グリークラブアルバムの研究 レパートリー編 (4) | とのとののブログ

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 主な曲について,簡単に記述しておく(詳細は「グリークラブアルバムの研究 (曲目編)」でまとめる)。何曲かについては「初めて歌われた」と判断した理由についても説明する。

 

 「ドイツ曲」の「菩提樹」は慶應も早稲田も同時期だが,ジルヒャー編曲が明記されている慶應を最初とした。ウェルナーの「野ばら」は,早稲田が最も早いが「三声」と書かれており,「女声唱歌」の楽譜での演奏であろう。ウェルナー版である慶應・同志社を採用した。メンデルゾーン作とされる「野ばら」は,関西学院の十八番。Ständchen (小夜曲)は明治期に「さよ曲」として楽譜が出ているが,東西四大学による明治期の演奏記録は見当たらなかった。「Frie Kunst」は慶應がタイトルの直訳「自由な芸術」として歌っているが,それ以降に「Frie Kunst」としても歌っている。

 

 「権兵衛が種まく」は別に項目を立てたように,黒人霊歌「Who Did」が原曲。「鉄道開通」は慶應が原曲「Tunnel Festlied」を最も早く歌っているが,吉丸一昌が訳詞を付けた「鉄道開通」が1911年に発表され,それは関西学院が最初に歌った。

 

 「宗教曲」は関西学院が最初に演奏した曲が集められている。

 

 「日本の曲」について,「婆やのお家」は1930(昭和5)の作曲で雑誌に発表され,1934(昭和9)の発表会ではオリオン・コールが演奏し,戦前の邦人男声合唱曲としては最も多く歌われた。「柳河」は1955年の同志社が最も早いが,組曲としては1957年の慶應で,合唱文庫で全曲の楽譜が市販されたためと思われる。

 

 「古い米国曲」のAnnie Laurie1920(大正9)に歌った関学が早い。日本語訳をつけた楽譜は同志社OBの山口隆俊が1926(昭和元年)の「The songs of the mail」に収録したものが最も古く,同志社でも同じか,それより古くから歌われていたかもしれない。「いざ起て戦人よ」の原曲The song of the Soldiersはキリスト教系の関西学院や同志社で古くから歌われていたが,このタイトルと日本語訳を付けたのは西南学院の英文学部教授の藤井泰一郎で,英語で歌うことが難しくなった1937-8(昭和134)の頃で,西南学院グリークラブが歌っていた。「Be still my Soul」は原曲はフィンランディアだが,宗教的な歌詞で関西学院が歌っていた。慶應はフィンランディアとして演奏した記録がある。

 

 「黒人霊歌」で石丸寛編曲のものは,関西学院が歌っているが,元は彼が当時指揮していた西南学院グリークラブのレパートリーだった可能性が高い(関西学院は西南学院と何度か交歓演奏会を開いている)。福永は石丸を「黒人霊歌に関して私が最も信頼している人」と評している。三沢郷の2曲は,彼が東京コラリアーズで編曲を担当していたことから,東京コラリアーズのレパートリーだったと思われる。

 

 「長めの曲」について,「お留守居」と「二つの棺」は,訳者が共に関西学院グリークラブのメンバーだったことから,初出を関西学院として良い(*9)。「冬のセレナーデ」は清水脩がフランスから楽譜を取り寄せたことをエッセイに書いている。大阪外国語大学卒業後に兄弟たちと男声カルテットを楽しんだ頃とされているので,19356(昭和10-11)頃だろうか。このときはステージで披露していないが,その後1952(昭和27)に東京男声合唱団の演奏会で歌われているのが公で歌われた最初と思われ,初期版のグリークラブアルバムでもそのように紹介されているが,同団の団史では初演曲扱いされていない。グリークラブアルバムでは福永(安田二郎)の訳で収録されている。「U Boj」は別に詳細に論じた。「家路」は福永が「9回編曲した」とあり,また,作詩が三沢郷であるため,東京コラリアーズ版であろう。

 

 *9 「お留守居」の訳者武野信二は関西学院グリークラブを1938年に卒業した。「二つの棺」は初期版に訳者名はないが,「グリークラブアルバム3」に再録された際に土居四郎と明記された。土居は1940年ごろの部員。

 

IV. 効果の測定

 

 最後に知っておきたいのは,グリークラブアルバムが発売されたことで各団の愛唱曲にどんな変化があったか,である。具体的には,グリークラブアルバムに所収されている曲が発売の後でどれぐらい多く歌われるようになったか,前後での歌われる回数を比較し,可能であれば検定して有意差があるのかないのかを調べてみたい。

 

 結論から言うと,現時点ではデータ不足で何とも言えない。下の図で,東西四大学以外の4つの大学で,グリークラブアルバムに所収されている曲の歌われ方を比較した。

1959年の発売であり,1960年に少し増えているが,その後はどちらかといえば少なくなっている。むしろ「以前の曲集」が発売されたときのほうが多く歌われているぐらいで,ピークは1954年にある。現状では,グリークラブアルバムの効果は何とも言えない。

 ともかくデータ不足で,まだまだ多くの資料を集める必要がある。1960年頃になると各団のステージ曲は高度なものになり,愛唱曲の記述は更に少なくなる。前途は多難だが,もっとデータを集めてから分析に再チャレンジしたい。

 

(レパートリー編 以上)

 

 次からは各曲について分かっていることをまとめていく。