司馬遼太郎生誕100年 作品にみる横浜
掲題の2023年8月24日付産経ウェブ。
実は昨日風邪をおして
幕府時代の神奈川県保土ヶ谷宿近くの
岩間市民ホールで開かれた
増田氏の講演会「司馬作品にみる横浜」に参加してきた。
講演会は約2時間で100名ほどが集いほぼ満員御礼。
もっとも、Q&Aのセッションが無かったのは残念。
いずれにしても、雨の中の寒空の中を出かけて、
風邪を昨晩こじらせたようだ(苦笑)。
もっとも、今日午後にはこのようにほぼ全快(笑い)
いずれにしても、雑感をまとめようとしていたところ、
司馬遼太郎生誕100年 作品にみる横浜とのシリーズで
意外にも産経ウェブから
かなりの増田氏の主張が公開されていたのでご参考まで。
なお、講演内容はかなり詳細にわたり、
かなり有益だった。
また、増田氏は「峠」が最も好きだとして、
最後に、世にいう明治礼賛的な「司馬史観」に関して、
否定的なニュアンスで述べていたのが印象に残った。
「横浜には旧幕時代という歴史があり、
この点神戸とは違っている。」とは
司馬遼太郎の言葉らしい。
やはり「浜っこ」は薩長というよりも、
佐幕派が優勢なのかもしれない(笑い)。
いずれにしても、以下、ご参考まで。
今年の8月7日、数多くの小説・エッセイなどを書かれた司馬遼太郎先生の生誕100年となった。
平成12年、縁あって司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市)の学芸部長となった。愛読者を自任していた者として望外の喜びであったが、その期待の大きさと責任の重さに恐ろしささえ感じたものだった。
22年には記念館を辞して、故郷の横浜へ戻った。それから再びいち読者となり、新鮮な気持ちで作品を読み返した。改めて作品中に横浜が数多く登場していることを確認した。
そこで「司馬作品」を手掛かりとして、横浜の歴史の一端が垣間見れればと考えた次第である。
◇
由来は浅黄色の羽織
『燃えよ剣』は、新選組で「鬼の副長」といわれた土方歳三の生涯をとおして幕末を描き、土方をはじめ近藤勇、沖田総司ら新選組のイメージを決定づけた小説である。
作中では鳥羽伏見の戦いで敗れた新選組が新たに「甲陽鎮撫(ちんぶ)隊」を組織し甲府へ出陣した経緯が書かれている。しかし新たに徴募した鎮撫隊士の半数が逃亡し、当惑した土方がその補充に神奈川の菜葉(なっぱ)隊のもとに行く。
「『ちょっと、神奈川へ行ってくる』と歳三は、立ちあがった。神奈川には、幕軍で菜葉隊というのが、千六百人駐屯している。これに急援をたのむつもりだった」
土方が神奈川へ行ったことは事実のようである。菜葉隊は実際に存在した諸隊のひとつで、開港場および居留地の治安を守るために設けられた関門の警備を役目としていた。関門は全部で7カ所、開港場への主要道筋に設けられた。特に吉田橋の関門は警備が厳重を極め、「関内」「関外」という呼び名のもとになった。
菜葉隊は1カ所20人の割り当てで、ひとつの組に「取締」「肝煎」「伍頭」「定番」とあり、取締が白紐、肝煎が黄紐、伍頭が紫の紐、一番下が緋呉梠と羽織の紐により階級が分かれていた。下番は残らず「旭」という字を丸形にした定紋のついた浅黄色の羽織を着ていたので、菜葉隊という名がついた、と同時代人の回顧談が残っている。
隊士・川村三郎の功績
横浜に新選組隊士がいた。川村三郎といい、天保14(1843)年深川に生まれ、市ケ谷の近藤勇の道場試衛館に通ったという。元治元(1864)年新選組に入隊し、近藤芳助と名乗った。同期の隊士に神奈川奉行所に勤務していた篠原泰之進、加納道之助がいた。新選組で「伍長」をつとめた近藤こと川村は、鳥羽伏見の戦いで負傷して江戸へ戻り、横浜の病院で治療した。傷が癒えた川村は甲陽鎮撫隊に合流し、その後水戸、会津と転戦し、仙台で官軍の捕虜となった。
明治3(1870)年赦免されると横浜に移住して商売を始めたという。明治21(1888)年に横浜市会議員選挙に出馬して当選、次に神奈川県会議員にも当選して、市会議員(5期)、県会議員(2期)を務めた。特に吉田橋(鉄=かね=の橋)の架設問題や浄水問題に取り組み、横浜市、神奈川県の発展に寄与し、地方行政に大きな功績を残した。大正11(1922)年に80歳で没した。
維新後、川村は新選組ではなく旧幕臣であるとしていた。ともかく激動の時代を生き抜いた男のひとりであった(随時掲載)
増田 恒男
ますだ・つねお 昭和23年、横浜市生まれ。44年、日本大学卒業後、同市役所に勤務。平成12年から司馬遼太郎記念館(大阪府東大阪市)に勤務し学芸部長を務める。22年に退職。主な著書に『佐藤政養とその時代-勝海舟を支えたテクノクラート』などがある。論文も『神奈川台場考』『保土ケ谷宿をめぐる文芸と文人たち』『文明開化を生きた歌人-大熊弁玉』など多数。