掲題の今朝の朝日社説。
ご参考まで。
戦争は二度とごめんだ。
79年前の夏。この思いは立場を超えて人々に共有され、平和国家のもとで歩み出す力の源泉となった。
中国大陸からアジア太平洋地域まで戦争が広がった8年間に、あまりに多くの命が国の内外で奪われた。
日本の社会はまるごと戦時体制となり、自由な言論は消え、経済、文化まであらゆる活動が統制下に置かれた。程度の差こそあれ、戦争に影響されなかった人はいまい。
政府・軍は日本の国際的な孤立を招き、多大な苦しみを人々に強いた。その重い教訓に加え、忘れてはならないことがある。国民が、直接的、間接的に支えることなしには続かなかった戦争だったということだ。
■何が駆り立てたのか
工作材料の「きびがら」で航空母艦を作る方法を教える国民学校の教材。蚊帳の広告には、鉄かぶとで戦争ごっこに興じる男の子が描かれる。
戦時中の日用品やポスターなどが、18日まで長野市内のギャラリーに並ぶ。一つひとつが、生活のあらゆる場面に、戦争が入り込んでいた時代を映し出す。
戦争体験を語れる人はいつかはいなくなるが、モノは残る。そう考える市民団体・信州戦争資料センターが毎年開いている展示会である。
センターの事務局長、木下光三さん(46)はかつて、郵便局が戦時中に配った債券入れの封筒に、思わず目を奪われたことがある。
富士山、戦闘機、大砲の絵に、「ウンと蓄(た)め ドンと撃て」のコピー。庶民の財布から戦費を吸い上げる、その訴求力に驚いた。自らもデザイナーであり経営者。「あの時代に生きていたら、自分も作っていた」と感じた。
国民の戦意をいかに効果的に鼓舞するか。公的機関はそこに傾注し、企業も乗った。国家の繁栄を求める国民の心理と共鳴し、戦争遂行への熱は高まっていった。
報道機関は検閲下に置かれた。朝日新聞も大本営発表を伝え続ける一方、戦況を正しく報じ、批判する責任を果たさなかった。
人々は確かな情報から隔絶された。敗戦の日までだれも戦争を止められなかった。
■良き市民と戦争犯罪
〈政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し〉
戦後、制定された日本国憲法の前文はこう述べた上で、国民主権を宣言している。
「その『戦争の惨禍』とは何かが具体的に分かって初めて、国民主権の意味に迫れるのではないか」と、終戦の年に生まれた横浜市の弁護士、間部俊明さん(79)は考えてきた。
身近に存在した事例として注目したのが、戦後、米軍が横浜地裁を接収し、日本人兵士らによる戦争犯罪を裁いたBC級戦犯裁判だった。
戦争を指導したA級戦犯を裁いた東京裁判は国際的に知られる。だが、連合国の各国がそれぞれ自国民らの被害を扱ったBC級裁判で、唯一、国内で開かれた横浜裁判の全容はわかっていない。
約1千人が起訴され、最終的に8割強が有罪になった。50人余に絞首刑が執行された。間部さんは地元の弁護士会に調査委員会をつくり、いまは捕虜収容所での虐待事件を中心に調べている。
第2次大戦の戦犯裁判には「勝者の裁き」との批判がある。確かにその側面はあるにせよ、戦争という極限状況下で日本兵が残虐な行為に手を染めていった過程から、目を背けるわけにはいかない。
横浜で裁かれたのは、平時なら、よき夫、よき父として人生を送っていたかもしれない人たちだ。だが彼らは裁判で「上官の命令だった」との抗弁を許されなかった。
やりきれない、戦争の不条理を裁判記録は突きつける。
■うわべの平和でなく
戦争指導者の個人責任を問い、同様の行為を防ぐ。戦後生まれた構想は2002年、国際刑事裁判所(オランダ・ハーグ)に結実した。
中央大学特任教授の尾崎久仁子さん(68)は9年間、その裁判官として戦時下の市民の苦しみと向き合ってきた。同時に「戦闘行為がない平和ならいいのか」という問いが頭から離れなかったという。
表向きは「平和」にみえても、人々が抑圧され、だれも声を上げられない。そんな国や地域は数知れない。
日本はどうだったか。国民に主権がない。正しい情報が届かない。批判や異論が封じられる。息苦しい世相とともに長期化した戦争だった。
地域社会も組織化され、動員された。国家への忠誠心を探り合い、同調を求め、異質な存在は排除した。
戦時を生きることと、人間の尊厳が守られること。この二つが両立しえないことは、歴史が示している。
私たちは何をすべきか。
権力を批判する自由があり、だれもが尊重され権利が守られる社会を築く。政策や法制度の変化を点検する。そうした営みに、主権者として自律的にかかわる。決して未来に惨禍を起こさぬために。