キュビスム展 国立西洋美術館 | けろみんのブログ

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10月3日

パリ・ポンピドゥーセンター

「キュビズム展」美の革命

ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ

2023.10.3~2024.1.28



を見に行きました。撮影は、撮影禁止のマークのないものは全部OKでした。私のようにわすれっぽいと有難いです。


解説パネルから全コピしました(笑)良かったらご覧下さい超長いです。私はキュビストのつくった家(メゾン)の内装がとても印象的でした。サロン・ドートンヌで展示されたのですがキュビスム的な入口の割に居心地の良さそうなサロンで、キュビスムに多大な影響を与えたギョーム・アポリネールの恋人だったマリー・ローランサンの作品が飾られているのがシンボリック。彫刻がキュビズムが飛び出してきたみたいであちこちにおかれ効果的でした。



1章


キュビスム以前ーその源泉


19世紀後半から20世紀初頭、 西洋の絵画や彫刻の表現は、 それまでの伝統や規範から抜け出し、 大きく変化していました。 なかでもポール・セザンヌ、ポール・ゴーガン、そしてアンリ・ルソーは、 キュビスムの誕生にあたって重要な役割を果たします。 ピカソや ブラックらキュビスムの画家たちは、彼らの作品の中に、 自分たち が探求しつつあった新しい表現の可能性を見出し、それらを跳躍台として自らの芸術を発展させていきました。



セザンヌは、幾何学的形態による画面構成や、 遠近法を解体する多視点の導入によって、 絵画を写実的模倣から構築的なものへと変えました。 ゴーガンは、 西洋以外の文化圏にまなざしを向け、 「プリミティヴ」とも形容される素朴で大胆な造形を絵画や彫刻にもたらし、ルソーは、正規の美術教育を受けていないからこそ の自由な表現で描き続けました。


その頃、西洋諸国によって植民地化が進められたアフリカや オセアニアからは、仮面や彫像など、 その地の文化の多様な造形物がヨーロッパにもたらされていました。ピカソやドラン、ブラックらは、そうした造形物を自ら収集するとともに、 西洋美術とは異なる 表現のあり方をそれらに見出し、自らの作品に取り入れていきます。


2章


「プリミティヴィスム」


ドランやピカソら美術家たちや詩人・批評家のアポリネールは、 古代ギリシア・ローマの美術を規範とする伝統に代わる新しい 表現の可能性を、アフリカやオセアニアの造形物に見出しました。



こうした地域の美術への関心や、 その影響による単純化され、 図式化された表現は、「プリミティヴィスム」 と呼ばれてきました。 しかし、これはアフリカやオセアニアの文化をヨーロッパに比べて 「原始的 (プリミティヴ)」であると当時の西洋の人々が考えていたためでした。 アフリカやオセアニアの制作物が「美術」として評価された基準も、西洋の美的価値観によるもので、それらの造形物が持つ本来の文化的意味が理解されていたわけではありません。 本来の意味とは関わりなく、これらの造形物は、ヨーロッパの前衛芸術家たちにとって、 西洋の伝統的な規範に挑戦するための拠り所となりました。


1907年にパリの民族誌博物館を訪れたピカソは、当時制作中の 《 アヴィニョンの娘たち》 (本展不出品、ニューヨーク近代美術館) を大幅に描き直します。 この作品を見たブラックは、その過激さに 驚き、「まるで麻くずを食べるか、石油を飲んで火を吹けと言って いるようだ!」 と語ったといいます。 ブラックは、ピカソへの応答と して《大きな裸婦》 を描いています。


3章

キュビスムの誕生 セザンヌに導かれて


ブラックは、1906年から1910年までセザンヌが制作した地として知られるレスタックに4回滞在し、セザンヌに応答する作品を描 きました。 その過程で、彼の作品は、キュビスムの始まりを告げる新たな表現へと大きく変化します。 緑や黄土色などセザンヌ的色彩が中心となり、セザンヌを真似て一定の方向性のある筆触で彩色が施されました。 また、単純化された幾何学的形態を用いて、 画面は以前よりも構築的に組織されるようになります。



1908年11月にカーンヴァイラー画廊で開催されたブラックの個展には、 レスタックで描いた風景などが展示され、 そのときの展覧会評で、「彼は形態を軽んじていて、景観も人物も家々もすべて を、 幾何学的図式や、 キューブ (立方体) に還元してしまう」と評さ れました。 これがキュビスムという名称の起源となります。


1906年10月に亡くなったセザンヌの大規模な回顧展が翌1907年10月に開催され、 若い芸術家たちは自分なりにセザンヌの試みを理解しようと努めました。 ピカソもまた、1908年から 1909年にかけて、 セザンヌを研究し、「セザンヌ的キュビスム」と呼びうる作品を残しています。



4章


ブラックとピカソ ザイルで結ばれた二人 (1909-1914)


ブラックとピカソが知り合ったのは1907年でしたが、 毎日のようにお互いのアトリエを訪ねるほど交流を深めたのは、1908年の冬を迎えた頃です。ブラックは、「私たちはザイルで結ばれた登山者のようでした」と、当時の二人の関係について回想しています。 新しい絵画の方法を追求する二人の造形的実験は、1909年夏には、いわゆる「分析的キュビスム」の作品にいたります。 対象物は いくつもの部分に分解され、無数の切子面によって構成されたようなモノクロームの画面が登場しました。1910年半ば以降は、描かれ ているモティーフの識別が困難なほどに作品は抽象化の度合いを増していきます。 絵画は何かを写実的に描写するための場ではなく、 自律的なイメージが構築される場となりました。


1912年になると 「総合的キュビスム」の段階を迎えます。 この年 にはコラージュやパピエ・コレ (貼られた紙) といった新たな技法が試みられました。 画面には新聞や広告の切り抜きなどの異質な素材が取り込まれ、 多様な要素を組み合わせて、総合するように作品が作られるようになります。 絵画も、そうした紙が貼られたかのように見えるだまし絵的な表現や、平面が重なり合うような構成へと変わりました。



5章

フェルナン・レジェと フアン・グリス


ブラックとピカソが創始したキュビスムは、新しい表現を求める若い芸術家たちのあいだに瞬間に広がり、多くの追随者を生みました。なかでもレジェとグリスの二人は、カーンヴァイラーによってキュビスムの発展に欠かすことのできない芸術家であるとみなされます。




6章


サロンにおけるキュビスム


ピカソとブラックがフランスではカーンヴァイラーの画廊以外では作品をほとんど展示しなかったのに対し、二人の影響を受けた 若いキュビストたちは、おもにサロンデザンデパンダン (独立派のサロン)やサロン・ドートンヌ(秋のサロン) といった年一回開催される、 公募による大規模な展覧会で作品を発表したため、 今では 「サロン・キュピスト」と呼ばれています。



1911年と1912年のサロンでは、自分たちの作品を同じ展示室でまとめて公開することで、キュビスムは注目の的となり、スキャ ンダルを引き起こしました。 当時どれほど話題となっていたかは、 新聞や雑誌の風刺画や映画など様々なメディアで、キュビスムが揶揄の対象にされていたことからもよくわかります。


サロン・キュビストたちは、ピカソやブラック以上にキュビスム を理論化し、 グレーズとメッツァンジェは『「キュビスム」について』 という著書を1912年に発表します。 同年には、キュビスムのグループ展である「セクション・ドール(黄金分割)」 展も開催され、グレーズの《台所にて》や 《収穫物の脱穀》 ピカビアの 《赤い木》 が出品されました。


7章


同時主義とオルフィスム ロベール・ドローネーとソニア・ドローネー


アポリネールは、ロベール・ドローネーを「オルフェウス的 (詩的) キュビスム」の発明者と呼び、そこから「オルフィスム」という名称が生まれました。オルフィスムは、色彩によって構成された「純粋な」絵画であると捉えられました。



ロベール・ドローネー自身は、妻ソニア・ドローネーとともに、「同時主義」という独自の概念を打ち立てます。 フランスの化学者ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールによる「色彩の同時対照の法則」 (1839年) に依拠しながら、 色彩同士の対比的効果を探求するものです。


しかし二人の「同時主義」は、単なる色彩論にとどまらず、異質な要素を同一画面に統合する方法であったとも言え、ロベールが描いた大作《パリ市》  では、 古代 (三美神) と現代(エッフェル塔)、アンリ・ルソーの作品からの引用など多様な要素がひとつにまとめられています。「同時主義」は空間や動きを表す原理でもあり、それはソニアがダンスホールの情景を描いた《バル・ ピュリエ) (no.54) によく示されています。


8章


デュシャン兄弟と ピュトー・グループ


画家で版画家のジャック・ヴィヨン(本名ガストンデュシャン) と 彫刻家レイモン・デュシャン=ヴィヨンの兄弟がパリ郊外のピュトーに構えたアトリエには、末弟のマルセル・デュシャンやフランティシェク・クプカ、フランシス・ピカピアといったサロン・キュビスム の芸術家たちが1911年頃から毎週日曜日に集い、彼らは「ピュトー・グループ」 と呼ばれました。 彼らを中心に組織されたのが、1912年に開催されたキュビスムの大規模な展覧会「セクション・ ドール(黄金分割)」でした。その名称からも明らかなとおり、「ピュトー・グループ」 は、 黄金比や非ユークリッド幾何学といった数学、 四次元の概念、そして運動の生理学的分析といった科学を、キュビスムと理論的に結び付けようとしました。



こうした理論が厳密に彼らの完成作に表われているわけでは ありませんが、 運動のダイナミズムの表現は、 彼らの作品の大きな特徴のひとつとなっています。 ヴィヨンの《行進する兵士たち》では、いくつもの力線に還元された表現で行進という運動が 表現されています。またクプカの 《挨拶》 では、複数の時間が同一画面内に描かれることで動きが示されています。


9章


メゾン・キュビスト


1903年に創設されたサロン・ドートンヌは、 装飾芸術の振興 にも力を注ぎました。1912年のサロン・ドートンヌには、「メゾン・キュピスト(キュビスムの家)」が展示され、 キュビスムを建築や室内装飾へと展開する試みがなされます。全体は装飾芸術家のアンドレ・マールによるもので、ピュトー・グループを中心とする多くのキュピストが参加しました。



会場には、デュシャン=ヴィヨンのデザインによる2階建ての建築模型が展示され、また1階部分のみ、3メートルの高さで石膏により制作されました。 幾何学的な装飾が施された入り口を進むと、左右には「サロン (応接間)」と「寝室」が配されていました。「サロン」の暖炉やその上の置時計はロジェ・ド・ラ・フレネーがデザインしており、壁にはメッツァンジェやレジェ、 ローランサンのキュビスム 絵画が掛けられていました。


マールに宛てた手紙の中でレジェは次のように語っています。「君の考えは我々にとってとても素晴らしい。 人々がキュビスムを住居で見ることになるというのはとても重要だ」。新たな時代にふさわしい装飾芸術として、 前衛的な造形を取り込もうとしたの がメゾン・キュピストでした。



10章


芸術家アトリエ 「ラ・リュッシュ」


モンパルナスの集合アトリエ 「ラ・リュッシュ (蜂の巣)」 には、フランス国外から来た若く貧しい芸術家たちが集うようになり、最先端の美術運動であったキュビスムを吸収しながら、それぞれ が独自の前衛的な表現を確立していきます。その中には、当時 ロシア帝国領であったベラルーシから来たマルク・シャガール、ルーマニア出身のコンスタンティン・ブランクーシ、そしてイタリア人のアメデオ・モディリアーニらがいました。



シャガールは、幾何学的に断片化された表現やドローネーの鮮やかな色彩を自作の表現に取り入れ、独特の幻想的な絵画を描いています。形態の単純化を追求したブランクーシは、アポリ ネールの『キュビスムの画家たち』  の中で、キュビスムと結びつけられた彫刻家のひとりです。モディリアーニは、1912年のサロン・ドートンヌにおけるキュビスムの展示室に、石に彫られた頭部像の連作を出品しています。


「ラ・リュッシュ」のキュビスムの彫刻家には、アレクサンダー・ アーキペンコやジャック・リブシッツもいました。 また、レジェも 一時ここに暮らし、《縫い物をする女性》 など彼の最初の キュビスム絵画を描いています。


11章


東欧からきた パリの芸術家たち


キュビスムの運動には、ロシアやウクライナといった東欧出身の芸術家が多く関わっていました。 1912年の「セクション・ドール」 には、キーウ出身のアーキペンコをはじめ、4人の東欧の芸術家が参加しています。



1920年に2回目の「セクション・ドール」展が開催された時、中心となったのは、グレーズとアーキペンコに加え、モスクワ出身のレオボルド・シュルヴァージュでした。 参加者には、エレーヌ・エッティンゲン (画家名フランソワ・アンジブー)、セルジュ・フェラ、ナター リヤゴンチャローワ、ミハイル・ラリオーノフら、多くのロシアや 東欧の芸術家が名を連ねました。


画家のみならず詩人や作家としても活動したエッティンゲンは、いとこのフェラとともに、大戦以前からキュビスム運動を支えました。アポリネールと親交を結び、1913年からは雑誌『レ・ソワレ・ド・ パリ』に出資し、編集に携わっています。また、 モンパルナスのフェラのアトリエや彼らのアパートは、前衛芸術家たちが交流する拠点のひとつとなり、その集まりの常連だったシュルヴァージュはパリこの街頭とエッティンゲンが鎮座する室内の空間を総合した作品を描いています。


12章


立体未来主義


20世紀初頭のロシアでは、西ヨーロッパからもたらされた前衛的な造形表現は、ロシア正教会のイコン (聖画像) や刺繍、民衆版画、 店舗の看板といった、伝統的な民衆芸術や民間に伝わる様々なものと結びつき、「ネオ・プリミティヴィスム」と呼ばれる運動が生まれました。ミハイル・ラリオーノフとナターリヤ・ゴンチャローワ はこの運動を推進した画家たちで、前者の《春》はその 代表作です。 一方、《散歩: 大通りのヴィーナス》では、 未来派的な運動の表現が荒々しい描き方と融合しています。また ジャン・プーニーの《理髪師》には、 理髪店の看板に由来する理髪師の制服の図像が、キュビスム的な造形語彙の中に取り込まれています。



ロシアでは、フランスのキュビスムとイタリアの未来派がほぼ同 時期に紹介され、この二派から影響を受けた 「立体未来主義」が展開しました。 ゴンチャローワらは、キュビスムの非再現的な画面構築と、都市や機械、 そして工業といった未来派的なテーマとの融合を試みています。


13章


キュビスムと第一次世界大戦


1914年に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパの美術家たちに多大な影響をもたらしました。フランス人芸術家の多くが前線に送られた一方、非交戦国スペイン出身のピカソやグリス、そしてマリア・ブランシャールやジャンヌ・リジー=ルソーら女性画家は銃後にとどまり、大戦中のキュビスムを担います。



戦争を予兆するような 《大きな馬》 の作者であるデュシャン=ヴィヨンは、戦地で病を患い、1918年に早逝しました。グレーズは、従軍中のスケッチをもとに、「戦争の歌」 を指揮する作曲家の姿を描き前線から帰還する負傷兵を表したキュビスム的版画を、作家ジャン・コクトーによる愛国主義的な 雑誌『ル・モ (言葉)』 で発表しました。


大戦中の1917年には、バレエ・リュス (ロシア・バレエ団)による『パラード』 がパリで上演されました。 その舞台美術を担当した ピカソは、登場人物の衣装をキュビスムの様式で制作する一方緞帳などはより具象的、写実的に表現しており、画家がキュビスムから「新古典主義の時代」に移行する過程を示してもいます。


キュビスムをめぐる「戦争」


フランスとドイツとの間の戦争によって、キュビスムはナショナリズム的な政治闘争の対象ともなりました。 キュビスムの芸術家たちの作品がドイツ人画商カーンヴァイラーによって扱われていたこともあり、すでに戦争の以前から、キュビスムはドイツと結び付けられ、フランス語のCではなくドイツ語的にKで始まるスペルでキュビスムが示されたり、「コニスト」 (フランス語の「円錐 (cône)」と、「愚か者(con)」とが重ねられている)と併記して揶揄されて いたりもしました。


大戦が始まると、キュビスムはドイツによる文化侵略だと非難されるように なり、当時の挿絵雑誌などでは、キュビスムによってフランス文化が堕落してしまったと糾弾されました。戦意発揚の名目で1915年に創刊された『ラ・バイヨネット (銃剣)』には、キュビスムの画家は、赤髪で口髭のあるドイツ人のように 描写されたり、 フランケンシュタインのごとき怪物のように表わされ たりしました。


これは、キュビスムこそがフランスの伝統を受け継ぐフランス的な美術であると考えていたサロン・キュビストたちの主張とは真っ向から対立する非難 であり、アポリネールらはキュビスムを擁護する立場から反論を行いました。画家アメデ・オザンファンが創刊した雑誌 『レラン (飛躍)』には、「キュビスム の同志たちへ」と題された文章が掲載され、フランス人のキュビスムの芸術家たちが前線でドイツと戦っている事実を指摘し、フランスにおいてキュビスムを「ボッシュ (boche)」 (「ドイツ人、ドイツの」を指す蔑称) の絵画と攻撃する ことが不当であると訴えています。


14章


キュビスム以後


大戦中に亡命したカーンヴァイラーに代わり、戦後はレオンス・ ローザンベールがキュビスムの代表的画商となり、彼の画廊では、 1919年にキュピストたちの個展が次々と開催されました。 キュビスム は再び最先端の芸術表現としての地位を回復しますが、より平明 で簡潔な構成へと変化もしました。


一方、戦争が終結して間もない1918年末、アメデ・オザンファン とシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエの本名) は、キュビスムを乗り越え、機械文明の進歩に対応した新たな芸術 運動として「ピュリスム (純粋主義)」を宣言しました。 二人は、明瞭 な幾何学的秩序に支えられた普遍的な美を唱え、飛行機とリム ジンを、「我々の時代の精神と様式を明確に特徴づける純粋な「創造である」と賞賛しています。


ジャンヌレ(ル・コルビュジエ)は、この「機械の美学」を建築へと応用し、 それは1925年のパリ装飾芸術国際博覧会のパヴィリオン 「レスプリヌーヴォー (新精神)」館で具体化します 。 そこには、レジェやグリスのキュビスム絵画とともに、リプシッツの 《ギターを持つ水夫> が展示されました。


ピュリスムの理念に共鳴しつつ、レジェは近代社会のダイナミズム この表現を追求しました。 機械のイメージそのものに魅了された独自 の 「機械主義」は、 実験映画『バレエ・メカニック (機械のバレエ)』  へと結実します。


展覧会の終わりはこの「バレエ・メカニック」です。狭い空間なので混んでたら見られるか心配。ル・コルビュジエの設計した建物でル・コルビュジエのアートをみるのも良いものです。