織田信長の母親 | トン吉の爺チックなblog

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年とるってのは細胞が老けることであって魂が老けることじゃないよ^^

こんにちは いつも blog閲覧ありがとうございます。

皆さんは歴史はお好きでしょうか?お父さん私は中学時代から

歴史には興味ありました。さて ここで天下統一の

 

織田信長肖像画

 

基礎を作った 織田信長を知らない人は居ないかと。

信長のおばあちゃん母親については あまり知られてなく史料も

あまり残ってないので 定かではありません。

 

 

信長の母親は 土田御前と言われ 信長の父親信秀

正室だったようです。一般的には 佐々木六角氏後

土田政久(どたまさひさ)の娘とされています。

 

当時の一次史料による裏付けはなく 後年土田氏

縁者生駒氏腹である信雄系統の史料から土田政久の

娘説が登場するようになります。当時の史料などに

 

織田信秀の肖像画

 

より複数の説があります。夫・信秀死後 次男・

信勝(信行)と共に末森城に住んでいました。信長と信勝の

家督争いで信勝が敗れると 信長に信勝の赦免を

 

土田御前の銅像

 

願い出 一度は赦されました。しかし、後に信勝は

再び信長への反逆を図ったため信長に誅殺されました。

信勝の死後は信長やと共に暮らし 幼かった信長と

 

土田御前と幼少期の信長

 

市の子供たち(信忠、信雄、信孝、茶々、初、江な
ど)の面倒を見ていたようです。本能寺の変で信長
と孫の信忠が自害した後は 孫の信雄の庇護のもと

 

 

にあり 「大方殿様」と尊称され、¥640貫文を化粧

料として与えられていました。天正18年(1590年)

の信雄の改易後は 伊勢国安濃津信包のもとに

 

三重県伊勢安濃津(現在の津市)天王子寺の土田御前の墓

 

引き取られ 文禄3年(1594年)正月7日に同地で

死去したとされてます。歴史なんてあやふやで 不明な

部分もあるようです。どれが事実なのかはわかない。

 

9月も今日が最後で 明日から もう10月ですよ~ガーン

秋本番ですね。それでは 来月は良い月になります

ように お願い祈願したいと思います。