②『世に棲む日日』 横浜港の修築費用に「賠償金」 | 元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

元世界銀行エコノミスト 中丸友一郎 「Warm Heart & Cool Head」ランダム日誌

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司馬遼太郎生誕100年 作品にみる横浜

掲題の2023年8月25日付産経ウェブ。

ご参考まで。

 

 

吉田松陰や高杉晋作の生涯をとおして、長州藩と幕末日本の姿を浮き彫りにした作品である。

 

神奈川宿で攘夷騒動

 

文久2(1862)年11月12日、高杉をはじめ井上馨や久坂玄瑞らの過激派は、東海道神奈川宿「下田屋」に参集し、金沢八景を遊覧する英国公使を襲撃することになった。

 

「この十一月十三日の日曜 日に同公使は武蔵金沢のあ たりにピクニックする、そ れを斬ればよい、と日取り から目標まできめてしまっ たのである」

 

「予定どおりに決行ときま り、明十二日の夜をもって (中略)下田屋に会合する ことになった」

 

高杉の詩文集『東行(とうぎょう)遺稿』には、この時の心境を託した漢詩「十一月十三日、まさに金沢に赴き夷人を斬らんとす」が収録されている。

 

欲補邦家急 邦家の急を補 わんと欲し

 

抛身致寸誠 身を抛(なげう)って寸 誠を致す

 

任他塵世客 他の塵世(じんせい)の客 の

 

呼我作狂生 我を呼んで狂 生となすに任(まか) す

 

何とも物騒な内容であり、まさに高杉の好んだ「狂」そのものである。

 

この計画は、藩是(藩の方針)の一定しない長州藩の評判を覆すため、攘夷を行おうとしたのである。

 

しかし計画は事前に露見した。計画を知った土佐藩の武市半平太から、前土佐藩主山内容堂に漏れ、それが長州藩世子毛利定広に知らされたのである。定広は驚愕(きょうがく)し高杉らを制止するため深夜、大森にある長州藩の屋敷まで出馬した。一方、幕府も既にこの計画を察知しており、外国奉行竹本正明、目付澤簡徳(かんとく)を急ぎ神奈川宿に派遣し、幕兵をして下田屋を包囲させた。

 

高杉らは議論の結果、強行して幕兵と争闘するよりは、計画を中止して後図を期すとの結論に達し、下田屋を退去することになった。退去の様子を『井上(馨)伯傳(でん)』は、次のように記している。

 

「各々(おのおの)抜刀にて下田屋を立 い出でしに、幕府の兵其勢 に辟易したりと見え、散走 して其(そ)の影を隠したり、(中略)神奈川驛端に至りし」

 

この事件は横浜ではほとんど知られていない。

 

高杉らが参集した下田屋は長州藩とのつながりが深く、経営者を下田屋文吉といった。茶屋のほか、現在の横浜市中区の北仲通に横浜最初の劇場「下田座」を建てた人物として知られている。下田屋は、ガス灯設置などの功績を残した実業家、高島嘉右衛門の妻女の実家であった。

 

文吉の名前は長州藩の記録にもしばしば登場しており、嘉右衛門と同様に、茶屋の主、劇場の座主とは別に政商としての一面があったのである。

この下田屋騒動の1カ月後、高杉らは品川御殿山のイギリス公使館を焼討ちしている。

 

下関事件後の関わり

 

「(文久3=1863= 年)五月十日になった。 不幸な商船がとおりかかっ た」

 

攘夷の断行日を期して下関海峡を通過する外国商船に対し、無差別の砲撃がはじまった。翌元治元(1864)年8月、依然として攘夷政策をやめない長州藩に対し、横浜港を出発した英・米・仏・蘭4カ国の連合艦隊17隻が下関への攻撃を開始した。長州藩も応戦したが、たちまち制圧されて降伏した。

 

4カ国に対する賠償金300万ドルは幕府が支払うことになった。さらに明治後は新政府がそれを引き継いだのである。

 

この下関事件は後年になり、横浜港と大きな関わりをもつことになる。

 

横浜港は開港したといっても港湾設備は貧弱なものであった。幕府、新政府ともに近代港湾としての修築費用はなかったのである。

 

明治16(1883)年、突如アメリカが下関事件の賠償金78万5千ドルを日本に返還してきたのである。政府は公債を買い入れ利殖をはかりながら、その使途を検討していた。明治19(1886)年、近代港湾としての横浜港修築が計画され、イギリス人ヘンリー・パーマーの案が採用されると、その賠償金を原資にして横浜港の修築を行うことにしたのである。

 

司馬先生はこの経緯について『街道をゆく(横浜散歩)』や『歴史の交差路にて』でも言及されている。

 

攘夷政策の結果として日本に課せられた賠償金が、まわりまわって国際貿易港として発展してゆくための資金になったという、皮肉なそして珍しい話である。(随時掲載)

増田恒男(ますだ・つねお) 昭和23年、横浜市生まれ。44年、日本大学卒業後、同市役所に勤務。平成12年から司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市)に勤務し学芸部長を務める。22年に退職。主な著書に『佐藤政養とその時代-勝海舟を支えたテクノクラート』などがある。論文も『神奈川台場考』『保土ケ谷宿をめぐる文芸と文人たち』『文明開化を生きた歌人-大熊弁玉』など多数。