生誕100年山下清展100年目の大回想 | けろみんのブログ

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2023.6.27 


新宿 SOMPO美術館で開催されている「生誕100年 山下清展 百年目の大回想」に行きました。(当時の言葉をそのまま使っています。ご了承ください)



山下清といえば、「裸の大将放浪記」で有名です。私は昭和55年に始まった「野に咲く花のように〜」という曲で始まるドラマが大好きで、連続ではなくたまにやるので見逃さないように心がけていました。映画もテレビで見ました。うっかり大泣きしたこともあります。


1985年、16歳くらいの時デパートで開かれた「みんなの心に生きた山下清」に母に連れて行ってもらいました。切手をこよりのようによって栗のイガを表現した作品が1番印象に残っています。色紙を使ったものより深みがあるように思えました。


図録を購入して読むとドラマの山下清と、本物の山下清ではだいぶ違うことが判明。40年くらい前に気がつけて良かったのですが未だに「障害者が描いた心のない絵」みたいなイメージを持つ方が大勢いてびっくりです。

日記と一緒に見ればそこにはきちんと魂が通っているのですから。


ところで山下清のIQは75程度だったそうです。今Yahooニュースのコメントを書いてる人の半分くらいがIQ40以下としか思えない発言をしてることを思えば、現代の尺度で言えば山下清は正常範囲ということになります。吃音と正直な話し方が人とは違うと思われてしまったようです。

むしろ驚異的な記憶力と天才的な色彩感覚と手先の器用さでは常人とは比べ物にならないほど優れています。

未だにロボットのように言われた通り描いただけの阿呆と思ってる人の方がヤフコメ勢並なんでしょう。


生涯 


1922年 東京都台東区に生まれ、翌年に関東大震災で家が焼け、新潟へ引っ越します。3歳の頃、病の後遺症で言語障害になりました。

1926年 再び東京に戻りますが10歳の時父親が脳溢血で亡くなり、母は再婚しますが新しい父親はDVが酷くすぐ逃げ出して杉並区の社会福祉施設に親子で入ります。

10~12歳のくらいから知的障害が見られ、言語障害が理由で激しいイジメにあいます。温厚な性格の清は耐えましたが、ある日彫刻刀を振り回して同級生を傷つけ、事件になってしまいます。母親は考えた末に千葉県市川市にある「八幡学園」という養護施設(昔の言葉で精薄施設)に入ることになります。

ここで山下清は、貼り絵に出会います。元々絵が好きで小学校時代もずっと絵を書いていたため先生の指導もありメキメキ上達します。八幡学園児童による展覧会で注目を集めました。

ちなみに同年生まれだった水木しげるは、天才少年山下清に対抗して展覧会を開いたとか。

貼り絵、遠足、日記などの日々を過ごしていた山下清ですが、1940年18歳になると政府から精薄児に対する給付金が打ち切られます。八幡学園はそのまま、山下清を預かろうとしていたのですが、当の本人は徴兵検査が怖いのと、何年も続いた学園生活に飽きたという理由で逃げ出します。

そこから約15年間は、放浪生活です。本人は「るんぺん」と言ってました。なんの目的もなく寒ければ暖かな地方に行き、暑ければ涼しい地方に赴く。嘘の口上を述べて家から食べ物を恵んでもらったり、住み込みで働いたり駅で泊まったりと。本人は「好きなところにフラフラ出かけていくのはそんなに悪いことではないだろう」と述懐しています。


山下清の放浪の旅支度には絵の道具は入っていません。「面白い」と思った場所を眺める、ぼんやりするためでした。よくドラマでみる、景色を見ながら貼り絵をするのはフィクションです。


15年間、あちこちのお馴染みの店に住み込みで働いたり、病気や盗難などなにかあると母の家に戻るか学園に戻って、長い放浪生活を日記にし、貼り絵を制作していました。住み込みで働いた弥生軒(今は我孫子駅の立ち食いそば屋になっている)の当時を知る人は山下清は仕事はとても几帳面で根気よく正直だったとのこと。弥生軒で地図を測ったりしだすと店の人は「また放浪に出るんだな」とおもったそうです。今では考えられない呑気な職場です。

1954年 「日本のゴッホ」として紹介され有名になった放浪中の山下清は鹿児島で発見され連れ戻されます。このとき八幡学園あてに「放浪を辞める誓」を出しましたが1ヶ月も経たないうちに出奔。しかしこの頃からは知名度が上がっていて放浪してもすぐ見つかり、地方でおもてなしを受けたり、絵の製作を頼まれてお金を貰いそれで宿屋にとまったり乗り物に乗れると分かり絵で食べていけるという自信が着いたようです。

「こんどは旅行癖も治したいと思うのだが そう簡単には治らない まだ半年くらいかかるだろう しかし 自分の家で お母さんと一緒に暮らして 自分の好きな絵を描くのはどんなに楽しいことだろうと 空想したりしている 放浪よ さようならだ」

1957年 母と弟と共に世田谷に家を買って住み、まだ海外旅行解禁前の1961年 ヨーロッパ旅行へ。映画「裸の大将」が大当たりし、人気画家となるも実際の自分と、映画のギャップに悩んでいたそうです。なのでいつもジャケットとスラックスとベレー帽というきちんとした身なりで出かけたとのこと。

1963年練馬区へ弟と転居。その後の山下清は、長い間酷使した目の不調などで、休み休み取材制作をしていました。アトリエには10時に入り12時の昼食、3時の休憩をとり夕方5時にはピタリと作業をやめたそうです。そして家族と晩御飯を食べながら語らうのが日課でした。酒は飲まず、お嫁さんは「貰うなら年上がいいな」といい、会合でカレーが出ると轢死体の話をして嫌がられたりしてます。晩年、接待の機会が多く、太ってしまいます。血圧も180くらいあったようで療養はしていたのですが49歳の夏、「今年の花火見物はどこに行こうかな」の言葉を最後に脳溢血で倒れ、この世を去りました。



1 山下清の誕生ー昆虫そして絵との出会い


八幡学園に入れられる前、8~10歳の頃の鉛筆画。ここで印象的だったのは、母親の容貌をとても丁寧に綺麗に描いていることです。花火の絵もあって興味深いです。


次に八幡学園に入ってからの作品。学園の授業の一環で「ちぎり絵」を始めたばかりの作品です。ものを正確に記録しようとする姿勢が分かります。私が好きなのは就寝の様子を描いたもの。ちぎり絵の効果か、お布団の絣の生地がとてもよく描けています。


2 学園生活と放浪への旅立ち


この頃は後に傑作と言われる作品が多いです。なんと言っても「長岡の花火」の出来は格別で細くこよりにした紙を貼り付け、大胆に赤い花火が打ち上がるところに目が行きます。以前見た時より色褪せた気がしますが貼り絵という特性上仕方ないのでしょう。花火見物の人々がぎっしりです。遠くに行くにつれ、人々は小石のようになってますりこのグラデーションは田中一村の傑作「アダンの海辺」の、砂浜のようです。水にうつる花火、打ち上がるひょろひょろした花火。遠くの山々。何時間も見つめていた美しいものが紙面に一斉に開いたようです。


山下清は桜の花のことを「きれいだとおもっていつまでも花をながめていてもおもしろかない 花はちょっと一目見るのがきれいです」と言ってます。面白い景色は何日でも見るけれどさくらはちょっと見る、という向き合い方の違いに驚かされます。


以前アートフェアで「トンネルのある風景」という貼り絵を見た事があります。この絵も出品されるかな?と思ったらありませんでした。残念です。


3 画家山下清のはじまり


絵描きを職業として決めてからは、日本各地を回り貼り絵だけでなく、ペン画、作陶、油絵など様々な技法で独特の世界を描いています。

「小石川の後楽園」1960年の作品は、ローラーコースターを画面いっぱいに描いています。縦の線は真っ直ぐにレールはカーブし、傾斜がついてます。複雑な迷路のような作品で、見てるこちらまで乗り物酔いしそうです。


ペン画は、つぶの揃った点描です。油絵は、あまり得意ではなかったようですが点描で描いた作品が味わい深いです。




4 ヨーロッパにてー清が見た風景


どうしても外国を見てみたいという山下清のために、海外旅行自由化前の前、外務省に掛け合って実現したヨーロッパ見学。


このとき、初めて自分からすすんでスケッチブックをカバンに入れたそうです。スケッチはかなり簡略的なものでした。帰国すると見てきた風景をペン画に水彩を施したもの、ペン画、貼り絵、陶磁器を制作。どれも素晴らしい出来!私が好きなのはスイスを描いた風景で、遠くの山々が迫る迫力まで再現しています。



同じ風景を、季節を違えて描いたものは想像力のなせる技です。この旅行では、先進国ヨーロッパの立派な風景、大きな人間にやたらと劣等感にせめられ、帰国して最初に言った言葉は「今度は土人がいるジャワかスマトラに行きたいな」とのこと。物事の上下にこだわる山下清ならではの感想です。

海外を描いた作品は、こよりを筆跡のように、弧を描いて連続させたり、水に写り込む風景まで丹念に描かれているので見応えがあります。


5 円熟期の創作活動


遺作、「東海道五十三次」連作。

これを見るのは初めてで、驚きました。「ふつうの景色はふつうにしか描けない」と言っているのです。(東海道五十三次・庄野)絵を描く時はいつも、特別に面白いと思った景色を書いてるんだなぁと思いました。このシリーズについている文章はるんぺんをやりやすいか、にぎりめしを貰えるかなどが書かれており山下清の旅のモノサシがうかがえます。それにしてもいきなり人のうちに行って五、六軒に1軒は貰える時代。コロナを経験した今なら、信じられない昭和の良さです。


沢山書きましたが山下清の好きなところは彼の言葉の一つ一つ(芦屋雁之助の口調で脳内再生される)に誘われてみるのんびりした昭和の田舎の風景作品です。昭和初期〜戦争〜戦後の復興をあちこち見て歩いた貴重な体験が1枚の貼り絵に凝縮されているのです。やっぱり好きだなぁ、山下清。


山下清の言葉


デパートで僕の絵の展覧会があった 食堂で飯を食べていると僕の前にいる人が「わしも山下清に 毛が生えたような男です」と他の人に話していた

僕はビックリして「僕に毛が生えるというのはどういう訳ですか どこに毛が生えるとあなたになるのですか」と聞いたら皆がどっと笑った


長崎に行ったら 新しい服を着て 下駄を履いてきたと新聞に出された 僕はボロボロの服を 着ていた方が良いのだろうか もう放浪は辞めたのだから 人並みの服を 着て歩いても良いだろうと思うのだが やっぱり僕にはあわないらしい


いい夢でも悪い夢でも 夢は夢だな 覚めればおんなじだ


 ナマニクさんが、音楽担当しています!


 



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 ナマニクさんが寄稿しています!


 


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