Albert Duhaupas “ MESSE SOLENNELLE”について (7) | とのとののブログ

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Albert Duhaupas “ MESSE SOLENNELLE”について (7)

  補足編 Orphéons(オルフェオン)について

Guillaume Louis Bocquillon Wilhem

 

 フランスでは,革命歌や賛歌が消え去り,19世紀初頭は合唱活動が低調だったが,リーダーターフェルの影響を受け,次第に盛んになっていった。オルフェオンは,音楽教育で名を上げたギョ ー ム ・ルイ ・ヴィ レ ム(Guillaume Louis Bocquillon Wilhem (1781-1842))1833年にパリで彼の生徒たちのために合唱団を結成,オルフェオンと名付けたのが始まりとなる*1835年には労働者階級も参加できるようになり,翌年には児童と成人男性のための初めての公的な組織として「パリ市オルフェオン協会」へと昇格した。ヴィレムの死後もシャルル・グノーを監督に迎え,名声は更に高まり,1830年台はパリ市オルフェオン協会以外にも合唱団体も増え,1850-1860年代にかけオルフェオンは全国に広がり,総称名称として使われるようになっただけでなく,吹奏楽団にも用いられるようになり,アラスにも1845年にオルフェオンが創立された(デュオウパは1854年から指揮者だった。Orphéonistes d'Arrasは現在も混声合唱団として存続している)

 

* オルフェオンとは,ギリシャ神話に登場するオルフェウス(フランス語ではオルフィーOrphée)に由来する。彼が歌えばどなな猛獣も足元にひれ伏し聞き惚れたという。妻が死んだ際,冥界まで連れ戻しに行き,その音楽で冥界の王ハーデスの説得に成功するが,「地上に着くまで振り返ってはいけない」の言いつけを守れず失敗したという話が有名。

 

 1855年には合唱オルフェオン300と器楽オルフェオンが400を数え,1860年にグノーが指揮していた頃には,3200団体約15万人が参加しており,1870年にはフランス全土で7000団体まで増加した。 合唱や声楽の授業も活発になり,パリのコンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽・舞踊学校)でも声楽家の生徒はみな合唱の講義に出る決まりとなった。オルフェオンの雑誌も続々創刊され,1855年「オルフェオン」,1861年「エコ・デ・オルフェオン」「フランス・コラール」,1883年週刊「ラ・モンド・オルフェオニック」などがあった。

 リオンで開催された1869年の合唱コンクールに参加したオルフェオンについて,団員たちの職業を調査した記録が残っている。それによると「労働者3068名,農民920名,従業員896名,実業家・商人756名,地主・金利生活者394名,教授・教師・芸術家312名,・・・公爵1名,羊飼い1名,上院議員1名」と様々な階層の人が参加しており,特に従来音楽活動とはあまり縁がなかった社会の低い階層に集中していた(井上さつき「音楽を展示する パリ万博1855-1900(法政大学出版局)より)

 オルフェオン団体の,毎年の目標はコンクールやフェスティバルでよい成績を収めることにあり,主催者側も様々なメダルや賞金を出しモチベーションを高めた。ローラン・ド・リエ(Laurent de Rillé (1828-1915)),グノー,サン・サーンスもオルフェオンのために曲を書いた。井上の本や論文には,知られていないたくさんの男声合唱曲が記されている*

 

* フェリックス・ロージェル「合唱」(文庫クセジュ)に,「ローラン・ド・リエが作ったオルフェオン用の合唱曲はおおいにもてはやされた」とあり,清水脩によれば100以上の男声合唱曲を書いたらしい。井上の論文から,彼の合唱曲として「サ ン・ユベール La Saint-Hubert 」「退却 La Retraite 」「村の婚礼 La Noce de Village」「エ ジプトの息子たち les Fils d’'Egipte」「アヘン吸引者たち Les Fumeurs d'opium 」などが拾い出せる。

 

 前述のように,メンバーが音楽の「素人」である以上,上位を目指すには音楽の専門家が指揮者を務める必要がある。デュオウパがアラスのオルフェオンの指揮者になったことも,その意味で歓迎されたのであり,実際優秀な指揮者でありコンクールで何度も優秀な成績だったことは経歴に細かく記されている。デュオウパのミサはオルフェオンのために書いたものだけど,フランスではオルフェオンとは別にプロテスタントの合唱音楽を復興する運動もあったらしく,これはアレクサンドル・セリエが指導者だった。
 

 これほどの熱意があり多額のお金も動いたオルフェオン活動だけど,wiki(フランス版)によれば,今日ではバスク地方を除きほとんど忘れ去られているにしい。20世紀に入り,民衆の関心は次第にオルフェオンからスポーツに移っていった。フェリックス・ロージェルは「スポーツ団体の補助金をもう少しへらして,わがフランスの音楽協会をもうすこし助けてもらえないものか!」と愚痴っている(原著は1948年刊行なのでそのころの状況)

 なぜ衰退したのか,フランス語の資料を英訳し読んでも私には良く分からない。1つには,政治的な理由によるもののようで,愛国的運動としてのオルフェオンは否定的な評価らしく,wikiの英訳によれば「オルフェオンの記憶を消すことが必要」「意図的に公式の歴史学、特に学校でこれらの現象を忘れる」と記されている。そして「オルフェオンを忘れたいという欲求のため,関連する文書は組織的に破棄された」とあり,そのためか「具体的な研究はほとんど行われていない」状況にある。

 もう一つ思うのは,前述のようにオルフェオンの団員が音楽教育を受けておらず,かつソルフェージュ等の基礎訓練を嫌がり,音楽レベルがなかなか上がらなかったためと考えられる。1865年ドイツの合唱祭を見学したフランスの音楽評論家とオルフェオン関係者は,ドイツの合唱レベルが高いことに驚いている。フランスでは,フェスティバルやコンクールの場においてさえ,各団体が歌うのは課題曲のみであり,演奏は決して優れたものではなかった。国も演奏の水準をあげることより,民衆を全国から動員することに重きをおいた。代わり映えしない合唱が,だんだん飽きられていったのかもしれない。

 

 これが私が理解したオルフェオン活動のあらましだけど,日本でオルフェオン活動が知られていない理由の一つは,日本で合唱が市民権を得始める20世紀初頭,フランスの合唱活動は既に下火になっていたからである。更に日本の音楽界は「ドイツ音楽こそ至高のものである」と考え(今もそうかもしれないけれど),フランスに目を向けなかった。慶應義塾ワグネル・ソサィエティーの活動は早くから大塚淳が合唱とオーケストラを指導していたが,ドイツに留学した大塚はドイツ志向で,リーダーシャッツの曲を日本人向けに移調し訳詞をつけ「男声四重唱曲集12」として昭和3年に出版した。関西では関西学院グリークラブも同志社グリークラブも,プロテスタントのキリスト教系で初期は賛美歌を含め英米系のレパートリーが中心だったが,同志社グリークラブでは大正10年頃に山口隆俊氏がドイツ合唱曲に目を向け,また関西学院グリークラブでは昭和5年ごろ林雄一郎氏がドイツ合唱曲の研究を始めた。

 

 では日本の合唱界はフランスの影響を受けなかったのかというとそうではなく,現在も含め大きな影響のもとにある。それは,昭和初期に小松耕輔が導入した合唱コンクールとそのスタイルである。

 

(続く)