2回の主催は日本合唱連盟で,昭和25年の第3回から全日本合唱連盟となる*。この時点で「全日本合唱連盟の発足は昭和231123日」が「神話」だとはっきりした。

* 所蔵番号は念のため目隠しした。労働省が主催で,文部省は後援である点も興味深い。後に考察する。

 

 いっぽう,第2回パンフレットの理事長挨拶では,「日本合唱連盟理事長」である会長の小松耕輔は「全日本合唱連盟理事長 小松耕輔」と署名している。文中でも「全日本合唱連盟の結成されたのは去る昭和二十一年でありますが」と「全日本合唱連盟」となっている。小松は昭和24年時点で「全日本合唱連盟」だと認識していたことになる。

 

 以上,全日本合唱連盟の正式発足日はなく,日本合唱連盟がなし崩し的に代わっている。連盟史にある「昭和231123日」は過ち,または,清水脩の創作とみるべき。資料を見る限り,合唱連盟の発足日は昭和21(1946)211日以外にない。

 

 新聞を参照すると,確かに昭和21212日に発足の記事がある。興味深いのは,昭和231119日の記事で「第一回全国合唱コンクールは全日本合唱連盟と朝日新聞社の共催」と広告されている。昭和23年の3月の「合唱の友」で既に,全日本合唱コンクールと呼ばれているので,それに引きずられ全日本合唱連盟と言う人も既にいたのだろうか。

 

 では,なぜ日本合唱連盟ではなく全日本合唱連盟となったのか? そもそも日本合唱コンクールではなく,なぜ当初から全日本合唱コンクールと呼ばれていたのか?

 日本合唱連盟は,関東・東海(のちの中部)・関西・西部の4連盟と実質的に同時に発足した。その時点で「支部」が存在しない地域もあったため,「全」を冠するつもりはなかったのだろう。一方,昭和233月発行の「合唱の友」第一号に「日本合唱連盟として,毎年問題になっていながら,いろいろの事情で実現できなかった全日本のコンクール」という文章があり,コンクールは全ての地域からの参加者(代表者)による競い合う大会としたいという意識があり,こちらは当初から「全日本」とされていたのではないか。

 

 各地域の合唱連盟発足時期と,全日本合唱コンクールへの参加を時系列に図示する。

当初4団体で発足した日本合唱連盟は,全日本合唱コンクールへの参加が5地区になった頃から「全日本」の意識が強くなり,昭和25年に6地区となり,あますところ中国と四国となった時点で,意識が「全日本合唱連盟」に切り替わったとみえる。

* 北海道は合唱連盟が発足する前に全日本合唱コンクールに代表を送っているが,職場の部のみの参加だった。当時すでに,昭和22年に小樽合唱連盟が結成されており,札幌や旭川は昭和251月の北海道合唱連盟設立に前後して結成された。この年のコンクールからは全部門に代表を送っている。

 

(続く)