Albert Duhaupas “ MESSE SOLENNELLE”について (8) | とのとののブログ

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Albert Duhaupas “ MESSE SOLENNELLE”について (8)

  補足編 Orphéons(オルフェオン)と日本の合唱コンクール

 

 以後,一般的な合唱の話になるけれど,オルフェオンとの関係としてみていく。小松耕輔(玉巌)は,明治17(1884)生まれの音楽家。東京音楽学校に進学後,明治期に雑誌「音楽界」で合唱曲を紹介し,またメンデルスゾーンの男声合唱曲などを含む「名曲新集」を編集・出版するなど合唱曲の普及に努め, 学習院助教授だった大正9(1920) から大正12(1923) までパリに留学。帰国後国民音楽協会を設立し,昭和2年に日本で初となる合唱コンクール「合唱音楽祭」を開催した。「合唱音楽祭」開催の経緯は,長木誠司「戦後の音楽」の「第2章 合唱とうたごえ」や戸ノ下達也「日本の合唱史」などでまとめられている。

 この経緯は私も何度も読んだけれど,合唱を普及させるため海外の例に習って開催したのだろう程度の認識しかなかった。今回,井上の論文「小松耕輔と第 1回合唱競演大音楽祭(1927)」で「小松が日本で合唱祭を聞く際にフランスのコンクール形式での開催にこだわった理由」を研究する余地がある(必要がある)と述べているのを知り,大変面白い着眼点と感じた。

 

 この問いかけは「音楽といえばドイツ」という前提の上に成り立っている。明治のはじめ,伊沢修二や米国人メーソンにより米国の教育システムを取り入れた日本の音楽界は,それを主導した音楽取調掛がドイツ傾斜を深め,その使命を教育システムの確立から一流音楽家の育成へと変えていく中,滝廉太郎や幸田延を米国ではなくドイツに留学させた*。大衆も,竹中亨「明治のワグナー・ブーム」に記されているように,聴いたこともないワーグナーの音楽に憧れ崇拝するという現象が起きたドイツ音楽が至高という認識が広がった(それが書物から得た知識であるとしても)

 つまり,井上の問いかけは「なぜドイツ式のコンクール(Wettbewerbというべきか)でなく,フランスのコンクールConcoursを採用したか?」という意味である。小松が留学した当時,ドイツの合唱運動は盛んだったが,活動は優劣を競わないフェスティバル方式,つまり合唱祭形式が主として行われていた。ドイツ式でなくフランス式を小松が採用した理由は,彼がパリに留学し,その際に見たコンクールに民衆と音楽の理想形を見て感動したからとされているが,果たしてそれほどシンプルなのだろうか?
 

* なぜ米国のシステムだったかについては,または,なぜ音楽や合唱(当時の言い方で復()音唱歌,重音唱歌)を取り入れたかは,安田寛「唱歌と十字架」や中村理平「キリスト教と日本の洋楽」などで研究されている。一部は私のホームページ「合唱という言葉はいつ頃から使われたのか?(https://male-chorus-history.amebaownd.com/posts/1669216)で紹介している。
 現在でも音楽に関しては英語が多く使われているのはその名残だろうか。ピアノやヴァイオリンなどの楽器名,コンサート,オペラ,オーケストラ,そしてもちろんコーラスもそうである。ドイツ語なら,クラビアKlavier,ガイガGeige,コンツァートKonzert,オーパルOper,オーケスタルOrchester,コールChorとなる。その中でコンクールというフランス語は珍しい。
 竹中によれば,音楽取調掛がオーストリア人ディトリッヒを雇用したことが,ドイツ傾斜のきっかけとなったらしい。「ドイツ音楽万能主義」は日本だけでなく米国などでもそうで,「イタリアやフランスの音楽文化はもともと娯楽性が高く,音楽の中に『世界の救済』だの『言葉に尽くしがたい無限のポエジー』だのといった形而上学を求めたがる伝統は,そこにはなかった。それをドイツ側から見れば,『不逞無頼の徒』がやる,唾棄すべき軽佻浮薄な音楽ということになるのである」であった(岡田暁生「音楽の聴き方」)。のちに,小松が和声を習ったフランス人教師ノエル・ペリーが「音楽学校のドイツ閥によりいじめ出された」らしい。

 

 

 小松が見たオルフェオンのコンクールは,日本人にとって華やかだったかもしれないが,先程みたように既に下り坂であり,そのレベルも高くなかった。小松はドイツにも旅しており,おそらくその違いを分っていただろう。英米の合唱団のレベルについても知っており,早くからフランス音楽に目を向けていた小松だからこそ*,単なるフランスびいきからコンクールを選択したのではなく,比較検討の上で選択したと思われる。

 音楽が民衆の間に広がることを願っていた小松は,特に日本で発達が遅れている合唱を普及させるため,コンクールを使うことを考えた**。彼が書いた昭和22月の東京日日新聞の「音楽を民衆へ -合唱大音楽祭について-」では,「競演(コンクウル)は実に民族音楽の花である」と力説している。

 しかし,実際に開かれた第1回「コンクール」は,「合唱コンクウル」でも「合唱競演会」でもなく,ドイツ風のフェスティバルのイメージスが強い「合唱音楽祭」と名付けられた。これは,競演(競い合う)とすると恐れをなし参加団体が少ないのではと懸念したためだとか,音楽家の中からも「音楽を相撲と同じく勝負を争うことは音楽の神聖を汚す」と反対の声があったため,とされている***。名前ではなくスタイルという実が重要,ということだ。

 こうして開催された第一回は11団体が参加したが,実際は「高等学校や大学方面の合唱団は二,三しかなかった。従って第一回のプログラムの編成には実に苦労した。方方へ借り出しに出かけて,ようやく間に合わせた」という状況だった(合唱界 vol1 no.7 (1957))。プログラムを見ると,「音楽嗜好会」という同好会から男声・女声・混声の3団体がでいる。秋山日出夫によれば,「わずか12団体(ママ)に審査員が三十二三人いたのです。要するに楽団の長老を全部網羅しちゃって,ラッパを吹く人や,チェロを弾く人や,軍楽隊の隊長まであつめて審査をやった」ということで,こちらも噴飯ものだけど,苦労の跡が偲ばれる。もっとも,山口隆俊(後述)のスクラップ帳に残されたプログラムをみると,何人かは来られなかったようだ。

 

* 明治42年刊の「名曲新集」の中扉は「NOUVEAU RECUEIL de CHANSONS SENTIMENTALES par K. Komatsu」とフランス語で記されている。

 

** 山口篤子「国民音楽協会と合唱音楽祭の初期事情 -小松耕輔の民衆音楽観を中心に-」にオリオンコールの指揮者だった吉田長靖の述懐が引用されている。それによると,ピアノ製作者の齋藤喜一郎から小松清(耕輔の兄で仏文学者・作曲家)にピアノを1台寄贈するから有意義に使ってほしいと申し出があり,小松は「兄の平五郎(:小松の兄で指揮者・作曲家)とも相談の上,評論家・三潴(みずま)末松のところへ話を持ち込んだ。そこで合唱が一番振るわないからコンクールをやって1等にこのピアノを与えたらいいと話がまとまった」
 この話が本当なら,コンクールの開催は小松耕輔一人の考えではなく,合議的にきまったことになる。そして,ピアノが一台しかないから順位をつけるコンクールでの開催が必然となる。なお
「男声合唱団 東京リーダーターフェル1925 55年史」によれば,賞品はオルガンとなっている。

(2018/11/1追記)

 山口が引用する「音樂之友 vol3-1 (S18)」を読むと,入賞者には金・銀・白銅・銅のメダルのほか,副賞としてピアノ・オルガン・蓄音機などが渡されたとある。つまり東京リーダーターフェルは2位だったから「賞品はオルガン」としている。

 1位の賞品ピアノは,一位の内外オラトリオが受け取らなかったため(後述のように指揮者と団員の半分がドイツ人で,大人と子供以上のレベル差があった),東京リーダーターフェルに贈られることになったが,こちらも1位でないからと受け取らない。当日は結論が出ず,重いものなのでそのままにして帰ったところ,翌日ピアノはなくなっていた。自動車がきて持っていったらしいが,どちらも受け取っていないという歯切れの悪い結果となった。吉田は「ピアノは行方不明になったが,子供(コンクール)は健やかに成長した」とうまく締めくくっている。

 

 

*** 小松自身はコンクールと名付けたかったが,「相当の大新聞でもコンクールとコンクリートと間違えるものもおった時代だから」と日本語にした理由を述べている。

 なお,コンクールConcoursは,気性的にフランス人にあうのかもしれない。山口隆俊(同志社グリークラブ出身,東京リーダー・ターフェル・フェラインを創立)が,雑誌「民謡音楽(vol.2 no.5(1930))」に寄稿した「民族文化として見た男性合唱競技」で次のように述べている。
「仏国に於ける合唱競技Konkursコンクールは、有名なる男性合唱団オルフェオンOrphéonの主催する所であるが,其大体は白国の其と大同小異で,終始競技に勝利を獲得する事を目的とし,合唱の喜びを共にすると云った民族的意識に立脚して居ない処が其特色であって、此点は日本の此種催も又同様である」

 山口は小松のように海外を視察していないので,フランスやベルギーに対する見解は自身のものではなく,彼の蔵書「エルベ博士著『民族文化として見た男性合唱発達史』」によるものだろう。なお,コンクールをKonkursCKに変えドイツ語風表記にしているが,これでは「破産」という意味になってしまう。

 

 井上の考察では触れられていないが,前述の「音楽を相撲と同じく勝負を争うことは音楽の神聖を汚す」とした音楽家の言動はこの問題を考える一つの鍵である。「合唱界 vol1 no.10 (1957)」によれば,これは慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団を指揮した大塚淳(すなお)である。

「一番反対したのは声楽の大塚順(ママ),なかなかいい男なのだが,ガンとして聞かない。『合唱は角力じゃない。競技扱いするのは神聖を害す』ということでね。ところがこの男,外国に行って始めて(ママ)事情がのみこめた。『どうもあいすまん』ということになって,『時事新報』の合唱コンクールには,有力なメンバーとして活躍してくれた」

 大塚は留学先のベルリンで,何を見て,なぜ「フランス式のコンクールに賛同」する立場へと考え直したのだろう?

 

 おそらく,小松も大塚もドイツのように「合唱を楽しむ」レベルから,日本はほど遠いと感じたのではないか。楽しむためには,あるレベル以上の技術的基礎がいる。まずは技術を鍛錬しレベルアップを図り,日本人による一流の合唱が聴けるようにならなければ,民衆レベルでの合唱の普及はない,と認識した。小松はオルフェオンのレベルが高くないことを理解しながらも,そのレベルに及んでいない日本はまずコンクールと考え,合唱を指導していた大塚も実際に現地で聴くドイツの合唱に圧倒され,小松と同様に考えたのではないか。そのためには,芸術という名のきれい事を言うのではなく,「角力のように」競い合うことが有効だと。エビテンスはないけれど,想像としては当たっているような気がする。そのためには,景品としてピアノを利用することも辞さない。

(続く)