Albert Duhaupas “ MESSE SOLENNELLE”について (6) | とのとののブログ

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Albert Duhaupas “ MESSE SOLENNELLE”について (6)

  補足編 Orphéons(オルフェオン)について

 

 さて,デュオウパのミサはオルフェオンというフランスの国民的合唱運動のために作曲されたと書いた*。ドイツのリーダーターフェルに比べ知られていないようなので,ここではもう少し詳しいことをまとめる。私もあまり知らなかったので自分の勉強として調べてみると,実は意外な形で日本の合唱活動と関わってくることが分かった。

 

* 井上さつき先生が引用する 『19 世紀フランス音楽事典』 によれば, 「19世紀フランスの合唱および器楽音楽のアマチュアのアンサンブルの大半を示すために固有の意味および総称的な意味の双方で用いられる名称」 とあ る 。

 

 男声合唱として,編曲ではないオリジナルのフランスの合唱曲を歌うことは多くはない*。私が知る限り,サン・サーンスの何曲かとプーランクの「アッシジの聖フランシスコの四つの小さな祈り」「パドヴァの聖アントニウス賛歌」ぐらいではないか(最近,音楽之友社から島信愛氏による「プーランク男声合唱曲集」が出版された)。ミサ曲等に広げても,デュオウパのミサ,グノーのミサ(主として第2ミサ),ケルビーニのレクイエムがある程度と思う(ケルビーニはイタリア人だけど活躍の舞台がフランスだったので)。混声や女声になると幅が広がるけれど,こういう状況ではオルフェオンに対する理解が少ないこともやむをえまい。

 

2018/10/9追記

* 「フランスの曲」と書くつもりで「フランス語曲」と書き,「せき」様から「「パドヴァの聖アントニウス」はラテン語です」と指摘いただいた。表記の形に修正します。

 同氏からは「フランス語の男声合唱曲だと他に,ルネサンスものですが,ジョスカン・デ・プレ作曲「3つのシャンソン」が意外と取り上げられてます。」とご教示いただいた。感謝。
 確かに,ジョスカン・デ・プレは宗教曲が有名だけど,フランス語のシャンソンやイタリア語の世俗曲も創作活動の中心においた。シャンソンで有名なのは恋人を失った悲しみを歌った「Mille regrets,はかりしれぬ悲しさ(千々の悲しみ)」で,「皇帝の歌」とも言われ,皆川達夫氏は天正遣欧少年使節が帰国した際に豊臣秀吉の前で演奏したのはおそらくこの歌であろう,と考察している。

 

 これは日本側とフランス側の双方に理由があるのだけど,その話の前にもまずオルフェオンについて調べたことをまとめる。オルフェオンについて日本語で読めるまとまった解説は,今谷和徳・井上 さつき「フランス音楽史」(春秋社)所収の「民衆と音楽 -アマチュア音楽活動の発展-」,および,井上さつき先生の論文*,遡っても1948(昭和23)に「合唱の友」(Vol.1no.2)に清水脩が書いた「オルフェオンについて」ぐらいだと思う**

 

* 愛知県立芸術大学リポジトリ https://ai-arts.repo.nii.ac.jp/ で何件か読むことができる。
  パリ万博「音楽展」における「オルフェオン」
  フランス人が見たドイツ合唱同盟祭 (1865)
  小松耕輔と第1回合唱競演大音楽祭(1927)

 

2018/10/9追記

** 安藤龍明さまから「ご存じかも知れませんが、浅井香織『音楽の<現代>が始まったとき』(中公新書)のなかで、「オルフェオン・ド・パリ(パリ男声合唱協会)」が8ページにわたり扱われています」とご教示いただきました。感謝。

 

 ここから,主として井上の本や論文を参考にオルフェオンについてまとめていくが,フランスとドイツの合唱運動は相互に影響を与えあいながら発展しており*,フランス単独で記述するよりドイツについても記したほうが分かりやすい。そこで,ドイツの運動については井上の論文以外に,以前ローレライの項で引用した櫻井雅人他「仰げば尊し」中のヘルマン・ゴチェフスキ「『小学唱歌集』の起源はプロイセンの教育用民謡か」を主に参照した。

 

* Melvin. P. UngerHistorical Dictionary of Choral Music」では,オルフェオンもリーダーターフェルも独立した項目はなく,Singing Societies (Choral Societies)としてまとめて説明されている。

 

 よく知られているように,中世のカトリック教会ではミサなど宗教行為はラテン語で行われていたが,16世紀にルターが宗教改革を始めると,プロテスタント地域では聖書・礼拝・賛美歌をドイツ語で行うようになった。カトリックでは歌うのは専門の聖歌隊なのに対し,プロテスタントでは参加者が歌うことが理想とされたためだ。そのため,以後賛美歌はドイツ語文化圏の発展に大きな役割を果たすことになる。また,ドイツの合唱レベルを民衆レベルで引き上げることに繋がった。

 注意すべき事は,教会でドイツ語で歌う経験が普段の生活にも浸透,世俗合唱の起源になったのではないことである。宗教(教会)音楽が特別なもので日常には世俗音楽の世界があったという誤解してしまうが,金剛正剛「キリスト教と音楽」(音楽之友社)によれば,当時の民衆にとって気軽に無料で音楽を聴けるの場所は教会であり,世俗音楽は貴族や上流階級の館でないと聴けなかった。つまり,日常的に主流の音楽とは教会音楽のことであり,世俗音楽はめったに聴けない高嶺の花だった。金剛の本はカトリックについて述べたものだけど,プロテスタントでも状況は変わらなかっただろう。つまり,日常生活に世俗合唱などなく,賛美歌すなわち日々の合唱だった。実際,後にドイツで男声合唱運動が起こった際も,当初は歌われるものは賛美歌がほとんどだったと記録されている。

 フランスでは,16世紀初めにクレマン・ジャヌカンが「鳥の歌」などがフランス語の合唱曲(シャンソン)を作曲し,上流階級には歌われていた。一方,フランスではカトリックが強く,プロテスタントはユグノーと呼ばれ迫害され,ドイツやオランダに逃亡した。そのため現在でもフランスのプロテスタント比率は2%程度と低い。おそらく,その頃もドイツのように自国語で賛美歌を合唱することはなかったと思われる。17世紀ブルボン朝では王や貴族はオペラやバレーに熱中し,独唱曲が盛んになったため,上流階級でも合唱は下火になった。

 

 一方,政治的には17-18世紀のヨーロッパではフランス王が第一の権力者であったため,国際公用語はそれまでのラテン語からフランス語に替わりつつあった。ドイツでは,公用語がフランス語化するなか,上流階級は日常的にフランス語を使うようになり,フランスへの「憧れ」と「憎しみ(ドイツ文化が飲み込まれる恐れ)」が併存するという微妙な状態となった。市民階級は,1789年のフランス革命に大きな思想的影響受けた。

 フランスでは革命の際,ラ・マルセイエーズなど闘争歌がフランス民衆を動員し,革命をなしとげる原動力の一つとなり,国民による軍隊が生まれた。ナポレオンが覇権を握ると,統一されたフランスに対しヨーロッパの人々は危機感を覚え,ドイツ語圏でも愛国運動が起こった。フランスと比べ統一が遅れたドイツでは,それは「まだ存在していない遠い未来の国家への理想主義的な思想」であり,実現のためには国民の意識を高める必要があり,歌が重要な手段となった。ラ・マルセイエーズに対し「ドイツ人の祖国はなんだろう」という闘争歌が歌われ,また編曲された民謡やドイツ語の合唱曲がたくさん作られ,歌われるようになった。

  ベルリンでは1791年にSing-Akademieが創立され,1808年にカール・ツェルター(Carl Zelter (1758-1832))によりリーダーターフェル(Liedertafel)と改名された*。その後,ドイツにはエリート的で閉鎖的なリーダーターフェル運動と,スイス人ネーゲリ(Hans Georg Nägeli(1733-1836))により南ドイツに広がった庶民的・開放的なリーダークランツ(Liederkranz)運動が存在した。男声合唱運動を牽引したのはリーダークランツの潮流で、その活動は南から中部ドイツへと広がり1840年代には全ドイツに普及した。南ドイツで始まった合唱祭も1830年代以降北ドイツ各地でも聞かれるようになり,さまざまな合唱同盟が成立した。当時のドイツでは,統一を望むのは市民階級で,貴族階級は統一に否定的だったため運動への熱意に差があったのかもしれない。しかし,リーダーターフェルも次第に開放的なものになり,ドイツの男声合唱運動といえばリーダーターフェルと言われるようになった。

 

2018/10/9追記

* このように書いてある資料が多いのだが,関口博子「近代ドイツ語圏の学校音楽教育と合唱運動」(風間書房)によれば,ジングアカデミーとリーダーターフェルは別の団体。
 ジングアカデミーは公の場で演奏を行うことを目的とし,メンバーも音楽の準備教育を受けていれば男性も女性も参加でき,人数制限はなかった。
 一方,リーダーターフェルは1808年のジングアカデミーのメンバー送別会で,居合わせた男性会員がテーブルを囲んで歌ったことが発端となり設立された。公の場で歌うことは目的ではなく,メンバーも24名に制限された。また,「メンバーは,詩人か,歌い手か,作曲家でなければなりません」とされていた(松本彰「十九世紀ドイツにおける男声合唱運動」(近代ヨーロッパの探求11「ジェンダー」ミネルヴァ書房刊)所収)

 

(続く)